第十九話・あをの軌跡 前編(B)
ヨモギは窮屈な感覚を不快に思って目を覚ました。
――ガリッ!――
世界を覆う窓を不思議そうに見つめていると、一気に意識が澄んでいった。
「目が覚めたかい?」
ルートエッジの操縦席でクルミが背中を丸めている。
「あの……」
「暁町から出たよ。ここは空町。いま、ガーダー達が細歩のそこらかしこで必死に戦ってるよ」
簡潔にクルミが説明する。
――ガッ!――
ヨモギは空が騒がしい気がした。
飛行機がすごい勢いで細歩の空を切り裂いている。
「偵察機さ。もうすぐ牡丹は爆撃される」
クルミの言葉を聞いても、ヨモギの頭は静けさを残したまま、揺れ動かない。
――ザンッ!――
ヨモギの目の先には戦いの風景が浮かんでいた。能力が、取り入れられた情報の断片からそういう世界を再構成しているのだ。
「鉄ヶ山……さん?」
どこからもたらされる情報だろう、という疑問にヨモギが突き当たったとき、怪物に槍を突き立てる騎士の姿が浮かんだ。
「聞こえて……いや、あんたには見えているんだろうね。フォールの姿が」
ルートエッジの通信機は生きていた。鉄ヶ山の装備と、対象として指定されている牡丹の設備を傍受し、様子を拾っているのである。
(声が、聞きたい)
ヨモギは虚ろにそう思った。
まだなにもまとまっていない。
まだ自分の気持ちがわからない。
まだ整理がついていない。
なのに顔が浮かぶ。
なのに背中が浮かぶ。
なぜ、こんなにも、苦しいのだろう。
なにを、こんなにも、求めているのだろう。
音の見せる世界はあまりにも速かった。
コンクリートの壁はあまりに脆くて、床は踏ん張りが利かない。天井は勢いで突き抜けてしまう。
鉄ヶ山も、あの怪物も、共にこの世界ではできない決闘を行おうともがいているようだった。
思いを力として吐き出す。力が世界をかき混ぜる。そういう観念の争いであるとヨモギは思った。
――百戦鬼。おまえは結局、一人だ――
(違……う……)
怪物の声に否定の言葉が浮かぶ。
――誰もおまえを待ってはいない――
(違う……!)
――おまえがここでやったことを誰も許しはしない。おまえは殲滅者なのだからな――
(そんなことない!)
なにが違うのだろう。なにを否定したいのだろう。ヨモギは自分で疑問に思う。
――おまえは呪われている! 良心だと思い込んでいるそれによって、死へと向かう列車に自縛しているのだ!――
鉄ヶ山は、百戦鬼は、細歩の敵だった。親の仇だ。この町に弱さという傷を刻み付けた張本人だ。
――『落伍者』は去るべし! 『落伍者』は存在そのものが罪である!――
怪物の叫びは嘲りである。鉄ヶ山を芯から痛めつけるためのものである。悪魔の業なのだ。
――それでも、オレは! いつか、オレという存在が、無味無臭となるまで……!――
ようやく聞こえた鉄ヶ山の言葉は、あまりに悲痛なものだった。
届かないことを悟りながらも、歯を食いしばり、顔を歪ませ、手を伸ばす。ヨモギの知る鉄ヶ山は、いつもそうだった。
(鉄ヶ山さんは……!)
不吉で大きな音の向こう、崩れいく鉄ヶ山に向かって、ヨモギは精一杯に祈った。混乱する自分の気持ちに耐えきれず、ついに、その手を組んだのである。
それは、情緒にすぎない。
***
生かすため、生きるために殺す。単純に見えるこの理屈に必要な覚悟の量は並ではない。
そして、自身の死も。
死を覚悟する。命を割り切る。そんなこと、人にはできはしないのだ。心をどれだけ乾燥させても、それは誤魔化しにすぎない。
鉄ヶ山も同じだ。『百戦鬼』はただの呪いだ。
しかし、鉄ヶ山は覚悟した。そうしなければ自分が崩壊してしまったからだ。ジレンマが鉄ヶ山に死を覚悟させたのである。
そういうわけだから、覚悟は死を超えていると言える。
覚悟というゴールへ進むとき、死は、その途中に鎮座する。死が見えるようになる。
それを知る嘉島だからこそ、鉄ヶ山を笑った。
「幻想にすぎないぃ……!」
せっかくの鎧も、せっかくの中和剤も、現実の前ではまるで意味をなさなかった。
嘉島の姿は、その歪んだ心情の変化である。
だが、この上なく正直であるがゆえに、存在としてのリアリズムでもって、覚悟さえひねり潰した。
「しかし、あの本条が貴様にそれほど入れ込んでるとは思っていなかったぞ。もっと完全な形の相撃ちになると思っていた。貴様のバラバラになった死体の回収法まで考えていたぐらいなんだが……誤算だった。どう口説き落としたんだ? 貴様、よっぽど男を抱くのがうまいらしいな」
またしても嘉島は笑う。
嘉島はよく笑う。おかしくもないのに、乾いた笑いをよく吐き出す。もう、自分でも止められないのだ。
「あん、たは……」
抵抗しようとする鉄ヶ山は、嘉島の剛強な技術に手も足も出なかった。嘉島には組討の心得があるのだ。
踏みつけるでもなく、組んで伏せる。嘉島は強かった。盾も、槍も、刃も、何一つ通用しない。
「百戦鬼。貴様は開門計画の最後の一ページになるはずだった。要であるはずの計画でさえ変わる。あの時代は終わったのだ。だから、ここでもう、貴様も幕を下ろせ」
手にしたアームランサーは、もう輝きを発することができない。本条の戦いのときもうガタがきていたせいもある。鉄ヶ山自身も同じで、まるで寝起きのように、もうわずかに体をよがらせることしかできない。
かろうじて体を動かした中和剤は、同時に、繋ぎ、塞き止めていた命の流れを、容赦なくどつぼへと流し込んでいったのである。
(オレは……)
嘉島の奇怪な腕は鉄ヶ山の頚動脈洞にかかっているが、反射を狙ったものではない。簡単には潰れない血管を、尋常ならざる筋力で完全に駆血せしめている。
感応剤は通常の神経活動を凌駕する。だが、鉄ヶ山の体は、その力を発揮するにはあまりに損傷しすぎていた。
仮面の額の灯った光が、真っ赤に染まり、輝きが失せていく。
「そして、すべての時代は、ワシという時代に閉じる!」
刃は弾かれ、盾は砕け、槍は落ち、鎧も割れた。
そして、ついに、輝きの失せた仮面は剥がれた。
血の泡を口に溜めた鉄ヶ山の顔があった。
青ざめた唇。力のない首。
嘉島は鉄ヶ山の体を放る。鉄ヶ山を食うために、感応細胞を補充する必要があったのである。
嘉島は悲しそうでも、嬉しそうでもあった。枯れた笑みが消えない。諦めに似た気色とても言えばいいだろうか、そういうものがたしかにあった。
「鉄ヶ山、これで呪いも解けただろう」
怪物の目は、ひどく疲れているようだった。
―――
暗転した鉄ヶ山の世界は、もうなにがなんだかわからなかった。
なにも見えていないのにグロテスクで、なにも聞こえないのに気味が悪くて、なにも感じないのに気分が悪かった。
ふと、この暗闇は自分自身へのイメージなのだな、と気づく。
そうすると、べっとりとクレヨンで塗りつぶしたような景色が渦を巻きだして、濃淡のある汚泥のような世界に変わった。
死だ。
死が近づいた。
「うう……」
逃れることのできないそれを前にして、鉄ヶ山は少しだけ呻いた。
声にならない叫びだった。
慟哭のような叫びだった。
どこか、懺悔しているようでもあった。
幻覚越し、認識できているのかできていないのかわからない世界の狭間で、誰かが微笑んだ気がした。
(なにを笑っているのだろう)
ほんの少し、そんなことを思って気が紛れた。
楽しそうな、嬉しそうな、優しい笑顔だ。
(もしかして、オレに笑顔をくれているのかな)
都合のいい妄想にすぎないことはわかっている。
(そうだったら、いいな。そうだったら、嬉しいな)
あれは誰だろう。
知っている人の顔が浮かぶ。
大好きなあの人かな。大嫌いなあの人かな。
違う。この人達じゃない。
もう思い出すまいと思っていた肉親かな。
これも違う。
誰だろう……
鉄ヶ山の疑問はもっと曖昧なものになって、思い浮かんだすべての人かもしれないと意識しだしたとき、頭を優しく撫でられた気がした。撫でてもらえた気がした。
(人に触れてもらうのって気持ちいいな)
鉄ヶ山が手を伸ばす。体に温もりが宿った。
(人に触れるのって気持ちいいな)
そんな皮膚感覚を抱きしめると、鉄ヶ山の世界に色が着いた。
うっすら明るい世界の中で、紫がかった瞳と、長く美しい黒髪が見えた気がした。
女だ。
知っている。彼女を知っている。誰と理解するだけの思考が残されていなくともわかる。
情緒だ。彼女の情緒が伝わってくる。いま、彼女にあるのは情緒にすぎないプリミティブな感情だけだ。
鉄ヶ山は嬉しく思った。ようやく彼女は情緒に向き合うことができたのだから。
彼女は、真に、己の心に耳を傾けたのである。育まれていく能力に、運命に縛られることなく、人として、個として。
それがわかって、嬉しかった。伝わった彼女の答えの暖かさに、命ごと全身を洗われた気がした。
(オレは……)
世界が混濁していく。鮮やかな世界が曖昧に。曖昧な感覚が鋭敏に。
変わっていく。世界が変わっていく。
―――




