愛美子の章
恐怖に怯えていた。自己の存在を脅かす者
に対する,根源的な恐怖だ。今にして思えば,
愛美子を苛んでいた不安や怖れも,こいつの
眷族に属する者だったのだろう。
赤い薄闇の死の予感の中で,混沌の箱から
蘇る,あらゆる原始的な衝動が暴走を始める。
奴らは俺を内側からも崩壊させようと跳梁し
ていた。
混沌の箱を,最後に出たものは希望だと言
う。しかし,そんなおとぎ話を信じるほど,
楽観的な気分にはなれなかった。今は,内と
外から俺を解体する為に,襲いかかる者に抗
する事だけで手一杯だった。
「何をどうしたら,此処から抜け出す事が出
来るんだ」
・・・愛美子か,愛美子だけが知っている。
愛美子を捜そう。
俺は疲れ果てた身体を引きずって,宛のな
い行動を起こす事に決めた。
俺は愛美子の胎の中で,ともすると絶望に
支配されそうな心を鞭打ち,弥生さんの言葉
を繰り返し噛みしめていた。
………………
沼の辿り着く先,昇降機の箱の中で,俺は
愛美子に迎えられた。何故か,夕子の姿は何
処にもない。
愛美子は無言のままに,何かを思い詰めた
ような様相だった。色が退き,透き通るよう
な白い膚と,憂いの表情を併せ持った彼女の
顔は,儚げで可憐な日本人形を浮かばせた。
「どうした。何か有ったの」
俺の問い掛けは,虚しく静寂に消えた。愛
美子は,窓に広がる街を見入っている。フロ
ア表示のパネルが,激しく階を増してゆく。
街の灯が,何処か妖しく揺らめいて見せた。
「愛美子,何が有ったんだ」と,俺は再び問
いかけた。
愛美子は顔を向け,悲しそうな眼で見つめ
た。口は深く閉ざされたままだ。込み上げる
感情を,抑えているようにも見えた。
エレベーターはやがて,軽い振動と共に停
止して,ホールに口を開いた。愛美子が,初
めに乗り込んで来た時と,同じフロアだ。
愛美子は,滑り抜けるようにフロアに降り
立ち,ついて来いと眼で誘っている。後ろに
扉の閉まる気配を感じながら,俺は彼女の後
を追った。
光量の少ない赤色照明が,長い廊下を赤い
闇に染めている。
両脇の壁に無数に並べられた扉。扉と壁が
切り立つ狭間の,赤い絨毯の路。その路を暫
し彷徨い,愛美子は無限の扉のひとつに俺を
招き入れた。
明かりの灯された室内は晧々として,暗が
りに慣れた眼に眩し過ぎた。部屋はすべてを
さらけ出す事を衒っているようだった。
俺はベッドの淵に座り,次に有るべき愛美
子の言葉を待っていた。部屋の印象から,此
処は彼女の普段の生活の為,あてがわれた場
所に違いなかった。
愛美子は永い沈黙の末,意を決したように
「愛美子どうしたらいいの。助けてほしいの」
と小さく唇を揺らした。
「独りになるのは嫌なの,独りになるのは怖
いの」
愛美子は言葉を続け,身体を微かに震わせ
ながら,そっと俺の横に腰を落とした。
俺は,愛美子の震えを身体に感じ取りなが
ら,彼女を脅かすものの正体は何なのだろう
か,俺に彼女の不安を取り除く事が出来るの
だろうかと考えていた。
「愛美子はもう此処に居られない。独りっき
りで,誰もいないところへゆくの」と愛美子
は嗚咽を漏らしながら語った。
俺は呆気に取られ「何故,それはどう言う
事だ」と問い直した。
「分からないわ,何も分からない。でも愛美
子の中で声が聞こえる。それは達也さんに伝
えられないもどかしい真実なの。愛美子を信
じてとしか言えない。これは達也さんにとっ
ても,危険な事なの」
俺は愛美子の言葉に,ひとつ息を入れ,彼
女らしくもない,馬鹿げた考えを嗜めた。
「思い過ごしだよ。迷いに気を病んでいるん
だ。余り好い事じゃないな」
愛美子は悲しげな眼を俺に向けて「思い過
ごしじゃない。気の迷いなんかじゃないの」
と切なく訴えを続けていた。
「独りになるのは嫌。どうしたら良いのか分
からないわ。達也さんを巻き込みたくない。
でも愛美子は自分を護れないほど弱くなって
いる。抵抗して逆らうだけの強さは無いわ。
そして愛美子も心の奥で,達也さんが一緒に
来てくれる事を望んでる」
愛美子の言葉を受けて,口を開こうとした
次の一瞬,俺は軽い衝撃を受けて,ベッドに
投げ出された。
ベッドに仰向けに転がった俺の顔を,愛美子
の顔が覆う。口に柔らかく膨らんだ,彼女の
唇の感触があった。
唇を重ねながら,身体を纏う幾許かの布を,
愛美子はもどかしそうに剥ぎ取り,床に乱し
た。
薄く汗を滲ませた愛美子は,覆い被るよう
に,ベッドに転がる俺の両脇に手をつき,視
線で俺の顔を舐めまわした。
俺は惚けた顔で,彼女を見上げている。愛
美子とは,こうなる筈も無いだろうと高を括
っていた俺は,彼女の瑞々しい肢体に,無粋
に困惑していた。
「嫌なの,達也さんや夕子さんと離れたくな
い」
愛美子の白いしなやかな姿態が,じゃれる
ように絡みついた。
愛美子との艶事は,いつ始まり,いつ果て
るか知れない,時の流れの中で続けられた。
俺は愛美子の胎内に,そのまま飲み込まれそ
うな錯覚を起こしていた。
彼女の膚に溢れる芳香は,揺れ動く時間と
空間の波を誘い,汲み尽きぬ高揚を俺に与え
た。
時が失われて,既に久しい。此の戯れが,
刹那にも,永劫を彷徨うようにも思えた。
そんな中で,愛美子に変調が襲った。彼女
は突然に絶望の呻きをあげ,その体温を部屋
中に拡散させていった。
愛美子の肉体は重量感を失い,実像は次第
に希薄になっていった。俺の手にあったもの
は無情に腕をすり抜け,霧状に部屋を満たし
漂った。愛美子で在ったそれは,やがて壁に
染みるように,彼女の部屋と同化を果たした。
俺は,俺の眼で視た出来事に,そして視覚
以外の五感にも,疑いを持たざる得なかった。
これは幻覚に過ぎない。そうだ,愛美子が
こんな残酷な事態に巻き込まれる訳もない。
愛美子がいったい,何をした。・・それなら
・・愛美子に何が起こった。愛美子,愛美子
は何処に行った。
混乱する頭の中で,俺はそんなふうに考え
ていた。
何時からだろうか。シャワーの流れる音が
している。誰かがシャワーを浴びている。音
は確かに此の部屋のバスルームから聞こえて
いた。
全ては気の迷いだ。愛美子は何事も無くシ
ャワーを浴びているのだろう。俺は知らずの
内に,愛美子の匂いに幻覚の中へ追いやられ
ていたのかも知れない。
ためらいを捨て,俺はバスルームの扉を開
け放った。
バスルームのシャワーや蛇口は流れるがま
まにされていた。浴槽に女がひとり,こちら
に背を向け,眠るように身を沈める。女の手
首から流れる血が,浴槽の湯を桜色に染めた。
女が愛美子なのか。それを確かめる為バス
ルームに足を踏みだした瞬間,全ての流れ溢
れる湯が止まった。ゴボッゴボッと気体と液
体が絡みむせる音がする。そして次の一瞬に
朱色の生暖かい液体を一斉に噴きだした。俺
は飛沫を浴び,バスルームはむせ返る血の匂
いに満たされた。
シャワーは勢いを増して血液をまき散らし,
威嚇の雄叫びをあげた。バスルームには所構
わず飛沫が飛んでいる。血に塗れ視界は妨げ
られ,浴槽から溢れ床に溜まった大量の血液
は俺の足を取るべく狙いを定めていた。
次第に激しく猛り狂う血の嵐に,俺はバス
ルームを追われるのみだった。俺を排除した
バスルームは漸くに怒りを納め,静かに扉を
閉ざした。
押し戻された部屋は以前とは違う様相を呈
していた。
壁や床は柔らかく肉色に波打ち,天井から
は白く濁った液体が滴っている。床にはバス
ルームの扉の隙間から溢れる血と天井から滴
る液体が混ざり,徐々に嵩を増してゆく。明
かりは仄かに暗く,微かな紅色の点を灯して
揺れ,部屋全体が白く煙っていた。
置かれた状況も把握できず取るべき手段も
持ちえない。そんな境遇に投げ出され途方に
くれていた俺の耳に,愛美子の声が響いた。
「御免なさい。でもわたしには既に,何をど
うすることも出来ないの。わたしは愛美子で
すら無いのかも知れない。わたしは只,噴き
出す感情や欲望の凝り固まった化け物に支配
されているだけの人形。
深く暗い場所で泣いている愛美子を捜して。
彼女が消えてしまう前に。貴方が此処から出
られる唯一の可能性。愛美子を捜して」
愛美子の声は,俺の頭で鳴っているように
も,部屋を震わせ響いているようにも聞こえ
た。
「愛美子,何処だ。此処から出られるとはど
ういう意味だ。訳を聞かせてくれ」
「わたしは愛美子なんかじゃないの。お願い,
愛美子を早く捜して。時間がないの」
声は突然に止んだ。声を掛けても,もう何
の反応も帰ってはこなかった。
床に溜まり膝まで達した体液が,部屋に煙
る白い霧が,身体を細かく震わせる壁が,俺
を貪り尽くそうとしているようにも,退室を
促しているようにも思えた。
自分の無力を背負い部屋を転がり出すと扉
は独りでに閉められた。扉が開かれたとき流
れ出した大量の体液が,廊下を濡らした様子
は無かった。俺に纏っていた血の跡や体液も
微塵も無く消え去っている。
身も心も萎え,無意識の内に俺はエレベー
ターのホールを探して足を引きずった。愛美
子と俺に舞い降り許容を超えた変調が,思考
の停止と深い休息を要求していた。
眠りたい・・只それだけが頭に渦巻く。赤
い闇は,朝を呼ばない森のように俺を迷い子
に陥れた。
簡単に辿り着けると信じた出口は,ついに
見つけられなかった。来るときに一本路のよ
うに感じた廊下は,複雑な迷路に変貌してい
た。同じ場所をぐるぐる廻っているような気
さえしている。エレベーターの扉は掻き消え
たように何処にも無かった。
どれだけ永い間,彷徨っているのか検討も
つかない。眼に入るものは,迷路のような廊
下の赤い闇と無数の扉だけだった。幾つかの
扉も開けても,すべてが主も手掛かりも無い
部屋だった。俺が逃げだした扉も,今となっ
ては何処に有るのか分かりはしない。本能と
弥生さんの言葉だけを道標に愛美子を捜し,
宛もなく闇雲に歩きつづけていた。
子供の泣き声がしている。泣き声は廊下に
反響して部屋の特定は出来ない。此処からほ
ど遠くない部屋の一室に違いないと確信した
俺は,声を便りに扉を片っ端から開けて廻っ
た。
最初の扉は蜘蛛の糸が縦横に張りめぐらさ
れた部屋だった。蜘蛛が無数に蠢いている。
中に入り手掛かりを捜す事は到底叶わない。
声はこの部屋のものでは無かった。
次の扉には,巨大な振り子が重く揺れてい
た。振り子の先には研ぎ澄まされた刃が凶暴
に光る。振り子の全貌は見えない。時を刻む
音だけが鳴り響いている。振り子の根元には,
想像を絶する大きさの文字盤が存在するのだ
ろうか。揺れる振り子の後ろに荒野が広がり,
青い夜空に月が浮かんでいる。グリムの民話
の子山羊が隠れた時計の中もこんな光景だっ
ったのだろうとふと考えた。此処にも声の主
の姿はなかった。
赤い闇は内蔵のように蠢き脈打つ。耳を澄
ますと心臓の鼓動さえ聞こえて来る。愛美子
を捜し出し早く此処から脱出しなければ,こ
の闇はこの先どんな変化を遂げるのか想像も
つかない。
………………
三番目の扉は廊下と同様に赤色の照明を部
屋に配していた。薄明かりに浮かぶ人影は愛
美子のようだ。やっと彼女を見つけた。俺は
安堵に全身を弛緩した。
「愛美子,やっと逢えたよ」
そんな俺に愛美子は笑みを浮かべ「あら,
残念ね。わたしは愛美子なんかじゃなくって
よ」と冷たく言い放った。
「冗談は止めてくれ・・」と言いかけた俺は,
女の中にある愛美子と異なる何かを認めざる
得なかった。
「貴方,こんなひどい眼に逢っているのに,
未だあの女を信じているの。なんてお人好し
だこと。
まあ,そんなことはどうでもいいわ。どう
せ貴方ももう終わりなの,諦めて楽しみまし
ょう。愛美子とやってたことを此処でわたし
ともしようよ」
愛美子に似た女はそう言いながら服の紐を
解いた。衣擦れがして,女の身を包む布が一
瞬に足元へ滑り落ちた。彼女は一枚の布だけ
を身に纏っていた。赤い光線に彩られた愛美
子そっくりの美しい裸体が艶やかに踊り,
俺の首にすがり唇を重ねた。俺は思わず彼女
を振り払っていた。
女は俺から離れた瞬間,部屋に散った。部
屋にはあらゆる体液の匂いが充満していた。
愛美子の時と同じだった。
「諦めなさいって。無駄なんだから。お馬鹿
さんね」
女の声が響きわたる。俺は部屋を逃げるよ
うに後にした。
………………
ためらいながらも無数の扉を開け続けた。
それぞれが心象風景か悪夢を見るような体験
だった。中には愛美子と見た映画や俺と愛美
子の旅の記録を上映する部屋も在った。
極度の疲労の為,自棄的に気の遠くなる作
業を放棄したとき,居場所を知らせるように
一際高く子供の泣き声が響いた。俺は気を持
ち直し,その声が消えて仕舞わないよう祈り
ながら声の出所を追った。
………………
声は俺を一枚の扉の前に導いた。不安に怯
える心と戦いながら,扉をゆっくりと開いた。
部屋の中央では夕子が泣き疲れて眠る五つ
六つ位の幼女を腕に抱き抱えて立っていた。
暗い部屋の中,彼女達の周りだけが白く浮
かび上がっている。
「達也,この子が貴方の捜していた愛美子よ。
ほら,可愛いでしょ」
夕子は幼女に愛おしそうに笑みを向けた。
「光の都はね,それぞれの夢の流れ込む湖に
建てられた街。全ての人が共有する夢の磁場
に成り立つ世界なの。個人の夢を超えた,人
々の意識が集まる,そんな場所。
でも達也はそんなこと信じないかもしれな
いわね。
あの街にはいろんな人が訪れて来る。たま
たま紛れ込んで来る人。街の磁場に魅き寄せ
られる人。そして月上荘のフロアとエレベー
ターが,それぞれの夢とこの空間の接すると
ころ。
達也のフロアで達也は自分の夢を視る。そ
して此のフロアは愛美子の夢。わたしたちは
永い間,そう,貴方達の時間では気の遠くな
るような永い間,貴方たちが迂闊に他人の夢
に紛れ込んで仕舞う事の無いよう,気を払っ
てきたの。それもわたしたちの仕事のひとつ
だった・・・。あら,愛美子もう眼を覚まし
たの」
夕子は愛美子だという幼い子供をそっと下
に降ろした。幼女は眠りから覚めたばかりで
未だ何も分からないというふうに,夕子のマ
ントの裾を握っている。先程まで自分が泣い
ていた事すら忘れているようだ。
「達也と愛美子が巡り逢うように計らったの
はわたしでした。
愛美子の時間は僅かしかなかった。それが
タブーを侵す危険を孕んでいると知っていて
も,わたしは独りにされる愛美子が不憫だっ
た。そして達也なら愛美子の残された時を,
彼女の幸せの為に使ってくれると信じたの。
間違いだったかも知れない。それが愛美子
の心を乱す結果に成ったのかも知れない。貴
方にも辛い思いをさせてしまった。
貴女も愛美子もそれを許してはくれないか
も知れないわね。でも,わたしのたったひと
つの我が儘に後悔することは止めるわ。
愛美子と達也は良く似ている。達也,覚え
ているかしら。あなたが初めてわたしの所へ
来たときを。
貴方は夢のフロアを彷徨い,泣きながらあ
の街へ魅きつけられるように歩いてきたわ。
貴方は辛いことを振り切り忘れるように泣き
じゃくっていた。
どうしたの迷子になったのって尋ねたら,
泣くことも止まず,しがみついてきたわね。
貴方といろんな所へ行ったわ。光の都で遊
んだり,冬の駅も,黄昏の街も。 貴方の笑
顔が嬉しかった。達也は可愛かった。わたし
は達也と愛美子をずっと愛していたわ」
夕子の言葉にあの街を,彼女を初めて訪ね
た時の記憶を蘇らせていた。それは俺が事故
で父母を失くしてから,間もない頃の事だっ
た。それからの俺は,夕子を慕ってあの街に
足を運ぶようになった。俺の心の傷の薄らぎ
と共に。
俺は何時とは気づかない内に涙に濡れてい
た。
「行きましょう。愛美子が大分落ちついてい
るわ。今なら貴方を送り返してあげることが
出来る」
夕子は愛美子の手を引いて,俺を廊下への
扉に誘った。赤い廊下は情念を捨て,存在を
希薄にしたような気がした。
「愛美子は此のフロアのホールで産まれたの。
産着に包まれエレベーターの扉の前で泣いて
いたわ。
わたし達は赤ん坊を愛美子と名付け,皆で
育てることにしたの。愛美子はとてもいい子
だった。わたし達に愛美子が居てくれる事は
皆の喜びだった。愛美子はそんな中で,愛ら
しい娘に育っていった。とても永い時をかけ
て。
いえ,愛美子が成熟に要した時間は,達也
達にすればほんの僅かな時間に過ぎなかった。
達也も知っているように,フロアや街の時の
流れは,気まぐれに揺れ動くものだから」
夕子は俺を導き,幾つかの廊下の角を曲が
りながら話を続けていた。廊下や扉,恐らく
はそれぞれの部屋も,その色合いや密度を次
第に薄れさせていた。
「愛美子の母体となった娘はあやまちで男を
殺め,みずからをも儚んだの。でも死にきれ
はしなかった。
彼女が自分の死に直面したとき,自らの境
遇を憐れみ,望みながら得ることが叶わなか
った幸福な家庭と子供を夢見た。そして彼女
は彼女の心を自分の子供としてフロアに産み
落としたの。
愛美子が成長するに連れ,愛美子の心の奥
底にあった彼女の母の記憶が,愛美子の幸せ
を望む反面,罪の意識から愛美子の存在を否
定して,愛美子を責め苛む事のみで自我を保
つ,もうひとりの子供を愛美子の中に産んだ。
わたしは彼女と愛美子を何とか分離させて,
育てようと試みたけど叶わず,他に方法もな
く愛美子の深層に愛美子の妹である彼女を幽
閉したわ」
俺は黙って夕子の言葉に耳を傾けた。夕子
は悲しみに眼を伏せるようにして,束の間の
沈黙に入った。
道のりは未だ長く果てしなく感じさせた。
「今,貴方達の世界にいる愛美子の母が,真
実の死を迎えようとしている。そして愛美子
も一緒に連れ去るつもりなの。
愛美子の妹は深層に棲むが故にその事を知
り,それを愛美子に告げ,脅していたわ。
必要以上に恐怖心を煽り,愛美子を生きて
いる資格の無い女と罵り,愛美子を容赦無く
切り刻み,自分も傷ついていた。
その結果,愛美子は恐怖と不安に脅え,自
らを卑しみ,感情を抑制できずに退行してい
ったの。
愛美子の暴走した力は予想以上に凄まじか
ったわ。フロアを閉ざし,此処だけでなく街
にも少なからず影響を与えていた。お陰で街
の防衛機能が働き,街そのものが変貌してし
まったの。面影を残さない程に。
わたしは混乱の中で,唯一の接点になる達
也のフロアから愛美子への扉を捜して此処に
もぐり込んで,愛美子を見つけたの。
愛美子もやっと落ちついてくれたわ。彼女
の妹も既に此処にはいない。
あの娘の望みは愛美子と共に朽ち果てる事
だったの。あの娘も可哀相な娘だった。でも
彼女は一足先に行ってしまった。
わたしは愛美子を何時までも手元に置きた
かった。でもそれを止めることは出来なかっ
た。
間もなく此のフロアは消失するわ。達也を
此処から出してあげなくちゃ」
夕子は立ち止まり,ひとつだけ開け放たれ
た扉を見ていた。扉の中には光る霧に霞んだ
階段が,螺旋を巻きながら下へと伸びていく
のが見えた。
夕子がマントで包み込むように俺を抱いて,
頬をあわせた。
「達也,お別れね。貴方を愛していたわ」
夕子はそう告げると,愛美子を振り返った。
愛美子は何時しか愛美子本来の姿に帰り俯い
ている。
「愛美子,わたしが貴女と行くわ。わたしが
一緒なら愛美子も寂しくは無いわね」
愛美子は俯いたまま頷き,夕子の手をそっ
と握った。
暫くふさぎ込んだ末,俺はふたりに向かい,
やっと重い口を開くことが出来た。
「俺も一緒に行きたい。連れていってくれ」
沈黙のあと,夕子は眼を伏せ拒絶の言葉を
言い放った。
「駄目よ。貴方には帰るべき場所が有る。貴
方を待っている人が居る。お帰りなさい」
俺は俺の街,みずえの元へ戻らなければな
らない。それは忘れるべき事では無かった。
「達也さん,御免なさい。でも貴方とずっと
一緒に居たかった」
愛美子が顔を上げ,か細く囁いた。俺は涙
を止めることも出来ず,別れの言葉すら声に
ならない。
「もう時間は無いわ。達也,早く行きなさい」
夕子が俺をせき立てた。思いを振り切り俺
は彼女たちに背を向けていた。深い霧に身を
沈め,螺旋階段で彼女達を振り返った。夕子
と愛美子の姿は既に視えなくなっていた。階
段は俺が降りる端から霧に飲まれ消えてゆく。
螺旋を下り終わっても,霧は一面に立ち込
めていた。霧は纏わりつき,視界と自由を奪
っていた。
俺を微かに呼ぶ声が聞こえる。みずえの声
に似ていた。俺は声のする方向へゆっくりと
歩きだした。