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〈2〉ロボットの管理する町

「いつもありがとう……名前……なんだっけ?」


 診療所の良助を見舞うと、彼は普通に話ができるようになっていた。


「霞。高橋霞よ」


 霞として再スタートを切った霧が、ささやくような声で答える。


「そっか。オレ、篠原良助」

「知ってるわよ」


 笑顔で返しながらも、霞は不思議だった。良助と一緒にいても、なぜか楽なのだ。これまでであれば感じていたはずの彼に対する不安やもどかしさ、そしてそれに伴うイライラが湧き起こってこない。幼少期の記憶を消した影響は予想以上に大きかったらしい。実際、良助が実の弟であることはもちろん、事故の経緯なども覚えてはいるのだが、『過去の良助に対する執着心』は失われていた。自分の性格も、勝ち気で猜疑心の強いところは変わらないものの、以前のような強烈な個性は影をひそめていた。


 一方で、良助の体は順調に回復していたが、記憶はやはり戻らなかった。退院後、良助は篠原家に、霞は高橋家に養子として迎えられることになっていたが、良助には自分たちが姉弟であることも、養子であることも伏せられていた。その方が組織にとって都合が良かったのだろう。二人が別々の家に入ることになったのも霧の言葉を真に受けた上層部が懸念したからだが、彼女は意に介していなかった。そうなることはわかっていたし、それ以前に霧は、姉弟としての関係には何のこだわりもなかった。もともと霧は良助に依存していたわけではない。自立心の強い彼女が執着していたのはあくまで「互いに尊重し、尊敬できる同学年」だったのだ。強い者同士、互いを認め、高め合うライバルとしての関係。だがそれは結局、以前の良助をおいて他にはいなかった。


「身体()いてあげるね」


 霞は良助をベッドの上で座らせ、パジャマの上を脱がせると、洗面器の水につけたタオルをしぼる。


「オレって、どんな奴だったの?」


「そうね。勉強が嫌いで、ひ弱な子だったわ。わたしがいつも守ってあげてたな。でも大丈夫。これからもわたしがついてるから、心配しないで」


 やせた背中を拭きながら、気を使いつつ答える。しかし、


「そうだったんだ……」


 そう言ってうつむく良助を前に、霞はなぜか、胸が痛んだ。



 ◆◇◆



 その数日後。霞がいつものように世話をしていると、おもむろに良助が言った。


「あのさ、お願いがあるんだけど」

「何かしら?」


「オレの姉貴になってくれないか?」


「えっ?」


 思わず彼を拭く手が止まった。自分たちは血がつながっているとはいえ、見た目はまったく似ていないのだが、良助は何かに気付いたのだろうか? それとも彼にはもともと血のつながりを大切にする気持ちがあったのか? これまで自分は姉であることを意識したことはなかったし、てっきり良助もそうだとばかり思っていたけれど、実際はそうではなかったのかも。であれば自分の選択は彼の望まない形だったのではないか? そんな考えが霞の頭をよぎった。


「オレってもともと、相当情けない奴なんだよな。なのに記憶まで失っちまった。オヤジのこともお袋のことも未だによくわからないし。そんなオレが頼れるのは、いつも来てくれる霞しかいないんだよ……」


 そう言いながら良助がうつむく。


 霞は少しほっとすると同時に、これまでの自分にはなかった気持ちが芽生えるのを感じた。強い者にしか興味を抱かないはずの自分が良助に頼られたことに、なぜか心をくすぐられた気がしたのだ。


「わかったわ。良助が独り立ちできるまで、お姉さんでいてあげる。その代わり、リハビリ頑張ってね」


 再び彼の背を拭きながら霞は、この子を守りたい、守らなければ、という気持ちが湧き起こってきたことに、自分でも驚いていた。



 数日後、良助の三か月に渡るリハビリが始まった。


 霞は付き添いながら、笑顔で彼を励まし続けた。仮の姉を演じ続けた。



 ◆◇◆



 リハビリが終わり、スカンディナビアに移管された良助と霞は、結局一学年違いに配属された。良助の知能レベルは決して低いものではなかったし、霞も懸命にサポートしたのだが、失った記憶とブランクはやはり大きく、事故との辻褄つじつまを合わせるためにも、やむを得なかった。


 良助が記憶喪失であることは隠されたが、周囲の子供たちは次第に気づいていく。二人の通っていた空手道場では、半ば必然的にひ弱な良助をターゲットにしたいじめが始まった。そんな良助を霞が守る日々が続く。カムチャッカ仕込みの霞にかなう小学生はいなかったが、それは逆に良助が独り立ちできるまで霞がついていなければならないことを意味した。それでも霞は良助に優しく接し続けた。



 事件が起きたのは、移管されて半年たったある日のこと。


 10歳になった霞と良助の前に一人の中学生が現れた。


「お前か? 俺の弟をいじめてくれた高橋霞っていうのは?」


 道場に通う途中の二人の前に立ちはだかり、霞を呼び止めた。


「人違いじゃない? わたし、誰かをいじめた覚えはないけど?」


 霞はきつく言ったつもりだったが、根っからのウイスパーボイスのせいか毒があるようには聞こえない。霧のころの鋭い目付きも影を潜め、年のわりに背が高いだけの、暗い女の子にしか見えなかった。


「いい度胸だな。女だてらにやたら強いっていう噂だが、俺と勝負してみるか?」


「なに言ってんの、こんなところで体に傷でもつこうものなら、すぐに巡回ロボットがやって来るわよ」


「邪魔が入らないところに連れてってやるよ」


「邪魔が入らないところ?」


「そこの空き家だ」


(ああ、そういうことね)


 確かにこの町には居住者のいない家がたくさんあった。


 町並みは整然と整理されているように見えるが、それはロボットの清掃によるもので、それも家の中までは侵入しては来ない。


「悪いけど興味ないわ。行こ、良助」


「待てよ、そっちの良助ってのにも話があるんだよ。お前らつき合ってんのか?」


「えっ?」

「バカ、あんたなに言いだすのよ!」


 霞はとっさに男と良助の間に割って入った。


「お前には聞いてねえ。良助、お前いつもこの女に守られて、情けなくねーのかよ」


「…………」


 下を向いて黙る良助。霞はさすがに腹立たしくなった。


「あんたさっき、わたしがあんたの弟をいじめたとか言ってたけど、その子が良助のことをいじめているの、知ってるんじゃない! いったいどうしたいわけ?」


「だからお前には聞いてねえ」


「あんたみたいな奴が一番むかつくのよ!」


「俺はこいつみたいなひょろいでくの坊にむかつくんだよ!」


「よくわかんないけどさ、わたしたちを自分の都合に巻き込まないでよ。その空き家に何人待ってんのよ?」


「え?」


 霞はトーンを変えてぼそっと言ったが、その質問に中学生はうろたえた。


「あんただけじゃないんでしょ? 不自然な言いがかりつけるくらいだし。いったい何人いるのよ?」


「さ……三人だ」


 嘘のつけない彼が青くなりながら口にする。


「誰よ。名前を言いなさいよ」


「……俺の他は……今村、越野、古田……」


「今村って、『今村道明』?」


「ああ……」


「今村に、難癖つけてわたしを連れて来いって、言われたの?」


「あ、ああ……」


「なぜそうなったの?」


「……お前らむかつくから、素っ裸にして写真撮って、奴隷にしてやろうぜって」


「あきれて物が言えないわ。それって、小学生相手にするようなことなの?」


 霞は声のトーンをさらに落とし、たしなめるように言った。


「いや……おかしいとは思う……」


「あんた、今村には逆らえないの?」


「……ああ」


 中学生が霞から目をそらす。



 「今村」という名前を聞いた瞬間、霞の頭のスイッチは切り替わっていた。今村道明はカムチャッカのターゲットリストに掲載された、つまり霞が探していた要注意人物だったのだ。


 目の前の中学生はおそらく、今村に催眠か何かで操られているのだろう。


「じゃあ、わたしを連れてってよ」


 霞が言った。

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