弥生の章
みずえと暮らすようになって,3年が経つ。
長い髪のみずえは,大きく澄んだ黒い瞳を
絶えまなく動き廻らせ,常に自分の興味を満
たしてくれるなにかを捜す。
ふっくらと誘惑的な紅い唇をいつも好奇心
に濡らし,比較的肉付きのいい体型と,気さ
くな物怖じしない性格を持つ。
「あっ,また遠い眼をしてる」
みずえの膨れた声が耳元に響く。
「最近,達也おかしいわよ。すぐにぼうっと
して。いったい,なにを考えているんだか」
あきれた顔でみずえは,手元のグラスを口
に運んだ。
気が向いたときに立ち寄る「TIN-BO
Y」は,俺とみずえで借りているアパートの
近くにある路地裏の飲み屋通りを中程にいっ
た,狭く急な階段を2階に昇った小さな店だ。
「しょうがないんじゃないの。達也がぼっと
してるのは,今に始まったことじゃないんだ
からさ」と店の常連客の道郎が笑いながら,
ちゃちゃをいれた。
「あんたに言われたくはないけどね」
みずえは切り返して,「でも,そんなんじ
ゃないの。なんか,ここんところすぐに何か
考え込んじゃって,なに聞いても生返事にな
っちゃうのよ」と言葉を続けた。
「もしかして他の女に,ちょっかい出してん
じゃないでしょうね」
まさかそれはないと高を括って,みずえは
笑っていった。
「こんなのに,よそ様のお嬢さんを傷物にさ
れた日にゃ,あたしゃどう謝っていいんだか」
「みずえさんの二の舞ってわけね。あっ,い
てっ」
みずえは俺のほうを向いたまま,道郎の頭
を空いた小鉢で小突いた。
「でも,なんぼ達也でも,そんなすぐばれる
ようなへまはしないっしょ」
道郎はまた殴られていた。
店には50年代から60年代位のブリキの
玩具が数十体,無造作にディスプレイされて
いる。俺はその中でも特に気に入っている,
天井近くに吊られた銀色のブリキの飛行船に
眼をやりながら,「そんなんじゃないよ」と
みずえに言った。
「そんなんじゃなかったら,どんなだってい
うのよ」
夢のお嬢さんの事をぼおっと考えてはいた
のは確かだが,特にちょっかいを出した覚え
も,傷物にした覚えもなかった。
「ここんとこ俺,なんか変な夢を見るんだ。
ねえ,完ちゃん,これもう一杯ちょうだい」
「あっ,完ちゃん,あたしもおかわり」
俺とみずえは飢えた雛鳥のように,店の主
人に酒をねだった。
「ちょっと待ってね。いま弥生さん,絶好調
だから」
TIN-BOYの主人の完二は,カウンタ
ーの中で包丁を使いながら,女王様の相手を
していた。店の常連客のひとりで,へべれけ
道を究めた,へべれけ女王の弥生さんだ。
「達也っ,お酒が飲みたくなったら,自分で
つくんなさい。もう子供じゃないんでしょ」
弥生さんは,据わった眼でゆっくり俺を捜
し,筋が通っているような,通っていないよ
うな説教を垂れた。
「はいはい,わかりました。完ちゃん,カウ
ンター入るね。ついでに,お店手伝っちゃう
かな」
「わるいね,達也とみずえちゃんの飲み代,
今日は只にしとくから。適当に飲みながらや
ってて」
学生時代は飲み屋でバイトをしていたので,
だいたいの勝手は分かっている。この店の忙
しいときにも,何度か手伝いで入ったことが
ある。
「みずえさんは,これでよかったのね。後,
なんか欲しいものある。只にしてくれるって。
どんどん頼まなきゃ損するぞ」
「あたしは,まだいいや。それで,変な夢っ
てなんなのよ」
「うーん,そうだな・・・」
俺は,どう言うふうに話したものか考えな
がら,店を見渡した。
6,7人坐れるカウンターに,卓がふたつ
ある程度の店だ。卓のひとつに,時々見かけ
る2,30代の男が3人。カウンターでは,
俺の話を待つ,みずえと道郎の右手に椅子を
ひとつ空け,弥生さんが完二に遊んでもらい,
左のサイドに,初見のお嬢さんふたりが話し
込んでいる。
俺は煙草を手繰り寄せ,口にくわえた。
「エレベーターに乗っているんだ。エレベー
ターのオペレーターは夢のなかで昔なじみ。
窓から見える景色も,子供のときから繰り返
し見ている夢の街だ・・・」
俺は口には煙草,片手にグラスで,簡単に
はしょったり,纏めたりしながら,あの夢の
物語の語り部となっていた。
「・・・夢の続きを見たのは,二月位経って
からだった。
エレベーターで夢の女と再び会ったが,彼
女はあの別れ際の事をまるで覚えていなかっ
た。
完ちゃん,同じ夢,何度も見ることある」
俺は一息ついて,完二に呼びかけた。
「俺,俺のよく見る夢はね,身体がブリキの
人形になって,弥生さんにネジ巻かれる夢」
完二は本気とも冗談ともつかぬ顔でそう言
った。
「あっ,あたしも完ちゃんの夢,よく見るよ。
完ちゃんがきこりでさあ,あたしがね,ね
え,完ちゃん聞いてる」
「はい,ちゃんと聞いてますよ,弥生さん」
俺は客のオーダーをかたずけながら,話を
続けた。
「前には何年も間が開くこともあった街の夢
を,頻繁に見るようになった。それがだんだ
ん間隔が短くなってきているんだ。
一月に一度が,十日に一度,今では2,3日
置きに街を訪れてる。そこでその女の話し相
手になったり,一緒にいろんなところへ遊び
にいったり。
でも,彼女の顔を見ていると何故か不安に
なる。屈託のない,明るい女の笑顔の上に,
最初の別れに見た,すがりつくような,悲し
げな顔が被るんだ。
最初は夢のなかだけの事だった。でも度重
なるうちに,起きているときでも,目の前に
ちらついて離れないようになってきた」
俺は何本目かの煙草に火をつけ,言葉を続
けた。
「これで夢の話しはお終い。でも,続けざま
に同じ夢を見るのって,何か訳が有りそうじ
ゃない。
何か原因でも有るのかなって,ぼおっと考
えてたの」
「きゃー,達ちゃんやるー,もてもてー,こ
の女殺し」
みずえが訳の分からない感想を述べた。
「きゃー,あたしも殺して。さあ,殺せー」
聞いていたのか,いなかったのか,弥生さ
んはもっと分からないことを換いてた。
「煮て喰え,焼いて喰え,生で喰えー」
これも弥生さんだ。
「達也の話し聞いてるとさあ,俺もそこに行
ったような気がしてきたんだ。
街の画が浮かんでくるの。こんな感じって
想像するより,記憶が蘇ってくるっていうの
かな。リアルなんだ」
何かを考えていた道郎が,口を開いた。
「街はどうで,何処に何があるって,聞いて
いない事まで見えるんだ。
既視感っての。でもガキの頃の忘れてた事
を思い出したって,妙に懐かしい気持。
ひょっとしてそれ,達也じゃなくて俺が見
た夢じゃないかな」
「そんなわけはないでしょ。お馬鹿なんだか
ら。
でも,夢って面白いよね。自分を超えてる
って感じがするし,何かを教えてくれてるよ
うな気がするし」
「あれ,みずえちゃんも,そういうの好きな
んだっけ。」
道郎とみずえは夢や,夢に纏わる話しに夢
中になった。サイドのお嬢さんふたりも気に
なっていたらしく,途中から話に加わり,身
を乗り出している。
「達也,ちょっと買い物いってくるからさあ,
店,頼める」
「あいよ,完ちゃん」
「ついでに弥生さんと戯れててやって。あと
2,3杯で発作がおきると思うけど」
「げっ。あいよ,逃げる準備しとく」
「完ちゃーん。あたしを捨てて何処行くのー。
お願い,戻ってきてー。完バッーク」
派手な音がした。どうやら完二が階段から
落ちたらしい。
「まあまあ,完ちゃん亡き後,おぜうさまの
お相手は,不肖ではございますが,わたくし
がしっかり努めさせて頂きますから」
「あら,達ちゃん。御無沙汰ー。いったい何
処で浮気してたのかしら。憎いわ。キュー」
弥生さんに本気でつねられた。
「痛い,痛い,痛いってー。
ああ,痛かった。弥生さん,ご機嫌ですね」
「あら,あたしがお酒飲んでて,ご機嫌じゃ
無かったことがあって」
弥生さんの瞳孔は開ききっていた。
弥生さんは30半ばで色気の固まりだが,
怖い。まあまあ綺麗とも言えるが,怖い。
小さな劇団の女優をしている弥生さんの言
動は,何処までが酒で,何処までが演技なの
かはわからない。
弥生さんを嫌う人は少ないが,みずえとは
特に気が合うらしく,ふたりは姉妹にように
仲がいい。その事で,俺は将来に一抹の不安
を感じている。
そのみずえと道郎たちの探究は,深層がど
うだ,無意識がなんだという話しから,フロ
イトとユングはどっちが助平かという,当人
たちが聞いたら頭を抱えて寝込んでしまいそ
うなテーマに及んでいた。
客のオーダーも,落ちついたようだ。洗い
物でもかたずけようとしたときに,「ミギャ
ッ」と弥生さんが呻いた。
「始まった」
俺は声を上げ,他の客に警告を発した。
「ショータイムだ」
弥生さんはカウンターに跳ね上がると,丸
めた手で空を掻き,「ミャーン」と一声高く
鳴いた。彼女はもはや一匹の猫でしかなかっ
た。
彼女は店内をゆっくりと見回したあと,後
ろ足で器用に頭を掻きだし,おもむろにカウ
ンターを飛び下りると,客に媚を売りながら
店内を徘徊し,忍び足で外に出ていった。
弥生さんが出ていくのと入れ違うように,
完二が帰ってきた。俺はカウンター越しにド
アの完二に声を投げた。
「完ちゃん,弥生さん出ていっちゃたよ」
「知ってる。いま階段で足元をすり抜けてい
った。弥生さん,何処へ行くのって聞いたら,
ミャーだって」
「保護しなくていいかな」
「そのうち帰ってくるか,近所の店から引き
取ってくれって言ってくるよ。大丈夫」
弥生さんに馴染みのない客が「マスター,
すごいの飼ってるね」と声をかけた。
「あれはうちの福招き猫。あれがいなくなっ
たら,うちは寂れるの」
完二は事も無げに,言い放った。
「そろそろ子供でもつくってさあ,とっとと
結婚しちゃおうか」
TIN-BOYからアパートに帰る道,み
ずえがぽつりと言った。
「それって普通,順番が逆じゃない。結婚し
て子供つくるとか,出来ちゃったから結婚す
るとかさあ」
「だって,そうでもしないとはずみつかない
じゃない」
夏にしては肌寒い夜だった。みずえも,も
う25になる。
………………
閉じた冬の光景の中を,黒い鋼鉄のマスク
に覆われた列車が北に駆け抜けてゆく。愛美
子と俺にあてがわれた個室の窓には,無限と
連なる雪原が広がり,灰色の重くのしかかる
空の下,雪原との狭間あたりに青く光る凍っ
た森と湖,点在する二つ三つばかりの小さな
集落。それらが世界を構成するものたちだっ
た。剃刀のような風が時折吹き抜け,雪を宙
に舞いあげていた。
「湖にはね,言葉が眠っているのよ」
愛美子は初めての遠出に少し浮かれていた。
「そう聞いたことがあるの。誰に聞いたかは
忘れちゃったけど。
相手に届く事の出来なかった言葉が,行く
先を捜して彷徨っているうちに力尽きて,あ
の湖に落ちるの。
湖の底で,身体を寄せて冬の終わりを待っ
ているのよ。自分を届ける旅のため,また飛
び立つ日を夢見て。
あそこに行って,微かなざわめきに耳を傾
けると,青く光る言葉達のいろんな囁きが,
聞こえるんだって」
………………
みずえの横顔が夏の陽光を受けて,透ける
ように浮き上がっている。全身の産毛が光の
なかで金色に際立つ。
みずえの裸体に美しいサナギを連想してい
た。彼女にこれを告げると,虫と一緒にする
なと激しく責めるられることになるだろう。
みずえは俺たちのアパートで,夏の午後の
太陽を浴び,一糸纏わぬ美しいシルエットを
晒していた。不思議なことに,それ以前の記
憶は完全に欠落している。今,眼に映ってい
る光景だけが,まるで一枚の絵のように切り
離されていた。
夏の気だるい午後のアパートにみずえとい
て,俺は見知らぬ街に投げ出された異邦人の
ようだった。ただサナギに見とれながら,今
日が何時
なのか漠然と考えていた。
………………
冬の駅に足を降ろすと同時に,激しい寒気
が俺たちを襲った。プラットホームの人々は
皆,外套の襟をあわせ背中を丸くしている。
彼らは口数も少なく,ひたすら列車の到着を
街侘びていた。
冬の駅は深い雪に閉ざされた極寒の街だ。
街の大部分が雪に沈み,ドーム状のプラット
ホームだけが雪上に露出している。深い雪に
隠された広大な街,それが冬の駅だ。
愛美子と俺の旅は,この街で一泊したあと,
列車を乗り換え,黄昏の街に向かう。
………………
みずえの表情が,曇りがちになってきた。
原因は俺にある。みずえは,俺の影が薄くな
ったと言う。頻繁に虚ろな顔を見せるように
なり,日常の反応が鈍くなってきた。生きて
いる感じがしないときがある。一度でいいか
ら,医者に見てもらってくれと心配していた。
まるで的外れの心配でもないだろう。俺も
医者のことは考えてみる事にしよう。
………………
黄昏の街は,夏の日の夕刻の街だ。例の,
風景を見知らぬものに塗り変える独特の光線
を放つ街だ。夜の訪れを告げる夕日は,この
街ではいつまでも沈むことを知らない。
夕方を告げる様々な音の中で,街の中心に
位置する広場では,カーニバルが連日開かれ
ている。サーカス,メリーゴーランド,見せ
物小屋,観覧車,占い小屋,大道芸人,バザ
ール,紙芝居。全てが活気に溢れ,賑わって
いた。
「さあ,サーカスだよ。サーカスが始まる
よ」クラウンが呼び込む。「親の因果が子に
報い・・・」見せ物小屋では口上が響いた。
「坊ちゃん,嬢ちゃん,時間の縦軸と横軸を
駆ける,メリーゴーランドに観覧車は如何か
ね」「さあて,飴を買ってくれた子は前にお
いで,買わなかった子は後ろで見てね」「さ
あ,お立会い。懐より取りい出しましたるこ
の品は・・・」「メビウスの指輪に,クライ
ンの香水入れはいらんかね」「失くしたもの
あるよ。あなたが失くして,見つからなかっ
たもの何でもあるよ。失くしたもの屋だよ」
「長年の研究の末,ついに私,Dr.・・は
重大な発見をするに至り・・・」
口上が飛び交う。愛美子は興味深そうに,
視線を泳がせている。
「スリやひったくりが多いから,気をつける
んだよ」
「大丈夫。取られて困るものは,何も持って
ないもん」
愛美子は嬉しそうだった。彼女は,何時に
無く浮かれていた。
俺はそんな彼女を愛しく見ていた。それは
恋愛感情ではない。多分,俺が彼女に抱いて
いる感情は,自己愛に酷似したものだろう。
そして彼女が俺に抱く感情も,それに類する
ものだと思う。
「先ず,どこに行こうか」
「任せるわ。何があるか分からないし。でも
皆,楽しそう」
「そうだな」
何処に行こうか思案をしていると,誰かが
袖を引いた。ふとその先を見ると子供が,俺
の袖を握り,見つめていた。
「おじちゃん,万華鏡買っておくれよ」
黄昏の光線のせいで,本当の子供かどうか
は分からない。
「万華鏡か,懐かしいな。見せてごらん」
子供から万華鏡を受け取り,覗き込んだ俺
が見たものは,例の無尽に変化する幾何学模
様ではなく,幻視とも言える様々なビジョン
だった。
………………
夜の電車の車両は非日常的な空間だ。内と
外の様々な音,光,そして影の協調と対立に
因り,微妙なバランスを保つ世界だ。灯を晧
々と灯す無人の列車とすれ違ったとき,おれ
はそう直観した。
一瞬に遠ざかる踏切のシグナル,窓ガラス
のドッペルゲンガーは光の加減で時には美し
く,時にはこの世ならざるほど醜く映り,
レールの継ぎ目から伝えられる単調な振動音,
揺れる街の灯,遠くの警笛,人々を蝋人形の
ように浮かばせている室内灯。
それらは偶然を装い,意識の裏に忍び込も
うとしている。
今,ビルの鏡の壁を,電車がすり抜けてい
った。その電車の中の俺が,じっと見つめて
いた。向こうからすれば,こっちの俺が影な
のかもしれない。
地を這うもの,大空を凌駕するもの,水に
遊ぶもの,地中を蠢くもの。あらゆる交通機
関は昆虫から進化したものかもしれない。そ
んな幻想を抱かせるほど,夜の電車には静か
な狂気を内包していた。
………………
愛美子と映画を観ている。狭い劇場らしく
映写機がカタカタと鳴るのが聞こえてくる。
カメラは俯瞰位置に固定され,広角でバス
ルームを映している。
スクリーン中央の浴槽に女が身を委ね,軽く
持ち上げた左手の手首から流れる血を見つめ
る。
レンズはバスルームのセットをはみ出し,
取り囲むように浴槽を狙う,3台のカメラま
で映し出している。TVカメラ様の旧い大型
のターレット式のやつだ。まるで冷静な観察
者のように,浴槽の女を記録している。
サイレント,モノクロのスクリーンに,赤
だけが鮮やかに映える。俯瞰のアングルから,
女の顔は陰になって見えない。女は身体を小
さく震わせて泣いているらしい。弁士の声が
唐突に響く。
「ああ,メリーさん,メリーさん。哀れなる
かなメリーさん。
『おお,何ということをしてしまったんでし
ょう。間違いとはいえ,ロバートを殺してし
まうなんて』
痴情のもつれ,揉みあった末の弾みに,ロ
バートを殺めてしまったメリーさんは,バス
ルームで西洋剃刀をそっと手首にあてるので
した」
セットのドアの隙間から,横たわる男の足
が見えていた。
浴槽に張られた湯は,赤く染まり,浴槽か
ら溢れて流れだした。天井から滴る水滴も血
に変わっている。やがてスクリーンは真紅に
染められていった。
………………
「完ちゃん,俺最近,何か変なんだ」
俺はTIN-BOYのカウンターに座り,
完二と話している。みずえの姿はない。
俺の横に弥生さんが,酔いつぶれ寝ている。
三人の他に,店には他に誰も居なかった。今
日のTIN-BOYは何故か薄暗く,そのせ
いか完二の顔は影になり,はっきりしない。
完二は俺の言葉に無言で頷きながら,しき
りに皿を拭いている。
「俺が夢を見ているのか,それとも現実の世
界に居るのか,分からなくなるの。いつでも
夢うつつって言うのかな。そんな感じ。
みずえが心配するのも,よく分かるんだ」
弥生さんが,寝ぼけたように起き上がり,
俺を見つめていた。彼女は酔った頭で何か考
えを纏める仕種をしている。
「達也。達也さえ,しっかりしていれば何も
心配は無いからね。みずえちゃんの事,忘れ
るんじゃないよ。弥生さんの事も,忘れたら
承知しないからね。達也,きっと此処に帰っ
て来るんだよ」
俺は,訳の分からないうちに,頷いていた。
弥生さんは,それだけを一気にまくし立て,
また幸せそうな寝顔を見せていた。
「達也さあ,酔っぱらいの戯言だけど,今の
弥生さんの言葉,よく覚えておきな。
弥生さんの言葉って,その時は何いってん
だかわかんなくても,後になって染みてくる
事が,よくあんの。ああ,この事いってたの
かってさ。何か神がかっちゃってるのさ。徒
や,おろそかにすると罰当たっちゃうよ」
「弥生さんの天罰なら,そりゃ恐ろしいわ。
わかりましたよ。俺,何があっても,此処に
きっとけえって来るよ」
「あいよー。あたいも待ってるさあ」
弥生さんは寝ぼけながら,俺に答えてくれ
た。
………………
愛美子の様子が,おかしい。顔色は悪く,
日増しに元気が失せてゆく。
何でもない,特に訳はない,ただ自分が此
処から,消えてなくなりそうな不安に駆られ,
意味もなく怖くなったり,悲しくなったりす
る事があると言ったあと,「おかしいでしょ
う」と力なく笑った。
正体のはっきり見えないものに怯える表情
が痛々しい。しかし,原因を特定できない以
上,俺にはどうする術もない。苛立たしい。
薄暗い紅い証明に染まった廊下で,産着に
包まれた子供が泣いている。やがてハイヒー
ルが床を刻む音がして,女の手が子供を抱き
上げた。子供の泣き声は,無邪気な笑い声に
変わり,そこで夢は終わった。
………………
「大丈夫かなあ」
みずえは慌ただしく,身支度を整えながら,
時折,心配そうに俺に眼をやる。
「大丈夫だってば。ほら,早くしないと弥生
さん,待たせちゃうよ」
「それじゃ,行ってくるけど。何か有ったら,
TIN-BOYに電話するのよ。弥生さんと
寄る事になると思うから」
俺は朝からの頭痛と微熱で,今日の仕事を
さぼり,身体を休めていた。
みずえが,会社を終えて,弥生さんと待ち
合わせた時間までの僅かな隙間を見つけ,様
子を見に戻っていた。
「大した事ないから。気にしないでゆっくり
して来ていいよ」
頭痛も熱もそれほど辛いものではなかった。
只,それに付随する抑制できない,倦怠感に
苛まれていた。
みずえを送りだした後,俺は無気力にベッ
ドに身を投げ出し,ふたりの部屋を視点を定
めず眺めていた。
俺のもの,みずえのもの,ふたりのもの。
知らず知らずに,この部屋にいろいろな物が
溢れていた。テーブルの上には,何時のもの
か,夜店で買った,ねじれた玩具の指輪が転
がっている。
異常な程,疲労を感じる。疲れのため,身
体がベッドに深く沈んでゆく。ベッドは何時
か,泥の沼に変わっていった。何かが意識の
足を引っ張ている。抵抗する気力は,何処に
も残っていなかった。泥沼に身体を預け,俺
は只,沈んでゆく自分を見つめていた。