第七話・系譜からの逃亡(C)
確かめたいことがある。しかし、ヨモギは恐れていた。朱塔がそれに答えるか、ではなく、それによって何かが起こることを恐れていた。
だから、違う質問をすることにした。
「……さっき言っていた、あれが朱塔さんには微笑ましかったんですか?」
「昼間の? ええ」
「本当に?」
「はい。微笑ましかったです」
「えーと、あの人」
「天野泰司君です。名前ぐらい覚えておいてあげましょうよ。あそこまで言い切れる人はなかなかいませんから」
「あの、だから、その、天野くんが言うような、そんな程度のものだったんですか?」
「城砦事件が、ですか?」
「はい」
「いいえ。あなたが体験したとおりで、あなたが感じたとおりで、あなたが思っているとおりでしょうね」
相手に委ねる汚い答え方だ。
朱塔は徹底して他人事という態度を崩さない。
ヨモギは感情のままに朱塔にぶつかってやろうと思った。
「だったら、なんであんなのが微笑ましいって言うんですか!」
「天野君は澤本と敵対していたのではありません。澤本を恐れていたんです。だから、あなたが名前を覚えられないほどに面識がなかった。本当に正面きって対立していたら、印象にぐらい残りますからね」
「それが?」
「普段の澤本に怯える者が、『黒い鷲』にどうして立ち向かえるというのでしょう? まして、あの夜、あそこには武装した影の七星がいて、想像を絶するような怪物までいたんですよ? お話にもなりませんねぇ」
「だから、それがどうして!」
「そんなだから、ですよ。そんな者があんな話をする。身の程知らずで、恥知らずで、微笑ましいでしょうに。あれだけほざける者はなかなかいません」
「なに、それ……」
「想像力がないのに現実感も喪失している。思慮のなさと責任感の欠如。倫理の錯誤と曲解、幼稚な解釈。的外れな根拠を持った思い上がり。それらの裏にはコンプレックス。尻馬に乗ることしかできない俗物ですよ」
朱塔はすらすらと言葉を並べる。
「周囲もひどいものだ。何事にも保障を求める覚悟のなさを誤魔化すために彼を御輿にかつぎあげている。もちろん叶わなければ離れていくでしょう。理由は自分がかわいいから。自分がかわいそうだから。自分が楽しいから。そして、相手もそうだから。生産性のない上辺だけの共感と自己憐憫です」
この朱塔のひどい言い分をヨモギは意外にもあっさりと受け入れることができた。
車庄吉を利用していたのはこの男なのだ。
あの使われ方では、車庄吉が処分されることなど予想できることだ。
朱塔はそういうことをやる男なのである。
「ですがね、それは凡人の特権です。そして、私にも当てはまる部分はある。だからこそ、それを超えていかなければならないのですよ。みんなでね。その先に至って、はじめていわゆる愚行権が認められると、私はそう思っているのですよ」
しかし、朱塔は、見方によっては助けと言えるかもしれない。秩序を守るために来たのかもしれない。
朱塔の答えにヨモギは満足した。朱塔になら聞いてもいいと、確かめてもいいと思った。
ヨモギが息を整えるために、吸気する。
しなやかな髪を揺らせて、目を瞑って、ヨモギは精一杯の力を振り絞った。
決定的な質問をするにはやはり覚悟が必要だった。自分の中にある疑惑と向き合わなくてはならないからだ。
自身の中にある疑惑と向き合えば、その影は容赦なくヨモギを前へと突き出すだろう。剥き身の体に真実が刺されば、友人と同じように迷いに曇ってしまうかもしれない。
しかし、ヨモギは、だからこそ、向き合おうと思った。
体全体を震わせてヨモギは質問を投げかけた。
「フォールの、正体は……鉄ヶ山さんなんですか?」
チホならば聞いただろうからだ。チホはそうしたからだ。
進むために、過ちかもしれない草むらへと飛び込む。
――わたしはチホにはなれないから――
今の自分に必要なことだと信じた。
「……ふん。彼に直接聞いてみてはいかがでしょう。どうなんですか?」
朱塔が壁の向こうに目を向ける。人がいるのだ。
盗み聞くように、しかし、見守るようにして、それはそこにいた。
ヨモギはデジャブを感じた。そして、その予感でもって、それがそれであると気づいていた。
「どうなんです? 鉄ヶ山慎之介」
朱塔の言葉がヨモギの中に波紋を起こす。
あの夜、澤本に対してきっちりとはまったパズルのピース。その部品には残りがあった。それは、もう一つのパズルを完成させるものだった。ヨモギはそれに気づいていて、認めようとしなかった。
しかし、それこそ、鉄ヶ山がフォールであるという唯一の証拠であり、同時に自分への懐疑。チホが足をとられた沼だ。
「あの……!」
姿を現した鉄ヶ山に声をかけようとして、ヨモギは息が止まりそうになった。
鉄ヶ山はボロボロだった。顔は腫れ上がり、内出血で真っ青だ。傷口に被せられたガーゼには膿みが滲んでいて、異臭もひどかった。
歩き方もおかしい。足の様子から、大きな怪我を負っていることがわかる。
「足の指が潰れているようですね。大丈夫ですか?」
朱塔がゴミの中から埃のかぶった椅子を乱暴に差し出す。
「おまえが朱塔同次郎か。話はトーレン先生から聞いている」
鉄ヶ山は声もガラガラだった。喉が荒れている、というような表現では生ぬるい。
今にも倒れていまいそうな鉄ヶ山だったが、血走った目だけは鋭くて、見るものに恐怖を抱かせるものだった。
「フヂナから中和剤を受け取らなかったですか?」
朱塔がやや怒ったような口調で問いかける。
「フヂナって、あの子か。ありがたく頂戴したさ」
「なのに使わなかったのですか。愚かしい」
「なぜここにいる?」
「いてはおかしいですか?」
「四柳先生にも聞いた。自警団の再編成を提案したそうだな。だが、おまえは戦う気も、人を動かす気もないんだろう?」
「それは違う。あちらの好き勝手させるつもりはありません。ただ、チャンスが必要なんです。それはわかってほしい」
「おまえのバックにいるディプロは誰なんだ!?」
「さあ」
「くそ!」
「それより、彼女の質問に答えてあげてはいかがですか? これではまるで誤魔化してるようです」
鉄ヶ山はヨモギを見ようとはしなかった。
沈黙の意味はそのときどきで変わる。この場合は言葉に窮しているのだ。
それはつまり、肯定を意味していた。
じわじわと膨れ上がる実感が、圧縮して封じ込めていた思考を開放していく。
「そうだ。オレが『フォール』だ」
鉄ヶ山の目が初めてヨモギの目を見据えた。その瞳にはなにか強い決心を秘めているかのようだった。
脳がじんじんする。顔が熱くなる。興奮がヨモギの中を駆け巡る。
もう帰らない。変わっていく環境の中で生きるんだ。
ほんの一瞬にブラックアウトした視界の遠くで、チホが微笑んだ気がした。
***
少しだけ、ほんの少しだけ、ヨモギの世界が変わった。
鉄ヶ山がフォールであることがわかったことが大きかったが、それだけではない。
朱塔やユリア、四柳からチホの最後が聞けたことが一番大きかった。
悲惨な最期だったのはわかっていた。正直に言えば、聞かされた話は予想をこえたものだった。
だが、フォールが、鉄ヶ山が引き金をひいたのは、少なくとも喜んでやったことではないことはヨモギにもわかった。
チホが最後にしたという謝罪を、ヨモギは自分なりに精一杯噛み締めている。だから、決意したときと変わらないまま今も先に進めている。そう思えた。
ヨモギは今日も『先生のところ』へ向かう。
仕事のこともあって、鉄ヶ山がよく来るからだ。
直接会いに行くのは気が引けた。今までの様子からして、たぶん会ってはくれないだろう。
だから、少しだけ遠回りしよう。
色々思うところはある。だが、フォールに何度も助けられているというのも事実だ。
直接礼は言えない。たぶん受け取ってはくれないだろう。
だから、少しだけ遠回りしよう。
今日も、明日も、遠回りだけど、歩いていこう。




