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其は微笑みの代価  作者: 千代田 定男
第三章 復讐者
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第十八話・復讐鬼と眠り姫(C)

 ヨモギが目を覚まして周囲の様子がわかったとき、眼前に、この世でもっともおぞまく、退廃の極みとも思える光景が広がっていた。

 体に巨大な穴の開いた朱塔の体を、ファントムが腕を咥えて振り回していた。

 朱塔をもみくちゃにして、さんざん玩具にして、最後には壁に叩きつける顔のない怪物。

 ファントムの一体が汚らしい蛹に刺さった一本の刀を抜き、放り捨てる。

「もう聞こえちゃいないだろうがな、同次郎……自殺した貴様の母ミノリは、ワシの姉なんだよぉ!」

 毛が三本足りない獣のような叫びは、肉団子の裂け目から聞こえたものだった。

 ヨモギは見た。最悪の存在を。あってはならない命を。

「ワシは真の世界を創設する! それは真の理想郷だ! たとえ地獄であろうとも、それが自然のあるべき姿だからだ! 伝統も文化も文明も必要ない、家族や肉親もだ! 不要なものはすべて無くす! 過去はすべて過去となる! 泣くな、笑うな、未来が待っている!」

 裂け目から現れた骸骨のごとき頭が鼻の部分で止まり、青い血管がびっしりと表面を走り、硬化していく。足のように太い腕が肉から分かれて、筋繊維を連想させる構造を形成する。掌のようになった足が胡座のような形から崩されて地面を掴むと、ゆっくりとそれは立ち上がった。

 股間から髑髏を覗かせた、首のない逆立ちした人間。そう表現するのがもっともいいだろう。つまりは怪物だ。

 この怪物こそが人の夢、人の生み出したる理想の子、感応細胞を持ち、完全な適応を持つ完全なマインド能力者。

「……成った」

 口元にある裂傷のような口から、人間の発声とは思えない、楽器のような声が漏れる。

 嘉島はなったと言う。だが、どうなったというのだ。ヨモギの疑問はまずそれだった。

 こんなものが終着点なのか。

 ヨモギにはわかる。嘉島の中には澤本がいる。朱塔も、澤本も、こんな思惑のために命を散らさねばならなかったのか。こんなものは敵でも味方でもない。

(俺はよっぽどまともだ)

 殺意が浮かぶほど憎い相手が、今はたしかにまともに思える。澤本は怒るに値する相手だ。

 これは違う。嫌悪しかない。ただの怖気の走る物体だ。

「いや! もうイヤぁ!」

 嘉島が迫る。殺意は感じないのに、明確に殺害の意識を持っている。マインド能力が示している。空間の歪みがヨモギに向かって伸びているからだ。

「……結論が出たな。おまえの役目も終わりだ」

 思念の触手がヨモギを襲う。コンクリートを粘土のように溶かして舞い上がらせながら、ヨモギをこの世から掃き出そうとする。

 ヨモギの体が吹き飛ぶ。だが、ヨモギの前に盾になる者がいた。


 奇跡だ。

 もう動かないはずの朱塔が、おそらくは最後の力でもってヨモギの前に立ったのだ。


 状況は覆らない。結果からすれば小さなことだ。ヨモギはまた次の瞬間には命に危機の中にいることだろう。だが、その刹那は、小さな奇跡と呼ぶにはあまりに大きかった。


 一つの奇跡が次の奇跡を呼ぶことがある。

 連鎖した偶然が道を開くことがある。神の息吹が与えた祝福だ。


 ファントムが倒れたヨモギに飛びかかろうとする。そのとき、息吹がファントムを吹き消した。

「あ……」

 ヨモギは何かがやってきたことを知った。だが、頭を強く打ったため、意識が混乱してよくわからない。

 この世のものとは思えない咆哮だけを耳にして、ヨモギは(うずくま)った。

 誰かが守ってくれている。誰かが戦っている。それは、怪物を後ろの下がらせるほどの気迫を持つ者だ。


 飢えたる猛獣どもを狩るは何者ぞ。

 願わくば、理不尽を許せぬ騎士であってほしい。

 されど、真にそのようなモノが存在する場所ではない。

 ならば、それは死神か。はたまた、食い物にされた亡者の怨念か。

 違う。

 過ち犯した罪人なれど、落伍者なれど、されど、されど、それは騎士だ。


 ヨモギが(すが)れる物はもうないはずであった。

 心は砕け、思いは断ち切られたはずであった。

 しかし、ヨモギは待っていた。ずっと待っていた。

 流れる血でも、あの紫の花の香りまでは消し去ることができなかったのである。

 眼前に立つ白金の戦士は、ヨモギがずっと待ち望んでいた存在だった。

 優しげな視線を感じる。一目見て状況を理解しているようだった。

 唇が勝手に動いて何かを呟いていた。

 だが、どうしようもない。何を思うこともできない。

「うん」

 ヨモギが苦痛を和らげるために目を(つぶ)ろうとしたとき、騎士が(うなず)いた。明確に、何かに応えたのである。

 ヨモギは、自分が伝えようとしていた言葉の内容に気がついて、その(まぶた)を弱々しく開いた。

 た、す、け、て……

 ヨモギは無意識にそう言っていたのだ。

 思いに力が戻った。強烈な力だった。

 た、す、け、て……!

 本当に自分の気持ちなのかと疑うほどに、頭の中がいっぱいになる。

 助けて!

 気持ちがすべて伝わったかのように、思いを掬いとるように、騎士がヨモギを抱えあげる。

「全部終わらせる。オレの持てる……すべての力を使って」

 鉄ヶ山は来た。最後の瞬間を迎えるために。

 だが、自分の命を諦めるのではない。誰かの命に賭けたいだけだ。

 それは、明日の水面に映る唇が悲しみに歪まないように。いつまでも夕凪に明かりが浮くように。

 これは、そのための――

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