第十八話・復讐鬼と眠り姫(C)
ヨモギが目を覚まして周囲の様子がわかったとき、眼前に、この世でもっともおぞまく、退廃の極みとも思える光景が広がっていた。
体に巨大な穴の開いた朱塔の体を、ファントムが腕を咥えて振り回していた。
朱塔をもみくちゃにして、さんざん玩具にして、最後には壁に叩きつける顔のない怪物。
ファントムの一体が汚らしい蛹に刺さった一本の刀を抜き、放り捨てる。
「もう聞こえちゃいないだろうがな、同次郎……自殺した貴様の母ミノリは、ワシの姉なんだよぉ!」
毛が三本足りない獣のような叫びは、肉団子の裂け目から聞こえたものだった。
ヨモギは見た。最悪の存在を。あってはならない命を。
「ワシは真の世界を創設する! それは真の理想郷だ! たとえ地獄であろうとも、それが自然のあるべき姿だからだ! 伝統も文化も文明も必要ない、家族や肉親もだ! 不要なものはすべて無くす! 過去はすべて過去となる! 泣くな、笑うな、未来が待っている!」
裂け目から現れた骸骨のごとき頭が鼻の部分で止まり、青い血管がびっしりと表面を走り、硬化していく。足のように太い腕が肉から分かれて、筋繊維を連想させる構造を形成する。掌のようになった足が胡座のような形から崩されて地面を掴むと、ゆっくりとそれは立ち上がった。
股間から髑髏を覗かせた、首のない逆立ちした人間。そう表現するのがもっともいいだろう。つまりは怪物だ。
この怪物こそが人の夢、人の生み出したる理想の子、感応細胞を持ち、完全な適応を持つ完全なマインド能力者。
「……成った」
口元にある裂傷のような口から、人間の発声とは思えない、楽器のような声が漏れる。
嘉島はなったと言う。だが、どうなったというのだ。ヨモギの疑問はまずそれだった。
こんなものが終着点なのか。
ヨモギにはわかる。嘉島の中には澤本がいる。朱塔も、澤本も、こんな思惑のために命を散らさねばならなかったのか。こんなものは敵でも味方でもない。
(俺はよっぽどまともだ)
殺意が浮かぶほど憎い相手が、今はたしかにまともに思える。澤本は怒るに値する相手だ。
これは違う。嫌悪しかない。ただの怖気の走る物体だ。
「いや! もうイヤぁ!」
嘉島が迫る。殺意は感じないのに、明確に殺害の意識を持っている。マインド能力が示している。空間の歪みがヨモギに向かって伸びているからだ。
「……結論が出たな。おまえの役目も終わりだ」
思念の触手がヨモギを襲う。コンクリートを粘土のように溶かして舞い上がらせながら、ヨモギをこの世から掃き出そうとする。
ヨモギの体が吹き飛ぶ。だが、ヨモギの前に盾になる者がいた。
奇跡だ。
もう動かないはずの朱塔が、おそらくは最後の力でもってヨモギの前に立ったのだ。
状況は覆らない。結果からすれば小さなことだ。ヨモギはまた次の瞬間には命に危機の中にいることだろう。だが、その刹那は、小さな奇跡と呼ぶにはあまりに大きかった。
一つの奇跡が次の奇跡を呼ぶことがある。
連鎖した偶然が道を開くことがある。神の息吹が与えた祝福だ。
ファントムが倒れたヨモギに飛びかかろうとする。そのとき、息吹がファントムを吹き消した。
「あ……」
ヨモギは何かがやってきたことを知った。だが、頭を強く打ったため、意識が混乱してよくわからない。
この世のものとは思えない咆哮だけを耳にして、ヨモギは蹲った。
誰かが守ってくれている。誰かが戦っている。それは、怪物を後ろの下がらせるほどの気迫を持つ者だ。
飢えたる猛獣どもを狩るは何者ぞ。
願わくば、理不尽を許せぬ騎士であってほしい。
されど、真にそのようなモノが存在する場所ではない。
ならば、それは死神か。はたまた、食い物にされた亡者の怨念か。
違う。
過ち犯した罪人なれど、落伍者なれど、されど、されど、それは騎士だ。
ヨモギが縋れる物はもうないはずであった。
心は砕け、思いは断ち切られたはずであった。
しかし、ヨモギは待っていた。ずっと待っていた。
流れる血でも、あの紫の花の香りまでは消し去ることができなかったのである。
眼前に立つ白金の戦士は、ヨモギがずっと待ち望んでいた存在だった。
優しげな視線を感じる。一目見て状況を理解しているようだった。
唇が勝手に動いて何かを呟いていた。
だが、どうしようもない。何を思うこともできない。
「うん」
ヨモギが苦痛を和らげるために目を瞑ろうとしたとき、騎士が頷いた。明確に、何かに応えたのである。
ヨモギは、自分が伝えようとしていた言葉の内容に気がついて、その瞼を弱々しく開いた。
た、す、け、て……
ヨモギは無意識にそう言っていたのだ。
思いに力が戻った。強烈な力だった。
た、す、け、て……!
本当に自分の気持ちなのかと疑うほどに、頭の中がいっぱいになる。
助けて!
気持ちがすべて伝わったかのように、思いを掬いとるように、騎士がヨモギを抱えあげる。
「全部終わらせる。オレの持てる……すべての力を使って」
鉄ヶ山は来た。最後の瞬間を迎えるために。
だが、自分の命を諦めるのではない。誰かの命に賭けたいだけだ。
それは、明日の水面に映る唇が悲しみに歪まないように。いつまでも夕凪に明かりが浮くように。
これは、そのための――




