表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蜉蝣の夢   作者: 笛霧人
4/4

みずえの章


 橋の上から,夕景を眺めていた。黄昏は街

を,赤と黒に塗り替える。川面には,虫を狙

った蝙蝠が,低く飛び交っている。どれ程の

蝙蝠が夕空を舞っているのか。それを数える

行為はとうに捨てていた。只,彼女達の内の

5匹ばかりが,川岸にある草場の一点上を,

獲物を物色するでもなく,悲しげに乱れ飛ん

でいるのが,気になりだしていた。

 土手を川岸に駆け降り,蝙蝠の舞う草場に

近づいてゆくと,彼女たちは思い思いの方向

に飛び散って去った。

 草場を探ると,一匹の蝙蝠の躯が手に触れ

た。未だ,温もりを残している。息絶えてか

ら,時間はそれほど経っていないだろう。

「此処に居たんだ」

 みずえの声がした。視線を上げると,土手

の上で,彼女は軽く息を弾ませながら,俺に

笑いかけていた。

「遅いんで,捜しに来ちゃった。ご飯だよ,

帰ろうよ」

「そうだな,帰ろうか。いま,そっちに行く

から」

 俺は蝙蝠を抱え上げ,両手で柔らかく包み

土手を上がっていった。

「さあ,帰ってご飯たべよ」

「あれ,達也,なに大事そうに持ってるの」

「蝙蝠さんの亡骸。アパートにこっそりお墓

つくっちゃうんだ」

「なんだかねえ。この人はほんとに,なにを

考えているんだか。ご飯食べるときは,ちゃ

んと手を洗うんだよ」

 みずえは呆れながらも,楽しそうな笑みを

浮かべている。俺たちは並んでアパートに帰

る道を歩きだした。

「達也のいきそうな所,順に見てきたの。達

也は,あの橋好きだったもんね」

「相も変わらずの,根無し草の極楽トンボで

申し訳ないです」

 自嘲的な笑みを浮かべながら,おれはみず

えの顔を見つめた。

 みずえは何時からか,俺の手を強く握って

いた。そして眼を伏せ,独り言でもいうよう

に「でも,達也が元気になって,良かった」

とぽつりと言った。

「本当に,心配したのよ。達也,どうかしち

ゃったんじゃないかって。眼を離すと,ふっ

と消えて失くなってしまいそうだったんだも

ん」

 みずえは,俺から視線を外したまま,話し

続けた。

「達也が寝込んじゃった日,覚えてる。あれ

から未だ,幾らも経ってないのね。随分,経

ったような気がするけど」

 俺が,夢のなかを彷徨っているあいだ,此

処でもいろいろと事件が有ったようだった。

 みずえと夕子には,今,どのように礼を言

っていいのか分からない。弥生さんにもだ。

「あの日,みんなが何処か変だったの。TI

N-BOYでも,達也の話になると,みんな

不思議そうな顔をするし。 完ちゃんも,弥

生さんも,達也の事が霧がかかったみたいに,

思い出せないって言うの。

 道郎なんか,『ねえ,達也ってほんとにい

たんだっけ』なんていうのよ。酷いでしょ。

思いっきりひっぱたいてやったわ」

 俺は黙って聞いていた。みずえは,ひとつ

ひとつ確認しながら,記憶を呼び戻している

かのように,ゆっくりと語っていた。

「胸騒ぎがして,急いで帰ってきたの。眠っ

ている達也が淡い光に霞んで,透き通るよう

だったわ。涙のせいだと思う。あたし,どう

して泣いてたのかしら。訳もなく涙がぼろぼ

ろ出て来るの」

 みずえに,あの日の感情が呼び戻されてし

まったようだ。次第に涙声になり,眼が潤ん

でいる。

「声をかけても起きてくれなくて。そのうち

に,達也って,あたしの夢だったのかなって

気がだんだんしてきたの。達也,このまま居

なくなっちゃうのかなって」

 みずえは今,自分が涙を流していることに

気がついているのだろうか。俺は彼女の言葉

に耳を傾けながら,ふとそんなことを思って

いた。

「あたしの中からも,達也の記憶が薄らいで

ゆく。そんなの我慢できなかった。

 誰が忘れても,あたしだけは達也の事,覚

えてなくちゃいけないって,ふたりで一緒に

して来た事を夢中で思い出していたの。そう

したらまた,涙がぼろぼろ出てきちゃってさ,

 泣きながら,達也起きて,達也起きてって

揺すってたの。そしたら,急に起き上がって,

暫くボッとしてたかと思うと,『俺,帰って

きたんだね』なんて言うじゃない。あたし,

涙流しながら,笑っちゃったわ。

 今になると,ばかみたい。あの日は,みん

な,どうかしてたんだわ」

 そう言いながらも,みずえは半べそになっ

ている。俺は「ありがとう」と小声でいった。

「えっ,なにか言った」

「何でもないよ」と次は惚けてみせた。

 あの日の事は,みずえには何も話していな

い。なにをどう話せばいいのか,検討がつか

なかった。振り返るには,未だ時間が掛かり

そうだ。

「ねえねえ,産まれてくる子どもが女の子だ

ったら,名前は何にする」

「夕子か,愛美子」

「あら,躊躇なしね。どうして」

「好きだった人の名前」

「あっ,あっさり言いやがったな。てめえと

いう奴は,よくもぬけぬけと」

 みずえは冗談半分,本気半分に,俺の頬を

つねった。

「蝙蝠のお墓つくって,ご飯食べたらさあ,

TIN-BOY行こうよお」と彼女が言った。

 愛美子と夕子は,確かにあの街で生きてい

た。俺たちは今,この街にこうして暮らして

いる。俺の側には,今日もみずえがいる。

 俺達が此処にいて,俺に彼女たちの記憶が

残っている限り,愛美子と夕子も,形を変え,

生き続けていると信じていたい。

 俺とみずえの影は,果てなく,何処までも

伸びてゆく。

 今,新しい夢が始まろうとしている。そん

な夕暮れだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ