(3)玲が考えていたこと
夕食後、部屋に戻った雅也は再びベッドに転がると、時計を見ながら思う。玲が学校であまりしゃべらなくなったのは、自分の両親が自分と言葉を交わさなくなった時期とかぶるような気もする。玲の家はどうなのだろうか? よくよく考えたらあいつと話さなければならないことはたくさんあるんじゃないか? 古めかしい時計を見ながら雅也はそんなことを考えていた。
その時計が6時50分を告げる。
体を起こした雅也は音を立てないよう部屋から出ると、両親に見つからないよう、家のカギを取りに行った。
カギの保管場所は昔から決まっていたが、長いこと使われていなかったようで、埃をかぶっていた。手に取ってポケットにしまいこむと、雅也は体育で使うスポーツシューズを持ってそっと玄関に向かい、音を立てないようにドアを開ける。自宅のドアの表側を見るのも久しぶりだった。部屋番号を再確認すると、音を立てないよう細心の注意を払いながらドアを閉め、汚れるのも気にせず外でシューズを履いた。
立ち上がった雅也はこみあげてくる懐かしさを押さえつつエレベーターまで来ると「降りるボタン」を押す。ランプが16階まで登ってくるのをドキドキしながら待った。ドアが開くと中に入り、1階のボタンに指を伸ばす。閉まるドアの中で雅也は脱出の成功に心臓の鼓動を感じながら、学校に上がる前はこのボタンに手が届かなかったことを思い出していた。
一階でエレベーターのドアが開くと、注意深く周囲をうかがう。
人気はない。
雅也はマンションの入り口から薄暗い歩道に降り立った。
(公園に行くなんて……五年ぶりだ)
一人暗い道を歩きながら、雅也は高揚していた。いつも窓から見ている風景の中をリアルに歩いているのが信じられなかった。しかも、公園の反対側からは同じ思いを抱いた玲が自分と同じように歩いて来るのだ。胸の高鳴りを抑えつつ、誰もいない薄暗い道を一人で歩きながら、自分でも知らないうちにスピードが徐々に上がっていった。
公園は自宅のマンションから200mほどのところにあった。誰も使っていない、たった50m四方の公園。昔はもっと広く感じたが、今は全体が簡単に見渡せ、驚く。中心に立って周囲を見回したそのとき、とり囲む住宅街がやけにひっそりと、生活感がないことに気づいた。住宅の明かりがポツリポツリとしか見えない。マンションもそうだ。最近部屋から見た夜景もそう煌びやかではなかったが、公園の明かりの中から見渡すと、さらに寂しく感じる。巡回ロボットが管理する街並みは清潔感こそあるものの、あまりに静かで不気味さが際立っていた。
「待たせたな」
声の方を見ると、公園の入り口に玲が立っていた。毎日学校で姿を見ているものの、こうしてリアルで会うのはなんだか気恥ずかしく、それを気づかれないよう、表に出さないようにするのが精一杯で、雅也は声が出せなかった。
「ブランコ、行くか」
「……ああ」
どう返すべきかわからず、自分らしくない言葉を選んでしまったと思った。
二人でブランコに腰を下ろすと、なんとなく揺らしてみる。
ほおに当たる空気が気持ちいい。
「で、何がわかったの?」
横を向いてそう切り出すと、玲は少しブランコを揺らしながら、言葉を選んで口を開いた。
「お前将来、何したい?」
質問を質問で切り返され、雅也は戸惑った。
「何って、物理だけど?」
「なぜだ?」
「なぜって、一番得意だから?」
「なぜ一番得意なんだ?」
「だってテストの成績で出るし――」
「じゃあサイタニウム理論の証明、そこに書いてみろ」
どこで拾って来たのか、玲に木切れを手渡された。
「えっと…………こうだよね?」
長い数式を地面に書きつける。だが玲は、
「違うだろ。かしてみろ」
そう言って木切れを雅也から受け取るとブランコから立ち上がり、かっかっ、と地面に書きつけた。
「こうだろ」
「えっ? こんなの習ってないよ!」
「話がそれるから説明はしない。だがお前、こんなこと本気でやりたいのか?」
目の前から迫る玲の視線と言葉に気圧されながらも雅也は立ち上がった。
玲の言いたいことはなんとなくわかっていた。すべてが人工知能に管理されたこの世界で、自分が勉強することの意義を見いだせていないことを彼は見抜いていた。正直、くやしいと思った。
「仕方ないじゃないか。他にやることないし……っていうかお前、なんだよ! お前こそ何が言いたいんだよ!」
その言葉に玲は下を向き、ぽつりとつぶやいた。
「知っておきたいんだ。リアルの世界を」
「どういうことだよ」
「こうして今、お前と話しているだろ? このリアルの世界さ」
「えーっと……何が言いたいのかよくわからないんだけど」
「例えばの話だが、この世界の住人のほとんどが、ホログラムだったとしたら、どう思う?」
「どうって、すでにそうなんじゃないの? 僕らの生活時間の半分以上は学校で、大人はほぼ80%以上が仮想世界なんだし」
「俺が言っているのはそういうことじゃない。人間の多くがホロに成り代わられている、としたらどうだ?」
「……どういうこと?」
「お前、ホロと普通の人間の区別がつくか?」
「いや、あまり考えたことないな……さわっても手ごたえがないのがホログラムなんじゃないの?」
そう答えつつも質問の意図がいまいちよくわからない雅也が頭をかいたとき、玲は木切れを投げ捨てた。
「もし、俺らのクラスの中で俺とお前の二人だけしか、リアルな人間がいない……としても驚かないか?」
「えっ? そうなの?」
「まだ確実なことは言えん。だがお前、最近の大輔や敏行や隆俊の話を聞いて、違和感ないか?」
違和感があるのはどう考えても玲の言葉のほうだ。だが彼の目つきは真剣だった。
「うーん、確かに子供っぽいとは思うけど、成績は大差ないし、見た目はああでもしっかりしてるのかな、って思ってた。ただ、お前の推理が正しければ、あいつらは実在してないってこと?」
「お前はどう見る?」
「考えたこともない」
言いながら口をつぐむ。それを見た玲の端正な顔立ちが曇った。
「例えばだが……もしもお前の目の前にいるこの俺が、実在しないとしたら?」
「え?」
「もし、俺がこうやってナイフを持って、お前に襲い掛かってきたとしたら?」
「は?」
自分の態度を完全に無視し、玲はポケットからナイフを取り出した。
「じょ……冗談だろ?」
「ああ、冗談さ」
玲が、持っているナイフをちょんと自分の指につき刺す。そこから赤い血がにじんだ。
「お、おい……大丈夫か?」
「たいしたことないだろ、これくらい。俺が人間である証だよ」
赤い点のついた指を向けて玲が笑った。
「何言ってんだ! お前を疑ってなんかいないよ!」
「お前こそ素直すぎるんだよ! 俺の言うこと、まじめに考えてくれよ!」
「えーっと、なんていうか、話に全然ついていけてないんだけど――」
「お前もわかるはずだ。今日のテストのこと、すぐに気がついたろ?」
「そりゃ標準偏差があれだけ大きかったら誰だって気づくさ」
「他に誰か気づいていたか?」
「ん? いや…………そういえば妙におとなしかったな……」
「だろ? 誰も気づいていないんだ。だからわかったんだ。もし俺ら以外の全員が本人の存在しないホロで、平均値を演じているだけだとしたら? というか毎回のテストの平均点が80点強って、そう簡単におさまるものか? 統計学のサンプルのほうがよっぽどリアリティがないか?」
「あっ! そういうこと?」
「この町を見てみろよ。ほとんど誰も住んでないんじゃないか?」
「…………」
「5年前、俺たちがここに来た次の日、大輔たちがこれ見よがしに警告してきたの、覚えてないか?」
言われて雅也は、今朝のテストの時の回想を思い出した。そうだ、確かにあれは玲に対する大輔の言葉だった。
「『外に出ちゃダメだよ』ってやつ?」
「そう、それだ。明らかに俺らに対してのメッセージじゃなかったか? おかしいと思わなかったか?」
「…………」
雅也は黙ったが、頭の中で何かが氷解するのを感じた。玲も自分が抱いていた違和感に疑問を持っていた。そしてそれに答えを出してきたのだ。これまで自分たちが信じてきたものは間違いだったと。そして、その答えが正しいのだと自分の直感が告げていた。
「騙されているんだよ。俺ら――」
玲がそう言ったときだった。
『そこで何をしている!』




