第三話・涙の荒野(A)
――おねえちゃん!――
――チホ! 逃げて!――
幼いチホの眼前で、一人の女性が力ずくで押さえられている。
チホは、美しかった自慢の姉が、ただ汚されていくのを見ているしかなかった。
大人達はかろうじてチホを助けたものの、姉の方には何も手出しできなかった。
当時、まだ若かった四柳が自分に何度も頭を下げたのを覚えている。
そのあまりに苦い思い出を、チホは、まだ、思い出として消化しきれていなかった。
「……助けてよ」
チホは小さな声でつぶやく。
それは誰に対してのものだろうか。何に対してのものだろうか。
チホは明かり池の物陰から、『影の七星』の拠点を見ていた。
チホは細心の注意を払いながら、何度もここに足を運んでいた。それは、彼らがあの事件に関わっていることを予想してのことだった。
それは稚拙な想像にすぎなかったが、皮肉にも当たっていた。
そして、その日、その拠点に、誰かが拉致されてきたのをチホは見た。
中年ぐらいの年齢だろうその男は、大声で何事かを叫んでいた。
なぜだ、と、指示に従った、と、そういう内容だった。
そうした言葉を発するたびに、周囲の者達が殴り、蹴り飛ばす。やがて、抵抗しなくなった男を、その者達は拠点に引きずり込んでいった。
チホは遠巻きにその様子を見て、あまりのことに動けなくなっていた。
姉のトラウマ。
人が物のように扱われ、蹂躙される。
自身がその対象になることより、その光景を目にすることが、チホを恐慌状態に陥らせるのである。
(助けてよ……! 誰でもいいから、おねえちゃんを助けてよ!)
チホに必要だったのは、救済ではなく払拭だった。
チホは、それを叶えてくれる者をひたすらに待っていた。待つためにさまよい続けていた。
これは、他人任せの無責任な願いなどではない。
捨てられた者達に対して必要なこととは、実際に手を差し伸べること。渦巻く絶望を否定すること。
たとえドブの中に手を突っ込むことになろうとも、その者の吐き出した汚物を掻き分け、その先の希望を掘り出し、抱き上げること。
それは、優しさだけでは……この、優しいだけの町では、理不尽だらけの町では、適わないことなのかもしれなかった。
だが、それは現れた。
それは来た。
それは、暗闇の中、一陣の風とともに、駆けつけた。
仮面で覆われた顔は表情を伺えない。
ジャケットで縛られた体は、力んでいるのか脱力しているのかわからない。
何一つわかることなどない。
だが、来たのだ。そして行こうとしているのだ。誰も来ない場所へ。誰も立ち向かわない所へ。
それが跨っているのは、持ち去ったエンドローダー級ゼロサイクル。顔を思わせるフロントと、足を思わせる推進部を持っており、まるで馬のようである。
静かに降り立つ姿が、チホにはスローモーションのように見えていた。
隠れているチホに気づいているのかいないのか、それさえも確認できないうちに、それは、拠点となっている建物へと向かっていった。
「やっぱり……フォールさんは……」
小さな背中を丸めながら、チホの中で一つの答えが出ていた。
その答えは、チホにとって一つの希望となるものだった。
だが、しかし、それも、やはり勝手な答えであり、払拭の切っ掛けでしかなく、真実の救済ではなかったのかもしれない。
***
「おい! 自分は裏切ってないってよ! こいつ!」
酒気を帯びた男が可笑しそうに叫ぶ。
「ほっとけほっとけ! おつむがお留守なんだよ!」
ほかの男がゲラゲラと笑う。
「嘘なんかついても、いいことなんてないわよぉ?」
中には女もいて、わざとらしいほどに大きく体を広げて座る男にまとわりついている。
彼らは、チホとヨモギを襲った者達より一層品がなかった。
「こいつを捕まえとくだけで、俺達が次のメイングループになれるってんだから簡単な話だよなぁ?」
「でもよ、前のメインの奴ら、全員ミンチにされたらしいじゃねえか。かなりヤバイことやらされるぜ」
「そうビビるなよ。あいつらはやり方がヘタクソだったのさ」
彼らはもう今後の算段を立てていた。
うまくいく。うまくやる。きっとできる。
目の前にいる一人の人間がどうなるかを考えもせず、そうした期待ばかりをつのらせる。
彼らは、連れてきた男の運命を知っていながら、わかっていながら、見向きもしなかった。それどころか、せせら笑っていた。
「なぜだ……私は従ったぞ……ちゃんとサポートしただろう!? 私がいったいどれだけの危険を冒したと思っている!?」
必死の懇願である。
「自分は立派に仕事をこなしたって、そう言いたいのかあ?」
女の体をまさぐりながら、座った男が聞く。
「そうとも! 私の何がいけなかったというんだ! 王都の、『カンパニー』の目的のために私は……! 何も知らされていないおまえ達になにが判断できると言うんだ!」
「あんたの言うとおり、難しい話は知らないがな……やられてるんだよ、仲間が。こっちは『あの人』に直接命令を受ける立場にあるのに、邪魔者が入った。なあ、これはありえねえことなんだよ」
「そんなのは何かの間違いで……!」
「その間違いの引き金がおまえだって話をしてるんだよ霞町の町会議員どの。あんた騙されたんだよ、誰かに。つまりな、あんたは結果的に俺達を売った裏切り者だ」
「そんな……『あの人』に聞いてみてくれ! 私は決して!」
「これはな、その『黒い鷲』からの命令なんだよ」
反論の言葉が浮かばずに、町会議員と呼ばれた男の顔はみるみる青くなっていった。
何かが起こっている。よくない思惑など珍しくもない町で、よくない思惑が利用された。
予想できたのは、強者であるはずの、奪うばかりの側であるはずの者が、謀られたということ。
お互いの言い分によって、そこにいる者達は、それを確かめることができた。
その小さな満足感は、すぐに次の疑問を浮かび上がらせたが、しかし、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
静かに扉が開いたからだ。
静かに入ってきた者がいたからだ。
黒いゴーグルの灰色の仮面が、静かに向かってきたからだ。
「なんだ?」
座った男が率直な意見を放つ。特段慌てる様子もない。
「ガー、ダー……?」
それの正体に気づいたとき、男の全身が粟だった。
「違う! こいつは!」
指摘の声は、一瞬にして、例えようのない怒号のような叫び声に呑まれた。彼らは、正体はともかく『敵』を知っていたのだ。
飢えたる猛獣どもの巣で暴れ踊るは何者ぞ。
願わくば、義憤に燃える戦士であってほしい。
されど、真にそのようなモノが存在する時代ではない。
ならば、それは魔獣か。はたまた、食い散らかせれた死者の怨念か。
違う。
義に生きる者にあらねど、堕ちたる者なれど、されど、されど、それは戦士だ。
血で血を洗う光景ならば惨劇と呼べた。
しかし、その夜、そのみすぼらしい拠点で起こったのは、そんなものではなかった。
壊れた人形のように人が振り回され、地に伏していく光景だった。
男も女も関係なく、重力に反するように空を泳ぎ、重力に従うように地に潜った。
人形が演じる喜劇のようだった。
いや、喜劇であらねばならない。
世は事もなし。
どういった者がどうなろうと、さして変わりはない。唯一無二の者などいはしない。
さりとて、それが悪逆非道の肯定になりはしない。
それが、当人達にも、周囲にも、わからないのだ。当人達を道化にしてみせねばわからないことなのだ。
だから、人の為に必要なのだ。喜劇というその形をとってみせることが。ほかならぬ、人の為に必要なのだ。