夕子の章
夢を歩いていると,以前にも足を踏み入
れた事のある場所に,ふと迷い込むことが
ある。
以前,何処かで読んだ小説の,冒頭の一節
が頭をよぎり,断続的な低いパルスとともに,
脳の奥深くへ,ゆっくりと楔を打ち込む。
他のものとは,確かに違う色彩を持った
夢たち。その群れを,朧な記憶ではめ込ん
でいくと,一片の地図が出来上がる。おそ
らく,それは夢という空間に実在する,も
うひとつの街に違いない。
脳髄を直接襲い続ける,振動の素因。それ
が,名も,作者も,内容すらも忘れ,ほんの
ひとかけらだけが残された小説の記憶なのか。
或いは,この街の持つ,秘めやかな胎動が,
俺自身と呼応して共鳴作用を起こしているの
だろうか。
この街に棲み,飽くなき高さと美しさを競
う無数のビル群は,月に煽られた水底の水晶
のようで,様々な彩りの光虫たちが,まわり
を揺らめいている。
街全体が,忘れられた未来と讃えたくなる
ような,昔日のモダニズムに溢れていた。そ
の夜景を,俺は上昇するエレベーターの箱の
窓から,なにをするともなしに眺めている。
光の都と呼ばれ,超高層の建造物が林立す
るこの街。訪れるのは,何故か必ず夜になる。
そして決め事のように,このビルの,このエ
レベーターに乗り込む。
ビルは街の中心に位置し,中央部に駅のプ
ラットフォームを持つ。そこからは,冬の駅
やその他の主要駅に向け,かつての20世紀
号,アジア号の雄姿を引き継いだ,流線型で
重厚なデザインの列車が送りだされている。
プラットフォームを間に挟み,下には基本
的な都市機能を集中させ,上には,この街で
唯一のホテルになる月上荘を構える。
この街の大きいビルの幾つかは,屋上に飛
行船が発着できるように造られている。そし
て月上荘の真上が,光の都が誇る巨大飛行客
船「月光号」の母港になる。そのひとつから
飛び立った巨大な飛行船が,夜間照明のなか
で,いまも踊っている。
・・・そういえば,今日は月光の出航日だ
ったな。
数カ月の休息を終え,月光号が今日その雄
姿を大空に舞い上がらせる。俺は,母港に巨
体を横たえる,飛行客船に思いをはせていた。
ビル間の連絡は,このビルを中継点とした
モノレールが使われ,高層の建造物の外,街
の底辺に,もうひとつの都市空間を築く,ス
ラム・・混沌の時代の記憶から,便宜上そう
呼ばれているに過ぎないが,過去の気質は色
濃く残すと聞く・・との関係を絶つため,そ
れ以外の移動手段はない。街は,模索の末に,
完全な二重構造を構築している。
ビルの狭間に月が漂い,街の底へは滝壺の
ように夜が流れ込む。
この街の夜景を眼にするのは,幾度めにな
るだろう。最初に訪れたとき,まだ子どもの
ころ,此処に迷い込んだ興奮は,いまだ褪せ
ることを知らずにいる。
・・・いつまでたっても,ガキみてえだ。
もうすぐ32になるっていうのにさ。
呆れながらも,そんな自分が気に入ってい
た。多分に俺にはナルシストの素養が有るよ
うだ。
「ステーション・フロア,まもなく通過致し
ます」
思考を遮るような背後の声。街に浮いて彷
徨っていた視点は,エレベーターの内部に帰
っていった。
同乗するエレベーター・ガールが,振り返
り俺に微笑んでいる。
「藤井様は,お部屋にお戻りになるのでした
ね」
彼女は,6人いるエレベーター・ガールの
ひとりで,端正な顔だちに,濃いブラウンの
帽子を目線まで深くかぶり,同色のタイトの
ツーピースにマントを纏っている。
胸のネームプレートには,蜜野夕子と刻ま
れていた。
彼女たちが,交代時におこなう,マントを
大きく拡げ演じる交換儀礼。俺はそれを愛し
ていた。
・・・部屋か。
確かに少し前まで,部屋に戻り眠ることだ
けしか,考えてはいなかった。
部屋のあるいつものフロアでは,黒くかす
れた子供たちが,ときおり廊下を駆け抜けて
ゆく。それ以外に人影を見たことはなかった。
広いフロアのなかにあって,いつも決めら
れた一室しか使うことはなかったが,無数に
ある他の部屋も,おそらくは俺のために用意
されているのだろう。
彼女の言葉にちょっとためらい,俺は軽く
横に首を振った。
「いや,空港がいいな。月光を見たくなった」
彼女は笑って頷き,パネルに向き直った。
俺は再び,夜景に眼を落とした。
軽快なテンポで,空港に向かい加速を続け
ていたエレベーターは,忘れ物を思い出した
ように,急に速度を落とし,静かに立ち止ま
った。
そして大きなためいきと一緒に,女をひと
り飲み込んだエレベーターは,やがて何事も
なかったように上昇を再開した。
乗り込んできた女は,蜜野夕子と挨拶を交
わし,何かしきりに話し込んでいる。窓硝子
に夜景と重なり合って映る,その情景を眺め
ていた俺の眼に,ふたりは仲の良い姉妹のよ
うにも映った。
「ちょうど良かったわ。私も夜風にあたりに
いこうとかと思って」
女は夕子にそう告げると,窓硝子の中から,
俺を見て,頭を軽く下げた。
女はボブをちょっと意識した耳が半分隠れ
れる程のショートカットに,暗いグレーのス
ーツ, 黒に近い紅色のハイヒールを履き,装
飾品の類は申し訳程度に身につけているだけ
だった。
振り向いて眼で挨拶を返すと,女の口が,
「こんばんは」と小さく動いた。
口許がクローズアップになる。小さな口に
ひかれたダークレッドのルージュが,艶やか
に光る。
「空港にいらっしゃるんでしょう。ご一緒し
ても迷惑じゃないですか」
女の突然の申し出に,俺は笑って頷いてい
た。
「迷惑なんかじゃないですよ。そんな,罰が
あたっちゃいます。独りでいるより,話し相
手になってくれる人が居たほうがいいから」
女は嬉しそうに笑っていた。とても柔らか
い笑みだ。
童顔のファニーフェイスで,愛らしい顔だ
ちをした彼女の,好奇に満ちた大きな眼が印
象的だった。
「藤井達也さんて仰るのね。夕子さんに聞き
ましたの。
此処でね,他の人にお逢いすることって,
滅多に無いのよ。私,愛美子。彩木愛美子っ
ていいます」
「藤井です。夕子さんは僕のことを,何て言
ってました」
「気になります。でも内緒よ。教えてあげな
いわ」
愛美子はいたずらっぽく笑い,夕子に眼を
やった。夕子も背中で笑っていた。
「ふたりとも意地悪だな」
俺はちょっと拗ねたふりをしてみせた。
「夕子さんは,愛美子にとって,お姉さんみ
たいなの。
月上荘は愛美子のお家。エレベーターのお
姉さんたちは,みんな優しくしてくれるて,
みんな大好きだけど。
でも,愛美子はやっぱり,夕子さんがいち
ばん好きなの」
夕子が振り向き,「そんなことを言うと,
他の人達が悲しみますよ」と告げたが,反し
て,嬉しそうな様子は隠しきれていないよう
だった。
夕子と愛美子は,一寸眼にはおなじ二十歳
前後に映るが,幼さが残る愛美子に比べて,
夕子は遥かに長い時間を生きてきたかのよう
な不思議な落ち着きを見せている。
・・・まあ,それは当然のことだったかも
な。
忘れがちになってはいるが,夕子は俺がこ
こを初めて訪れたときに較べ,少しも年をと
っていないように見えた。
子供のときにはやはり俺も,夕子たちを姉
と慕っていたのだろう。そして,夕子がいち
ばん好きだったことも変わらなかったと思う。
そんなことを記憶のなかから引きずり出して
いた。
それはいつか,夕子たちに大人扱いをされ
はじめ,やがて夕子たちを追い越してしまっ
たときから,寂しさに,心の奥底へ閉じ込め
てしまった記憶だった。
「どうかしたの」
独り考えに耽っていた俺の顔を,愛美子が
心配そうに覗きこんでいた。
「ちょっと,思い出すことがあったんだ。ご
めん,なんでもないよ」
俺は愛美子に笑いかけた。愛美子はちょっ
と怪訝な顔をしたが,特に何かを問いただそ
うとする素振りはなかった。
俺と愛美子と夕子を孕んで,光と闇を駆け
つづけた密室は,漸く,その目的地に辿り着
こうとしていた。
エレベーターの扉が開くと同時に,光が暴
力的に侵入してきた。夜の匂いが,周囲に立
ち込める。
「夕子さんも一緒に行けたらいいのになあ」
愛美子が口惜しそうにつぶやいた。
「そうね。でも,仕事を投げ出すわけにもい
かないわ。お二人で楽しんできてね」
「つまんないなあ」
未練があるらしく,まだぶつぶつ言いって
いる愛美子が,光のなかに身体を沈めるのを
見届けると,俺も夕子と挨拶を交わし,エレ
ベーターを降りていった。
程なく月光号を送りだそうとする空港は,
活気と喧騒のなかにいた。
目まぐるしく走りまわる,黒い作業服の整
備士たち。真昼のような照明。低音と高音の
規則正しいリズムを刻む機械音。鳴り響くエ
レクトリカルな警鐘。神経質に点滅を続ける
赤いランプ。見送り客のざわめき。搭乗を促
すアナウンス。すべての延長線上にあって,
月光号は,その銀色の巨体をそっと休めてい
た。
空港の照明に浮かび上がった勇壮な船体は,
神々しいまでの圧倒的な存在感と美しさを誇
示している。いや止めることにしよう,月光
号に多くの賛美と形容を与えることは,その
美しさに対して,冒涜にすらなるかもしれな
かった。
「素敵だわ」
愛美子がため息のなかに漏らした言葉。そ
れはすべてだった。
風の強い夜だ。俺たちはマネキンで溢れか
える待合室のちかくを避け,人影のまばらな
場所から,月光号の出航を見守ることにした。
マネキンは,この街の住人のひとつのタイ
プで,意識をむけたときにだけ実体化して,
役目が終わるとみると,もとの人形の姿に帰
ってゆく。彼らの頭上には,いつでも絶えず
喧騒が漂っていた。
月上荘のロビー,駅のプラットホーム,空
港と,いたるところでみられる彼らマネキン
たちを纏めて,俺は,エキストラと呼んでい
る。
愛美子に「此処にはひとりで泊まってるの」
と尋ねてみた。
「そう,愛美子は月上荘で生まれて,月上荘
で育ったの。
ずっと預けられているのよ。お父さんもお
母さんの顔も知らないわ」
愛美子は事も無げにそう言った。
「寂しくはないのかな」
「今はね」
愛美子は軽く憂いを含み,微笑んでいた。
「夕子さんたちがいたし。わけは知らないけ
ど,今のままがいいような気がするの」
「ごめん。悪いことを聞いたかな」
「どうして。何でもないことなのよ。それに,
藤井さんは,愛美子のお友達だから。
ねえ,私たち,もうお友達だよね。藤井さ
ん,愛美子のお友達になってくれるよね」
俺は衝動的な感情をおさえ,黙って頷いて
いた。
月光号の背後に月が昇った。月と街と飛行
船が,一枚の絵画のように調和する。
「綺麗ね。夢のようだわ」
愛美子がまた感嘆の声を漏らした。
「本当にこれが,君か僕の夢だったらどうす
る」
俺は冗談めかして愛美子に訊ねた。
「そうねえ」愛美子はちょっと考えてから,
「そうだとしても,きっと何も変わりはしな
いわ」と答えた。
「愛美子が,藤井さんが眼を覚ませば消える
夢だったとしても,愛美子はいま此処にいる。
藤井さんが,愛美子の夢だったとしても,
藤井さんはいまはそこにいる。
いま此処に,ふたりが確かにいるってこと
だけで充分だわ」
「そうだね。これが夢か,夢じゃないとか,
そんなことは,どうでもいいことだったね」
夢もひとつの経験だ。誰もが頼りのない確
信から,しがみついている現実というものが,
常に突然はじける可能性を秘めているとした
ら,夢と現実の体験の重みに,いったいどれ
ほどの差があるのだろうか。
「藤井さん,また何か面倒くさい難しいこと
考えているんでしょう。難しい顔して」
愛美子に心を覗かれたような気がして,俺
は動揺した。
「藤井さんが難しい顔するのは,物事を徒に
難しい方に考えているときだって,夕子さん
がいってたよ。とても悪い癖だって」
俺はきっと,隠し事のばれた子供の眼をし
ているのだろう。
「性分なんだよ。性がないの。大目に見てく
ださいよ」
「しかたないわね。でも一緒にいるときに,
ひとりで考え込むのは失礼よ」
愛美子は頬を脹らませ,すねた真似をして
みせた。本心から怒っているわけではないみ
たいだ。彼女は笑いながら,言葉を続けた。
「愛美子が藤井さんの夢だったら,ふたりは
ずっと一緒にいられるってことだわ。それも
素敵。夢でも夢じゃなくても悪いことなんて
ひとつもないわ」
サイレンがあわただしく鳴り響いた。整備
士たちが船を離れる。月光号のワイヤーが切
り離され,月夜の船はゆっくりと夜空に浮か
び上がってゆく。
ため息が漏れる,歓声があがる,別れを惜
しむ人々のそれぞれの思いが,マネキン人形
の頭上にこだまする。
「俺もいつか,あれに乗りたいな」
俺もため息をつき,思わずつぶやいていた。
夜に浮かぶ銀の船。それがもの静かにエンジ
ンを始動する。ゆっくりと進行方向に頭を廻
す。目標をみさだめ,優雅な物腰で進行を始
める。愛美子はその一挙一動を見守るように,
じっと見つめていた。
月の浮力で,充分な高度に達し,先程まで
の威圧感をかなぐり捨てた貴婦人は,軽やか
に夜空に遊んだ。
彼女はこれからの長い月日,各地の港に立
ち寄りながら,大空の女王として君臨し続け
るだろう。
風はしだいに強くなっていた。帰らなけれ
ばならない時間は,近づいている。強くなっ
た風,重く時を刻みはじめた頭のなかの振動
が,それを告げていた。
遠のく月光号へ,名残を惜しんでいる愛美
子に,俺も別れを告げるべきだろうか。また
逢えるという保証はどこにもなかった。別れ
はいつやって来るか分からない。風は意識を
吹き飛ばすべく,挑み始めていた。俺は意を
決し愛美子に別れを告げた。
「なに,風が強くて聞こえない」
「もう帰らなくっちゃいけないんだ」
風は肉体よりも,意識に強く作用する。意
識を吹き飛ばそうとする風と,必死に耐える
意識の戦いが起こっていた。
「えっ,そうなんだ」
愛美子は声を上げたあと,がっかりしたよ
うに「帰るんだ」とつぶやき,眼を月光号に
向けたまま言葉を続けた。
「これからゆっくりお話ししようと思ってい
たんだけど,しょうがないな」
彼女はやっと振り向き,笑みを浮かべた。
「でも,また近いうちに逢えるよね。藤井さ
ん,こんどは愛美子に逢いに此処に遊びにき
てね。約束よ」
風の中で俺は「今度ゆっくり,時間を取っ
て来るようにするよ」と約束を交わした。空
約束にならないことを祈りながら。
「愛美子,藤井さんを初めて見たときに,い
いお友達になれそうな気がしたのよ。私の感
って,すごくあたるの」
愛美子の声が,薄れかけた俺の意識に,遠
く響く。
俺が去ることに因って,失うものがあると
すれば,それは街や愛美子達と俺の何方にな
るのだろう。
もし消えるのが俺だとすると,世界にとっ
て俺は,ほんの夢に過ぎなかったのか。
いや,そんなことは問題にすらならないと
愛美子に諭されたばかりだった。
なんにしても,もう限界にきていた。意識は
半分飛ばされている。愛美子にもう一度,別
れを告げられるかどうかの自信もなかった。
「ねえ,あなたが何処に帰ってゆくのか,わ
たし知っているのよ」
突然耳に響いた言葉に,かすれた意識を集
中させて,愛美子の姿を探した。
「でも,あなたが今,帰ろうとしているとこ
ろも,所詮は偽りの世界だわ。
なにが真実で何が嘘か。そんなことただの
方便だってみんな知っているよ。本当の世界
なんて,何処にも有りゃしない」
声は確かに愛美子のもののように聞こえた。
だが,愛美子は振る舞いは幼くても,聡明で
しっかりした自分の考えを持っていたはずだ。
いま聞こえてくる女の声は,大人びた振りは
していても,駄々をこね物をふりまわす子供
のものでしかない。
「愛美子,何処にいるんだ」
俺の言葉が声として機能しているのか,既
に自信はなかった。
「どうぞ,お帰りなさい。あなたの偽りの世
界へ」
飛ばされる直前に,辛うじて愛美子の顔を
捉えた。悲しみと苦痛に歪んだ,すがりつく
ような救いを求める眼をしていた。
俺の意識は,どうすることもできず,白濁
した渦のなかに飲み込まれていった。