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〈1〉霧と霞

 小さな女の子が病室で眠る男の子の手を握っていた。


 ショートカットの女の子は時折、思いついたことを語りかけるが、男の子は眠ったまま。目を覚まさない。


きりちゃん、私の方でやっておくから、お勉強してきたら?」


 40歳台の看護婦が女の子に声をかけた。


「ありがとう。助かります」


 霧と呼ばれた女の子は無表情なまま、か細い声で答えた。


「いやいや、本当は私の仕事だから。こちらこそ助かってますよ」


 そう答える看護婦に一礼し、女の子は病室を出ていった。


「それにしても良助くん、痩せたね」


 看護婦がつぶやいた。




(あれから3か月か……)


 廊下を歩きながら、霧は事故の時のことを思い出していた。




 人工知能が管理する西暦2052年の世界。中央集権機構の中の警察機関「カムチャッカ」の内部、F・M研究所でその事故は起きた。



 ◆◇◆



「霧、大丈夫か?」

「平気。続けて」


 この研究室には頭脳と身体能力で選ばれた子供たちが集められ、秘密裏に脳波の解析と活用に関わる実験的な研究・調査が進められていた。


「良助、レベル上げるよ!」

「わかった!」


 ヘッドセットを被って共通の世界にダイブする霧と良助は9歳の双子の姉弟。この日二人は互いの意識をシンクロさせ、肉体的、精神的な強化を図るトレーニングに励んでいた。


 だがトレーニングといっても実際は教育的なものとは程遠い、サンプル取りの意味合いの強い試験的なもの。つまり、ほとんど人体実験。


 そうとは知らない二人は今年に入ってからは予定数以上のカリキュラムをこなし、レベルアップを図っていた。


 この日の午後のメニューは反応速度を高めるトレーニング。高速で迫りくるブロックイメージを避けつつ、破壊するカリキュラム。


 脳に注ぎ込まれるイメージに対する反応が記録されるなか、二人は0.001秒を争うスピードでターゲットを撃破していく。


 ところが、


「あっ!」


 ブロックが予期しない動きを見せ、霧が一瞬バランスを崩す。


 悲劇が起きたのは、その時だった。


「霧!」


 姉を助けようとした良助は、とっさに霧側の停止ボタンを押した。


 マニュアル通りの対応。

 しかし、タイミングが悪かった。


 ほんの数秒前にブレインインターフェイスのロードバランサーに故障が発生し、堆積たいせきされた内部の情報がコントロール不能におちいっていたのだ。スイッチが切り替わった瞬間、出口を求める膨大な量の情報が良助の脳内に直接注ぎ込まれた。


(うわああぁぁ!)


 声にならない叫びをあげ、良助の意識は、深い闇に落ちていった。


 遠くの方で自分の名を呼ぶ霧の声を聞きながら……。



 ◆◇◆



「お前が悪かったわけではない。良助のそばについていてやれ」


 報告を受けた署長が霧に言った。


「……わかりました」


 霧と良助の安穏あんのんとした生活が始まったのはそれから。


 カムチャッカ内の診療所で霧は良助をこの3ヶ月、見守り続けていた。きっとすぐに意識を取り戻すに違いない、そうであってほしい、当初そう考えていた霧だったが、日に日に痩せていく彼の姿を見て、その考えをあらためざるを得なくなっていた。


(このままだと良助の意識は永遠に戻らないかもしれない)


 そう思った霧は、自ら行動を起こすことを決意する。


 診療所の担当医にかけあって最新脳科学に関する話を聞き、時間をみては症例に関連する情報を収集する日々。しかし良助の事故自体が隠蔽いんぺい処理されたため、組織の内部でも事実を知る者は少なく、秘密を漏らすことの許されない霧は、周囲に対して壁を作り、それまで以上に大人への猜疑心さいぎしんを深めながら、孤独な活動を強いられることとなる。


(頼れるのは自分の力だけ。私が良助を救わなければ……)


 廊下を歩く霧は一人、心に誓った。



 ◆◇◆



 翌日、霧は良助のベッドのそばで最新の脳神経研究を調べていた。


(『意識障害における脳波治療。仮想世界を活用し安定期の延長をはかるプロセス』か。意識を呼び戻すことはできなさそうね)


 裏切られた期待にため息をつきつつ、読み終えた資料を閉じたとき、


「……んん」


(えっ? 良助?)


 一瞬声が聞こえた気がした霧は、おそるおそる彼の手をにぎる。



 すると、ゆっくりと良助の目が開いた。意識が戻ったのだ。


「良助‼ 私のこと覚えてる?」


 その呼びかけに応じるように目が霧の方を向いた。


「良助‼ 私よ‼ 覚えてる?」



「……誰?」



 目を覚ました彼の記憶は、ほぼ失われていた。記憶喪失というよりも、これまでのエピソード記憶が空白に上書きされていたのだ。


 霧は愕然がくぜんとした。こんな現実が待っているとは予想だにしていなかったのだ。命があるだけ良かった、などとは思えなかった。確かに良助は生きていた。最初はそれで自分を納得させようともした。だが彼は自分の知っている彼ではなかった。人格のまったく異なる、気弱で痩せっぽちのただの子供だった。


(このままじゃ、ダメだ。本当の良助が違う良助に乗っ取られてしまう!)


 思いつめた霧は、科学の進歩に一縷いちるの望みをかけ、大学病院の研究を調べ始める。最新の情報では、記憶の一部を脳波から取り出そうとする研究論文が発表されていた。


(本当に脳波から記憶を取り出せるのであれば、研究所ここに保存されているはずの脳波情報を大学病院に送れば、良助の記憶を再現できるかも――)


 そう考えた霧は署長に掛け合う。

 だが、署長は冷たく言った。


「無理だ。もし良助の脳波が大学病院の手に渡ってしまえば、我々の組織すべてが危機にさらされることになる」


「そんな!」


「『人間の脳に記憶を転送する』ということはコンピューターのデータのように簡単な話ではない。再び意識を失い、二度と目覚めないおそれもある。良助の脳自体が完全に破壊されてしまうかもしれない」


「ですがうちの技術でも、人の記憶を消すことはできるんですよね? 逆に元に戻すことはできないんですか?」


「お前の気持ちはわかる。だが本当にできないんだ」


「では、良助に私たちの記憶を見せることは? それで良助が何かを思い出すことができれば――」


「ダメだ。後発リスクが高すぎる」


 霧は言葉を失った。彼女にとって以前の良助の存在はすでに、単なる弟ではなかった。互いにシンクロする中で、考えていることが手に取るようにわかる、唯一無二の存在。そして、恩人。もしもあのとき良助が停止ボタンを押していなければ、意識と記憶を失ったのは、霧の方だった。


 その彼が二度と戻ってこないと目の前で断言された霧は、音が出るほど奥歯をみしめた。そうしなければこれ以上理性を保つことはできないと思った。


 そんな霧を前に、署長が続ける。


「リハビリが終了次第、良助の人格設定を変更し、スカンディナビアに移管する」


「…………」


「一般人として生きる方が、あいつにとっては幸せだろう」


「……お願いがあります」


 血が出るほど奥歯を噛んでいた霧は、少し間を開けて言った。


「なんだ?」


「私も移管してください。記憶が元に戻らないのであれば、これ以上良助の人格を変える必要もないはず。変えるのは、私の方でお願いします」


「まさか……お前の記憶を消せと?」


「はい。今後の活動に不要な記憶を消して別人格として移管してください。元々その予定だったんですよね?」


「…………」


 霧たちは被験者ではあったが、その一方で将来、カムチャッカ(警察機関)の捜査官に赴任予定のエリート候補生でもあった。ただ、ここに集められた天才少年少女の中においても、霧の気性の激しさは群を抜いていた。いつも温厚な良助と一緒だったため、これまでトラブルは発生していなかったものの、周りの関係者は霧が将来、犯罪を取り締まる側ではなく、取り締まられる側にまわるのではないかと危ぶんでいた。そして性格の矯正が認められない場合、その危険な人格の要因となる記憶が取り除かれるであろうことも霧は噂に聞いていた。


 だが、その強烈な個性が下した決断の理由は、予想外のものだった。


「良助には私が必要。たとえ姉としての立場ではないとしても、私はあの子について行くつもりです」


「ん? お前は今の良助のことが嫌いなのではないのか?」


 署長の言葉に霧は首を振って答える。


「まだ私はあきらめてませんから。だけどもし、本当に良助が戻って来ないなら、もう一度、本物の良助を作り出します。いえ、以前よりも強い子に育ててみせます。この私が」


「…………」


「ただ、今のままじゃ私、感情的になってあの子につらく当たることは目に見えてますから。私がよい子に生まれ変わらなければダメなんです」


「……本当にそこまでする必要があるのか?」


「最近のターゲットリストを見ました。中にはスカンディナビア所属の子供も数名います。良助をケアしながら私ができるのは、その子供たちをマークすることくらいかと」


「いや、まだお前に任務を任せることは考えていない。それにお前には拒否権があるはず――」


「元より私はそのつもりでしたから」


 霧にきっぱりと言われ、署長は言葉に詰まった。性格を矯正するために記憶を消すことは、言わば犯罪者に対する刑罰であり、そうでなければ傷害罪である。たとえ相手が精神病質者サイコパスであったとしても、無実の人間に対して許される行為ではない。ましてや霧は精神病質者ではなかった。いかに本人の希望とはいえ、同意することはできない。


 そう考える署長の立場を見抜くように、霧が訴えた。


「これは私にとって必要な治療なんです。これを機に自分の過去を払拭したいんです。新しく生まれ変わりたいんです。今の人格のまま生きていくことがどれだけつらいことなのか、自分でもわかってるの」


「お前……」


「それでも認めてもらえないのであれば、私は……組織ここを破壊します」


 氷のような霧の視線が署長を突き刺した。


「……本当にいいのか? それで」

「覚悟はできています」


「わかった。うちに籍を置いたまま、お前もスカンディナビアに移管する」


「よろしくお願いします」



 頭を下げ、署長室から出てきた霧の目は、本気で覚悟を決めた目だった。


(これで……いいのよ……)



 カムチャッカ研修生だった霧が、一般人「高橋霞」という人格を与えられ、表の世界で生きることが正式に決まったのは、その翌日だった。

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