自由へのあと一手
ここから一体何回、この青空を眺めただろうか?
曇りなき、このけがれなき青空を。
ここに来るまで、落ち着きのなかった心もこの空を見ると、すぅーと気持ちが落ち着いてくる。俺は座りながらこの空を見ている。
あと二回、あと二回勝てば、俺はいよいよ筆頭剣闘士だ。
負ければ終わり、勝利の栄光を自分の手で掴む、この弱肉強食の世界に身を投じてからどのくらい経っただろうか。もはや数え切れないくらいの相手を打倒し、何とか勝利を得てきた。
自分の上半身に刻まれた傷痕をなぞる。
刻まれた一つ一つに思い当たる節がある。
この傷から、大体どんな相手と戦ったか分かる。
コロッセオの闘技会場から、入場の音楽が聞こえてくる。
いよいよか。
俺は立ち上がった。
右手には剣を、左手には盾をそれぞれ持ちながら、入口の扉に一歩また一歩と近づいていく。
近づくたびに、落ち着いていた心が、慌ただしくなる。
この扉が開けば、勝利しない限り、ここには戻ってこれない。
今日も勝って帰る。
誰だろうと、俺の行く手に立ちはだかるなら、ぶち殺す!
ぶわぁぁぁと大きく息を吐き、俺は頬を打った。
入口の扉の前に立つと、近くからはぁはぁと荒い息遣いが聞こえ、この俺の目の前にある扉が徐々に徐々に開いていく。
奴隷たちが、この会場への入場の頑丈な鉄格子の扉を開いているのだ。
俺は、ゆっくりゆっくりコロッセオの闘技場の中心に向かって歩み始める。
「おっ、ようやく来やがったな! 今日こそお前も年貢の納め時だ!」
「死にさらせ! 今日まで勝ってきたのは、偶然とまぐれだ」
闘技場に俺が足を踏み入れると、俺に当てられた罵倒と野次が飛んでくる。
これはもはやこのコロッセオの恒例行事になろうともしていた。
俺は別段、気にはしないが、ここに試合を観に来る暇人のバカどもは、とにかく何かを悪者にしたがる。
そして、普通とは異なる目につくものを排除したがる。
俺が、この野次にも全く動じていないことも、こいつらの苛立ちにさらに拍車をかけた。
吠えるだけ吠えてろ、喧嘩なら好きなだけ買うぜ。ここに降りてくる勇気があるならな。
俺はそう思いながら、闘技場の中央にたどり着いた。
まだ対戦相手は来ていないようだ。
二番目に強い男。
ヴェサリウスという名前だったはずだ。
名前しか知らない。
それ以上何を知れと言うのだ。
これからお互い殺し合うかもしれない仲かもしれないのに。
俺は、そんなことを考えながら対戦相手のヴェサリウスを待つ。
俺は、心を落ち着かせながら待っていると、俺が出てきた反対側の鉄格子の扉が開き、ヴェサリウスという剣闘士が出てきた。
足を一歩この会場に踏み入れただけで、会場から歓声が巻き起こる。
「ヴェサリウス! ヴェサリウス!」
観客が、寸分たがわぬ口調で名前を呼ぶ。
あいつか。
まぁ、相手は普通ではないと思っていたが……。
相手のヴェサリウスという男の出で立ちは俺の予想を上回っていた。
こっちに近づいてくる度に、その凄みが空気を伝ってくる。
体格は俺と同じくらい。
年齢は、俺の倍くらいだろうか?
何よりも、一番目を引くのが全身に刻まれた傷の山である。
これでもかというその無数の傷痕に、俺は脱帽する。
今までこのヴェサリウスが、打倒してきた者たちの砕かれた想いの跡だ。
顔つきも中々のものだ。
耳が半分切り落とされたのか分からないが、右耳の半分があるべきところにはない。
また、鼻もペコンと顔にへこむように付いている。
その鼻の横の頬には、痛々しい刀剣類の類で付けられた傷がある。
頭部は白髪が生えているが、頂点に到達する前に、髪の毛が薄くなり、しまいには無くなっている。
またその頭部を支える首も太く、よく鍛えられていることがすぐに分かる。
上半身も鍛え抜かれ、熟成しきったパンパンに膨らんだ胸筋に、六個以上に割れた腹筋が俺の目に映る。
筋肉量も、もしかしたら奴のほうが多いかもしれない。
下半身もいわずなかれ、この上半身を支えていることから、不動の拠点の如く、地面に立っている。
第一線で戦い続けてきている。
現在進行系で。
そんな印象がぴたりと当てはまる。
今までの相手通りにいくと助からないな。
俺は、死が自分のすぐ間近にあることを悟った。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
観客がヴェサリウスに掛けている言葉だ。
とことん嫌われているな、俺は。
思わず、苦笑いする。
このコロッセオを埋めるかのように観客は入っているが、俺を応援している人は、いるのであろうか?
ここにいる全てが一体となって、俺を排除しようと殺せと言葉を発しているようだ。
いいぜ、死んでやっても。
しかし、その前に最大限の抵抗はさせてもらうがな。
俺は、剣と盾を構えた。
前方のヴェサリウスも同様に構える。
ここで、いよいよ試合開始の合図が送られた。
俺とヴェサリウスの視線が合った。
ヴェサリウスの豪胆な視線に対して、俺は激しく睨み返す。
いい面でこっちを見るじゃねぇか!
ぞくぞくと何かを感じ、俺は嬉しくなる。
この恐怖とも異なる、ぞくぞくしたものが俺は好きだった。
これからやり合うということを、念頭にいれてのこの感じ。
もしかしたら一撃の元に斬り殺されるかもしれない。それでも満足だ。
この剣闘士にというものに無理やり、ならせられたが今では、少しばかりは感謝している。
俺の埋まらないものを少しばかりは埋めてくれたような気がしたからだ。
「おおおおおおおお!」
俺は、腹の底から声を出し、吠えた。
そして、ヴェサリウスに向かって、疾走していき、右手に持つ剣を力任せに叩きつけた。
ヴェサリウスは、俺の斬り下ろしを盾で未然に防ぐ。
激しい剣と盾の交差する攻防。
俺は、防がれても構わず、次の一撃を、僅かの間で瞬時に繰り出す。
ヴェサリウスは、そんな俺の一手、一手を慌てることもなく、冷静に受け止め、または受け流していく。
ヴェサリウスの表情を攻撃する合間、合間に見てみるが、特に慌てる様子もないようだ。
だが、防御しているだけじゃ、試合には勝てんぞ!
俺は、一歩踏み込んで力任せに剣を振り下ろした。
今まで、この振り下ろしで、数多の相手を沈黙させてきた。
気迫と重みのある剣の一撃が、ヴェサリウス
に吸い込まれるように向かっていく。
終わりだ!
俺は、いつもと同じ展開だなと少し不満を持ちながらも、この後に来るヴェサリウスの盾の防御を無視し、俺の剣がヴェサリウスを仕留める光景を思い描いた。
次の相手はいよいよ……!?
激しい音が聞こえ、俺の振り下ろした剣が跳ね除けられた。
びりびりと剣を持っていた右手に、衝撃からくる反動が伝達し、剣を握る握力が低下する。
俺の目の前では、ヴェサリウスが試合開始と変わらぬ豪胆な視線で、俺を睨みつけ、俺の剣を払い除けたであろう盾があり、これから来るであろう剣が俺の視線に映った。
「ふんんんんん!」
深い呼吸から繰り出されたような咆哮音と共にヴェサリウスの初撃が俺に向かって繰り出された。
俺は、体勢をすぐに立て直し、盾を持つ左手に力を込める。攻防が一気に逆転した。
盾に、衝撃が伝わってくる。
同じ材質のから出来ている剣と盾だが、自分の身を守る分、盾は同じ材質でも厚く、作成されている。
だが、ヴェサリウスの一撃は俺の予想を超えるものだった。
ヴェサリウスの剣撃の威力が、盾で防ぐだけでは抑えきることが出来ず、この俺ごと盾を通して、後方に弾き飛ばす形になった。
俺は、後方に押しやられる形にはなったが、すぐに体勢を整えた。
ちっ。
俺は、一撃を防いだ盾をもっている左手が、少し痺れていて、感覚を失っていることに気がついた。
次第には、戻ってきたがヴェサリウスが連続で仕掛けてきたら、非常に危険な状況にあったということだ。
また、そのことも十分にヴェサリウス自身も分かっていたはずだ。
ふん、余裕ってことかい。
鳴り物でここまで勝ち上がってきた新参者に対しての洗礼。
ヴェサリウスを見ると、こっちを見ていた。
どっしりと構え、余裕が見て取れる。
流石は元筆頭剣闘士であり、現在二番目に強い男だ。
これほどとはな。
俺の全てを出し切っても及ばないかもしれない。単純な殺し合いでは、今俺はここに生きていなかった。実力の差は、埋めることは難しい。だが、それと勝敗の有無は違うはずだ。
俺は、一応は痺れがなくなった左手の盾を握る手を再度痺れがないか確認した。
どうやら問題はないようだ。
ヴェサリウスは、そんな俺を待っていたかのように見ている。
「遅いぞ! ぱっぱと立てや! さっさと殺されろ!」
「時間なんか稼ぐな! 次は決めてくれ! ヴェサリウス!」
見物客のヴェサリウスを応援する声が聞こえてくる。
やれやれ、相変わらずうるさいやつらだ。
暇を持て余すバカどもが。
俺は、普段は吐き捨てるように言う言葉を今は心の中で唱える。
ヴェサリウスに動きはない。
俺に警戒しているのか、それとも俺に打たせてやると待っているのか定かではないが。
ふん、その余裕いつまで保つかな?
俺を舐めるな!
再び、戦闘が再開された。
先に仕掛けたのはもちろん俺だ。
お互いの攻撃が届く間合いに入り、ヴェサリウスに仕掛けようとする。
ヴェサリウスも、俺が間合いに入ると体勢が
少しだけ変化した。
剣よりも盾を前面に押し出し、防御の姿勢を行っている。
また、守りか!
攻めないと、戦いには勝てないぜ!
俺は、矢継ぎ早に剣を使い、攻撃を繰り出していく。
構えや形といったものはない。
そんなものに縛られるのも嫌だし、既存のものは対策も立てやすいからだ。
しかもこの歴戦の雄のヴェサリウスなら、そういったものの知識や対応策は理解している可能性が高い。
構えは、一応は教えてもらったが、それからは自分なりのやりやすさを模索して、今の形になっている。
「でえあああああ!」
掛け声を出し、気合を入れる。
剣先まで神経が通ったかのような一撃が、ヴェサリウスに襲いかかる。
しかし、それも盾によって塞がれてしまう。
俺の剣とヴェサリウスの盾がぶつかり合い、金属音が会場に鳴り響いた。
何度、防がれようと俺は攻撃を緩める気も、緩める理由もなかった。
前へ前へ、ただそれだけを考える。
どんなに防がれようと、攻撃をしなければ倒すことはできない。
俺の原動力は、昔から決して諦めない、折れない不屈の精神力だ。
煩雑さを減らし、的確に、細やかに。
俺の攻撃の一手一手が、精錬されていく。
刀身を含めて、全部が俺の身体の一部という想像をしながら、攻撃を繰り出していく。
ヴェサリウスは、そんな俺の小手先のような攻撃を防ぎながら、反撃の機会を狙っているに違いない。
そんな鋭い獣のような目をしていたら、こっちだって警戒するぜ。
ヴェサリウスから放たれている眼光は、俺に獲物を確実に仕留める猛禽類の姿を連想させた。
一瞬でも隙や中途半端な攻撃を繰り出せば、一気に喉元まで攻められ、取り返しのつかないところまで攻め入られる。
「むあああああ!」
ヴェサリウスが吠えた。
奴の剣が猛威を上げて、俺目掛けて振り下ろされる。
俺は、予めこの動作が読めていたので、振り下ろしを回避することが出来た。
そして、攻撃後に少しの隙が出来たヴェサリウスに対して、横払いの薙ぎを繰り出した。
ヴェサリウスは、すぐに盾で防ごうとしたが、俺の方が少しだけ早かったようだ。
ヴェサリウスの右手の腕にうっすらと傷が出来上がった。
ぱかりと切れたその傷からは血液が少しにじみ出て、ぽたぽたと闘技場に落ち、赤く染め上げていく。
まずはようやく一撃か。
ヴェサリウスから距離を取り、俺は息が上がった自分の身体を落ち着かせようとする。
ヴェサリウスは、傷を沈黙しながら見ていたが、すぐにこちらに向かい顔を上げた。
「久々だ。俺に傷を付けた挑戦者は」
ヴェサリウスが急に話し始めた。
「俺の前につけたのは?」
俺が質問する。
「あぁ、それは俺が筆頭剣闘士でなくなった日だ。あの時は今でも覚えている」
ヴェサリウスが、懐かしむような表情で、物思いにふけるかのように言った。
あいつか。
俺の頭の中に一人の男が、浮かび上がってくる。
現筆頭剣闘士エウゼン。
自由民剣闘士で、俺達とは異なる。
実力も人気共々抜群にあり、他の追従を許していない、何かといけ好かない野郎だ。個人的にも奴には借りがある。
「そうか、だったら今日という日も覚えておくんだな」
俺は、剣をヴェサリウスに突き出し、言った。
「どういう意味だ?」
ヴェサリウスは、少し首を傾げながら聞いてくる。
「あんたは今日、ここで俺に倒されるんだからよ」
俺は、宣言した。
特にこれという勝算もないが。
「ほう、面白いことを言うな貴様。このヴェサリウスに勝つと。いいだろう、ならば超えていくがいい。このヴェサリウスという壁を! しかし、少しでもその資格がないと判断すれば、貴様の首を飛ばす!」
ヴェサリウスの気が変わった。
さっきまでとは纏っていたものとは、異質なものを感じる。
こいつは……。
「退屈な試合だと思っていたが、それは貴様次第だ。我を楽しませろ……」
さっきまで抑え続けていたものが、解き放たれたようだ。
我ながら、失敗したなと思う。
さっきまでのヴェサリウスなら勝機はあったかもしれないが、今のヴェサリウスはさっきとは全く異なる別人だ。
やれやれ。
俺は首を横に振り、頭を抱えた。
いわゆる相手をその気にさせることに長けている俺だが、今回ばかりは相手が悪いかもしれない。
いつもの武者震いも、今日はヴェサリウスの圧に押されて、怯えているようにカタカタと鳴っている。
猛禽類?
その気になった、今目の前にいるヴェサリウスは、そんな可愛いものじゃない。
「ヴェサリウス! いいぞ、さっさと首を飛ばしちまえ!」
「そうだ、そうだ。久々にお前の活躍が見たいぞ!」
俺への野次だった歓声が、ヴェサリウスの応援へと内容が変化していく。
そのヴェサリウスも、満更ではない表情をしている。
「さて、今までは貴様から攻めさせてやったが、今からは我が攻めさせてもらうぅうう!」
大木が動くかのような、動きで俺に距離を詰めてくるヴェサリウス。
身体に覆いかぶさってくるような前方からの圧力が凄い。
今にも倒れそうだ。
俺は、その場で身を屈めるようにしながら堪える。
「まずは、この傷の礼だ。受け取れぃ!!」
ヴェサリウスの野太い声が聞こえ、剣が俺に振り下ろされた。
俺は、左手の盾で防御しようと構える。
ヴェサリウスの渾身の一撃が俺の盾に襲いかかった。
「!!!!!???」
その直後、体全身に衝撃が走った。
爆発が起きたかのような、音と共に、身体に何かが走った。
俺の身体を支える二つの足が、大地にその衝撃を逃がすかのように、棒立ちになる。
身体が、う、動かねぇ……!?
ヴェサリウスの重すぎる一撃を喰らい、防御はしたものの、衝撃で身体のいうことが利かない。
「ふん、ここで貴様の夢も潰えるか、儚いな、挑戦者よ」
ヴェサリウスの言葉が脳裏に響く。
ヴェサリウスはもちろん、追撃の手を緩めるようなことはしない。
夢か……俺の夢とは一体……。
朦朧とする意識の中で俺が思い出したのは、奴隷市場の独特の匂いだった。