絶望的懐疑主義者の作り方
疑わしい情報に溢れたネット社会、疑う術を知らないものは傷つけられる
疑うことで発展してきた科学、疑う術を知れば新しい世界を見つけられる
君は絶望的懐疑主義者になれるだろうか?
僕が簡単なテストをしてあげよう
ーー第一問
木からリンゴが落ちたのを見た、何を思うか?
普通の人はリンゴが熟れたんだ
食べごろだな、と思うかもしれない
ちなみに、ニュートンは何故リンゴが落ちるのかと懐疑し、万有引力の概念に至った
しかし、これは十分ではない
絶望的懐疑主義者ならば、本当に落ちたものがリンゴだったかを疑う
赤くて丸くて、拾って食べれば甘いリンゴの味がしたからと言って、それは本当にリンゴなのだろうか?
リンゴに限りなく近い別の果物なのかもしれないではないか
あるいは、本当に落ちたのかを疑う
十秒前にリンゴが落ちたように見えても、それはただの見間違いだったかもしれない
実は赤いボールが落ちただけで、リンゴは初めから地面に転がっていたのかもしれない
もしくは、リンゴが落ちたという記憶は脳が作った誤った記憶かもしれない
実に疑わしいではないか
ーー第二問
下駄箱にラブレターが入っていた、これはどういうことか?
普通の人は二通りくらいの答えを用意するのではないだろうか?
一つ目は、密かに自分に恋い焦がれていた子からの告白だということ
二つ目は、クラスメイトによるたちの悪いイタズラだということ
しかし、これでは絶望的懐疑主義者にはなれない
それは本当にラブレターだろうか?
はじめ読んだ時に、体育館の裏に来いと書いてあったからラブレターと勘違いしただけで、それは果たし状だったのかもしれない
異性からの手紙だったからというだけの理由で舞い上がって、ただの迷惑メールもどきだったのをラブレターと勘違いしたのかもしれなない
あるいは、この下駄箱は本当に自分の下駄箱だろうか?
となりのモテモテのやつへのラブレターではなかろうか?
たとえ、自分宛てのものだったとしても、だいたいラブレターというものは何なのだ?
恋文……自分の恋を相手に伝えるものなのか?……恋とはなんなのだろうか?
全くわからなくなり、答えが出せない……
実に疑わしい
ーー第三問
全ての人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、ソクラテスは死ぬか?
三段論法から、ソクラテスは明確に死ぬ!
本当だろうか?
まず、初めにでてきた人間であるソクラテスと、二番目に出てきた死ぬかどうかを尋ねられているソクラテスは、本当に同一のものなのだろうか?
初めに出てきたソクラテスはミスリードで、二番目のソクラテスは星の名前かもしれないじゃないか
そうなれば三段論法は使えない
あるいは、全ての人間の「人間」は「にんげん」と読んで、ソクラテスは人間の「人間」は、「ひとま」という別の意味で読ませるような、意地悪な質問なのかもしれない
だいたい、問題文自体が間違ってるかもしれないじゃないか!
本当に人間は全て死ぬのか? 未来人は不老不死かもしれないじゃないか!
ソクラテスは本当に人間か? 宇宙人や、仙人や、神様的な何かでないとどうして言える!
もっと言えば、本当に三段論法は正しいのか?
疑いようもないみたいに使うけど、本当に正しいのか?
人間の脳みそでは三段論法的にしか考えられないだけじゃないか?
これについては「ルイスキャロルのパラドックス」で検索してみよう
Wikipediaを一通り見て、なるほどと絶望的懐疑主義者に一歩前進
三段論法は結局人間が先天的に持っている論理であって、人間にとっては真理だと思えてしまうだけの考えであって、三段論法が成り立つということの証明は永遠にできないんだーと納得
ん? 納得?
それは、絶望的懐疑主義者にあるまじき行為
本当に証明はできないのか?
何らかの方法で証明できるのではないか?
自分たちで考えてみよう
あと、本当にWikipediaのこの情報って正しいのだろうか?
本当にルイスキャロルがこんなこと言ったのかな?
誰かが適当なこと書いたのかもしれないじゃないか
じゃあ、他のサイトも検索してみる、ふーん、いろいろなサイトで紹介はされているけど、これ全部Wikipediaに書いてあったことを参照しちゃってるかもしれないしなー
参考文献を見てみればいいのか?
でも、それだって何処かの時代で創作されたものが、みんなに信じ込まれているだけかもしれないじゃないか
まあ、その話は置いておいて
ーー第四問
この世界で疑いようも無いことは何か……?
見えているものは、触れているものは、目の前にあるものは、現実世界は疑いようもない
本当だろうか?
この現実世界は、もしかしたら水槽の中に浮いた脳味噌が見ている夢なんじゃないか?
錯覚や錯視や幻覚や幻聴やそういった類のものだっていっぱいあるんだから、現実だと思っているものも結構あやふやかもしれない
そうやって、色々なものを否定して行き、大昔の哲学者デカルトさんは「我思う故に我あり」何て言って、この世界で唯一確かなのは、考え事をしているこの私という存在だけだと言った。
なるほどね、その通りだ! 納得!
え……納得?
本当に納得していいの?
自分の存在って本当に確かなの?
自分が生まれていなかった時のことがわからない、自分がどうして存在しているのかもわからない
いずれ死んで消えてしまう自分という存在(いや、本当に死ぬのかも疑問だけれど)は、確実に確実だと言えるのだろうか?
いや、言えるのかもしれないけれど、絶対に自分の存在は確かだと絶対に言えるのだろうか?
そう言えるのだと信じ込んでいるのも、三段論法を正しいと信じ込んでしまっているのと一緒で、人間の脳味噌にそういう論理が刻み込まれているせいかもしれないじゃないか
人間が考えるなら、人間の思考形式を超えて世界を理解できない
なら、世界の真の真理に辿り着けるのかは怪しいものだ
さて、ここまで四問(本当に四問だったか?)懐疑を続けてみて、ああ確かにそうだなーと思って見ていた、そこの君
そこの君は、絶望的懐疑主義者に向いていない
そうだなーと、なんで納得するのだ?
与えられた情報を鵜呑みにしちゃダメだ!
何処か論理が間違っているのではないかと、そうやって読み進めた君、君こそが適合者だ!
え?
本当にそうか?
この文章、適当なことを言っているんじゃないか?
一旦、全ての情報を肯定的に受け取った後、ゆっくり別の可能性を考えたっていいじゃないか
だいたい、「絶望的」懐疑主義者ってなんだよ?
懐疑主義者の定義じゃないですよーという逃げを作者が作ってるんじゃないの?
作者のいい加減さの表れじゃないの?
というか、本当にこの文章って作者が書いたのかな?
自然発生したわけじゃないと絶対に言い切れるのかな?
え? エネルギーの保存則は情報にも適用されるって?
エネルギーって本当に保存されるのかな?
無から有が生まれることって本当にないのかな?
疑問符ばかりのこの文章、本当に読む意義ってあるのかな?
バカみたいに疑問文を書き並べてるだけで、何も有意義なこと言ってないじゃないか
え? 本当に有意義なことって何もない?
こうやって色々と疑問を持って世界を見ることで、新しい概念を見つけたりできるかもしれないですし、騙されにくくなるかもしれないじゃないですか
それって本当?
っていうか、それ別に生きるのに役立たないし、どうでもいいんじゃないか
本当に生きる上でどうでもいいのか?
というか、生きるってどういうことか?
ただ、食べて寝て息をしてではないよな?
幸せに生きていたいもんな
え? 本当に生きることっていいことなのかな?
もしかしたらさ、天国みたいな場所があるんだけど、若くして死んだ方がより良い待遇で迎えられるみたいな制度があるかもしれないじゃん、それなら長く幸せに生きようとするより、さっさと死んだ方がいいかもしれないよな
この世界には死んだ人間がいないからわからないだけかもしれないよな
……でさ、結局これが何の役に立つんだろう?
まあ、何の役にも立たないだろ?
え、本当?
少なくとも暇つぶしにはなるんじゃない?
向き不向きはあるけど……
あと、絶望しすぎて死んじゃわないよう気をつけてね!
疑わしい情報に溢れたネット社会(本当に疑わしい情報なのだろうか?)、疑う術を知らないものは傷つけられる(本当に傷つけられるのか? 疑ってばかりいる方がむしろ傷ついたりはしないか?)
疑うことで発展してきた科学(本当にそうか? むしろ何らかの原理があると信じたことで発展したと言えるのではないか?)、疑う術を知れば新しい世界を見つけられる(疑ってばかりでは、世界どころか自分という存在すらも見失ってしまうのではないか?)