第十四話・追憶の音色(C)
遠くに大きな船が浮かんでいて、この巨大な船と行き来するための船舶が港にいくつも停まっている。
港も、船も、朱塔が自分の持つ権限を最大まで使って用意させたものだった。
船はタンカーのようだが、これは人を運ぶために用意されたものである。
人々を避難させる必要があった。
知っている者はほとんどいないが、細歩はもうすぐ戦場となる。
それは、王都を相手どった戦いであり、いままでのものとは違う反王制の主張が行われる舞台となるのだ。
演じるのは王制の象徴の一つ、王家直属の近衛兵。それは、最も尊ばれる秩序の維持者。最も気高く、最も清い、選ばれた戦士達。
船の前には、第一便に乗る人々が集められていた。とはいえ、かなりの人数である。
行き先はわからない。どこか遠くだ。おそらくは別の隔離地域だろう。
文句を言う者は少なかった。集まった人々は後のない者が多かったからだ。
人々の集まる港のはずれにヨモギを乗せた朱塔の車が停まる。
船に乗る予定の、ある人物が待っていた。
「鉄ヶ山さん!」
ヨモギは人影を見てそれが鉄ヶ山だと気づいた。
鉄ヶ山は呆然としたような表情だ。頭をどこかにぶつけたかのように虚ろな目をしている。
「う……あ……」
ヨモギは思わず息をのんだ。
鉄ヶ山だとわかったのはマインド能力のおかげかもしれない。そう思えるほどに鉄ヶ山の状態はひどかった。
機能を失った右の眼球は、できの悪い木彫りの細工のようになっていた。
左足は靴も履けないほどに処置をされていて、右足にも装具がつけられている。
どうやら右手の指が数本足りておらず、左手の指も、血管の狭窄もしくは梗塞によって、いくつかが真っ黒になってしまっている。
乾燥しきって硬くなった肌はひび割れを起こし、体中に凝固した膿みとも血ともつかない浸出液がこびりついていた。
なにより、黒々としていた髪が、いまはもうすべて真っ白になってしまっている。
外見だけの話ではない。内臓の方はもっと甚だしいだろう。
満身創痍を超えた鉄ヶ山の体は、生きながらに腐り始めていたのである。
「あんた、残酷だよ」
ヨモギが鉄ヶ山の方へ行き、一人になった朱塔に、後ろからクルミが声をかけた。
「……残酷で、冷酷で、人でなし。そんなことは百の承知です」
朱塔は少し目を伏せて答えた。
「ですが、成した」
クルミは少し変わった。朱塔を残酷と思えた。一言だけで、責めはしなかったが、それは自分を省みてのことだった。
クルミは、少しばかり心細く見えた朱塔に、そっと肩を並べてみた。
・・・
「わざわざすまない。どうしても言わなければならないことがあるんだ」
鉄ヶ山の声には緊張が見られた。改まった、言葉を選ぶような慎重さがある。
「いいんです。私も鉄ヶ山さんに会いたかったから」
ヨモギは自分に素直になろうと思っていた。
「ユリア先生には会っていないんですか?」
「ああ、会っていない」
「どうしてですか?」
意地悪くもしてみる。
「ユリアには関係ないからだ」
「ユリア、ですか」
嫉妬もしてみる。
「誰にも関係ないことだ」
「冷たいんですね。そういうところ、駄目ですよ」
怒ってもみる。
「それで、話ってなんですか? どこかへお誘いとかだと嬉しいです」
挑発もしてみる。
重い表情の鉄ヶ山と、軽い声のヨモギ。まるで熱の違う二人だったが、すれ違っているのではない。
話がしたい。声が聞きたい。笑いあいたい。喧嘩がしたい。触れあいたい。この人と。
そういう思いだった。ヨモギの、必死の、懇願だったのだ。
異性からの突然の呼び出し。淡い期待を抱くのは年頃の少女にとって当たり前のことだろう。しかし、そうはならなかった。そうなるわけもなかった。
ヨモギはそれも知っていたから、泣きながら、笑いながら、ひたすらに骨組みのような二人の時間を埋めようとしていたのだ。もう、時間はない。
「んー、二人で行くなら、買い物とか、映画とか?」
嘘でもいい。
「あ! 鉄ヶ山さんってどんな映画が好きですか? 私はけっこうアクションものなんかが好きですよ。古い映画も――」
冗談でもいい。
「志乃原さん」
駄目でもいい。
「そうだ! わたし、お気に入りの場所があるんです。よかったら、そこに行きませんか?」
誤魔化しでもいい。
「そこは一面に花が咲いてて――」
約束なんて求めてない。
「志乃原さん!」
だから忘れて。
「…………」
いまは忘れて。
「頼む。聞いてくれ。絶対に伝えなければならないことなんだ」
聞きたくない。
「……オレなんだ」
言わないで。
「なにが……ですか……?」
聞きたくない!
「オレが、君のご両親を――」
言わないで!
鉄ヶ山が発しようとする言葉から、ヨモギは逃げたかった。
ヨモギの予想した鉄ヶ山の言葉はあまりに残酷だったからだ。
そのあまりに残酷な言葉が鉄ヶ山の口から発せられるのが、ヨモギには耐えられなかったのだ。しかし、耳を塞ぐことも、目を閉ざすことも、顔を背けることもできなかった。
「やめて……」
そうする時間もなかったし、そうする意識も持てなかった。何もかもが静止してしまっていたのだ。
だが、しかし、そして……そのとてつもなく遅く感じられる流れの中で、その言葉は、しっかりと、容赦なく響き渡った。
過去は覆らない。
過去はもどらない。
「――殺したんだ」
命は覆らない。
命はもどらない。
鉄ヶ山とヨモギの間にあったのは、赤い糸が紡ぎだす運命などではなく、血の滴りが映し出す宿命だった。
「いや……」
「動禅台事件のあのとき、君の目の前で、オレは君のご両親を殺した。あのときのガーダーはオレなんだ」
「嘘! そんなの嘘です!」
「すまない……本当にすまない!」
「いや……!」
「申し訳ない……! オレは君の大切な人を何人も……本当に、本当に申し訳ない!」
「いやあああ!」
命あればまた、退いて隠れることもできる。内々での園遊会にならば行けるかもしれない。演劇を見ることもできよう。小説も読める。要するに、そうした見過ぎ世過ぎを、あるいは楽しめた。
だが、鉄ヶ山が選択したのは、見たくもない物の限りを、命の限り見続けることだった。
宿を失っても、たとえば橋の下を求めるでもなく、隠れ家を必要ともしない、止まり木を捨てた旅鳥。
すべては己のしでかしたことだ。己が五臓六腑を溶かしたのだ。
だから、鉄ヶ山はそんな己を捨てた。
ひととき。これ以上ないほど貴重なひとときを、鉄ヶ山は自ら進んでドブに垂れ流すことを選んだ。




