第十七話・理非の沙汰(A)
その日は無風だった。遠くに飛ぶ鳥の声が聞こえるような、突き抜けた気配だけが場を支配している。異様なことに、生活の音さえ聞こえないのだ。
「もっと持って来い。こっちから来られたら終わりだ」
「もっと神社側に人割けませんか?」
「重機まわせ! バリケード足りないぞ!」
だが、人々は熱気の中にいた。良いものではない。魂が泣くような、怯えた熱気だ。
今、静町は孤立している。隔離地域という孤立した世界で、静町は虚空に浮かび上がった絵のように寂しげだった。
「リストと違うぞ。逃げてる奴がいる。残ってるのはいったい何人だよ」
「もう向かったって? 連絡手段確保したのか? 合流場所は知ってるのか?」
細歩地区はもうすぐ開放される。静町という核を押し潰して、外が内へと入り込み、内は外へと出て行くだろう。
ちょうど、細胞内で増殖したウイルスが細胞が死ぬことで外へと出て行くように、ここで生まれた単一の遺伝子が、世界に広がろうとしているのだ。
モノクローナルな悪意によって腐敗した卵が孵化しようとしている。
細歩地区という卵にある殻は、細歩を守るためのものではない。封じ込めていたつもりが、制御しているつもりが、いつの頃からか、王都の方が守る側に回っていたのである。
外で包囲網を敷く王都側はそれを知らない。
「どうだ、調子は?」
四柳が顔を出したのは、一応は前線の指揮所となる学校である。
もう学校としての機能などとうに失ったそこは、ものものしくトラックやら機材やらで埋めつくされていた。
壁は一部が突き崩され、広く展開する形で陣営が築かれている。
「どんどん突破されてるわ。正確にはすり抜けられてる」
ユリアは四柳の問いに冷静に答える。
「犠牲者なし。しかし、確実に攻め込まれている、か」
「当然だけどね。こっちで頼りになるのは、せいぜい七星の奴らだけ。それにしたって素人と変わりない」
「無血開城させるつもりかな?」
「犠牲者は少ないほどいいって考えなのは確かでしょうね。対外的な心象と、テストを兼ねている」
「決戦能力を試すには、反対派が相手じゃ役不足ってわけか」
「そういうこと」
「だが、ここは別だな」
「ええ。ここだけは別。意固地になった者達が凝り固まってるから」
「俺達みたいな、な」
「ええ。ワタシ達みたいな、ね」
四柳とユリアが笑う。
静町が狙われる理由。核となっている理由はただ一つ。自警団である。
ほんの一握りといっていい者達であるが、これが最後の砦である。抵抗し、立ちはだかる。勝ち負けに関係なく敵対する。それだけしかできないが、それこそが重要で、意思を示すために行動している者達を攻撃して、はじめて嘉島の意思も示されるのだ。
ここには重要な拠点もなければ、戦略的な意味もない。精神的支柱と言えるものさえない。人がいるだけだ。諦めない人々がいるだけなのだ。
「そろそろ現れはじめるわ」
通信機からの少ない報告が、ファントムの出現を知らせる。
周囲で最後の最後まで準備をしていた皆の声も消え、武器を手にする音だけが響く。
「波状攻撃だろうなぁ」
「次から次に来ては暴れまわって、吹き抜けていくだけよ。獣の群れのよう」
瞬きもせずに、空を、陸を見つめる。
影がちらつきはじめると、これ以上ないと思われた緊張が、もっと上の領域に入り始める。
恐怖からの萎縮である。
足が後ろに行きたがるのと、皆が必死に戦っている。
「バケモノの津波と、最初で最後の交戦といくか」
四柳がショットガンを構える。
だが、ファントムを集団をしかと目にした瞬間、戦いにはならないことを誰もが知った。
本能、とでもいうべきか。レベルそのものが違う相手なのだ。
ファントムの姿はおそるべきものだった。細く長い手足は実にしなやかで、かすかに青い体表はビニールのように滑らかである。顔には感覚器と呼べるようなものは一切なく、歯と思われるような鋸状の刃が輪のように並べられているだけだ。おそらくそれも攻撃に使う武器のようなものなのであろう。
しかし見栄えだけが問題なのではない。ファントムは知恵をもった獣だ。武器を持っているのである。重火器を持ちながら、平然とバッタのごとき跳躍で迫ってきているのだ。
ファントムの前線と触れ合う瞬間、暴虐の限りが人々をなぎ払った。
抑えることなど少しもできないで、アメーバのごとく学校の敷地内に浸透していくファントムを、人々は諦めにも似た面持ちで迎え撃つしかなかった。
(押し切られる!)
ユリアがそう思ったとき、けたたましい音とともに、力場でできた円錐がファントムの群れの中央を貫いた。
黒い柱が嵐を巻き起こしながら通りすぎると、稲妻と閃光とが渦まいて、ファントムをかたっぱしからミンチへと変える。
半透明の肉片が液体を撒き散らして地面に落ち、粘着質の霧の向こうにいる者を隠す。
暗い輝きのランスチャージに四柳が呆然とする。
そこにいたのは、鎧を纏った戦士としか表現しようのないものであった。
強化されたバトルジャケットは、ディサイドアーマーの部品によって全身を覆う鎧と化している。
新たな仮面は頭部まで伸び、磨きぬかれた兜のようである。
腰から伸びる二本の尾は長く、優雅で、象徴的な装飾のごとき絢爛さだ。
手にある展開されたアームランサーは黒い刃を伸ばし、もう一方の手には盾。
エンドローダーは最大速度を出すべく低く変形している。
その姿、白馬に跨る銀色の騎士。
「お……まえ……」
落伍者。堕落者。今は違う。今だけは違う。
フォール。それは降り来た者。降臨した者。勝ち鬨のラッパを鳴り響かせる騎兵。
「まだ負けではない!」
鉄ヶ山が肉声で吼える。
「まだ終わりではない!」
エンドローダーを降り、アームランサーの先を閉じると、鉄ヶ山はどうどうと、ファントムの残りの前に向かう。
「オレ達がここにいる!」
とびかかるファントムは、鉄ヶ山の振るう攻撃で叩き落され、踏み潰され、次々と倒れていく。
菊池から受け取った中和剤はアクセスラインを鋭敏に磨き上げ、バイオブースターによる感応を高めていた。
神速の一手を際限なく繰り出す鉄ヶ山の猛攻は、ファントムであろうと耐えることのできない絶対の指向性運動である。
「オレ達は――」
最後の一体を貫いて、鉄ヶ山は皆にむかって叫んだ。
「――生きている!!」
血の気が戻ってくる。灌流が戻ってくる。
少しの間を置いて、歓声が起こった。
・・・
「なぜ来た?」
四柳の問いに、鉄ヶ山は答えようとはしなかった。
もう終わりのはずだった。関わりのないことのはずだった。
だが、鉄ヶ山はやはり来た。鉄ヶ山にとっては、まだ終わりではないからだ。
「慎之介……」
近くまで来たユリアが、りんとした目で鉄ヶ山を見つめる。
「相手は世界をどうにかしてやろうって、本気で考えてるわよ。それに挑むの?」
「はい」
「覆すことのできない状況だと、わかっているの?」
「はい」
鉄ヶ山の声に迷いはない。
今までもそうだった。
勝算だけで、打算だけで、戦ってきたのではない。
信念だけでも、執念だけでもない。
恨みでも憎しみでもない。
迷いがない。命に対して無心であること。
守ることに対して必死であること。
ユリアはわかっていた。鉄ヶ山の生きた証は、相殺することで完成されるのだ、と。
「行きなさい慎之介。それがあなたにできる唯一のことよ」
ユリアは目を逸らさずに言い放った。
「ユリア! おまえ!」
四柳は聞き違いかと思った。
求めていいことでは、望んでいいことでは、ない。
「お願い慎之介、ワタシ達のためにその命を使ってちょうだい。このままだとワタシ達は全滅だわ。みんな死にたくないのよ」
「よせ、聞くな、鉄ヶ山!」
ユリアは当たり前のように吐き捨てる。自己中心的なまでの態度で鉄ヶ山に付け入る。
「それがあなたの責務でしょう? そのためにフォールになったんでしょう? あなたが行けば、あなたが勝てば、みんなが助かるの。お願い慎之介、行ってちょうだい」
鉄ヶ山は小さく頷くと、エンドローダーに向かい歩き出す。
「ありがとう、ユリア」
ユリアには鉄ヶ山の声が聞こえた。小さいが、たしかに聞こえたのだ。
四柳は鉄ヶ山を止めようとしたが、しかし、できなかった。鉄ヶ山の歩みはこれまでにないほどに強かった。
皆に見送られて、鉄ヶ山のエンドローダーが走り出す。
いつの間にか歓声は止んでいた。一瞬のざわめきだったのだ。
やがて、真っ白な髪で光の筋を風に残し、遠く揺らめく陽炎の中に鉄ヶ山は消えていった。
・・・
「見損なったぞユリア! あの鎧はおまえが用意したものだな! まだあいつを戦わせる気なのか!? 俺達の戦いだぞ! あいつはもう休ませてやるべきだ!」
四柳がユリアを責める。
周囲で息をつく者達をよそに、ユリアはいまだ鉄ヶ山が去った方を見ていた。
「聞いているのかユリア=トーレン!」
まだ戦いは終わっていない。ここから先、どうなるかは誰にもわからないままだ。
「……そうしたかった」
「なに?」
「ワタシだって、そうしたかったわよ!」
叫び声が響く。
「行くなと言ってあげたかった! 逃げてと、生きてと言ってあげたかった! でも……そんなこと言えるわけないじゃない!」
ユリアは首を振って、取り乱すように言葉を続けた。
「あいつはここに来てから一度も自分のために戦ったことはなかった! 自分が生き残るための戦いなんてしたことはなかった! いつだって誰かのために……誰かを生かすためだけに戦ってきたのよ! それがあいつの生きる唯一の目的だった!」
ユリアの金の髪が宙を舞って、その場に広がる。
「どうしてまだ戦うのぉ!?」
叫ぶ体に痛みが走る。
「あんな体になって! いくつも危険を冒して! 親友を殺すという罪まで重ねて! 誰にも知られずに! 誰から認められることも、褒められることもなく! 愛さず、愛されず、なのに、自分を許すことさえできないままで!」
その痛みがどこからくるものかはユリアにもわからない。
「死ぬまで戦い抜いても……それでもきっと、あいつはツケを払いきれないと思っている。罪を考えたら当たり前のことだと思っている。ワタシにできるのは、あいつにとって、最も過酷な道を用意することだけ……」
だから、わからないままでユリアは叫び続ける。吐露し続ける。
「こんなのひどい! ひどい押し付けよ!」
信じたい。
「ごめんなさい……! ごめんなさい! 慎之介ぇ!」
今だから信じられる。
言葉とは裏腹に、ユリアは信じていた。鉄ヶ山の勝利を。鉄ヶ山の帰還を。
一人の人間が勝てる相手ではない。しかし、ユリアにはもう信じるしかなかったのだ。




