Episode72 夏の朝
軽井沢滞在最後の朝は少し曇り空が立ち込めていて、お世辞にも天気がいいとは言えない微妙な空模様だった。
そよそよと吹く風が木々をガサガサと揺らしていた。
そんな中でもどっしりと構えているような、緩やかな傾斜の坂の上にある大型のペンションの突き出ているような部屋が俺がここ三日ほどを夜を過ごした部屋だ。
「……洵」
「……何でこうなってんだよ」
本当に何でこうなってんだよ。
と言いたくなるのは当然だろう。
昨晩は勝手に弥生がベッドで寝てしまったために俺はわざわざ布団を敷いて寝ていたのだが、朝目覚めるとそのベッドに寝ていたはずの弥生さんがまさか俺の布団の中に入っていたのだ。
訳がわからないの一言に尽きる。
あと顔近い。
「……準備しなくていいのか?」
「洵が動いてくれないと身動きが取れないのよ」
そう言われて布団の中を覗いてみれば、俺が弥生を動けなくしているかのように弥生の体をホールディング……やばい、胸が高鳴ってきた。
自分でも寝相が悪くないのは分かっていたが、いやそれにしてもこれはダメだろ。
「わ、悪い!」
すぐに弥生を拘束していた腕を離した俺は謝りながら慌ててトイレへと駆け込んだ。
神崎グループのものだからか、部屋にはトイレやシャワーも完備されている。もはやホテルだよね、これ。
まあ利用するこちら側からするとすごい楽だからいいんだけども。
慌ててトイレに駆け込んだはいいが、正直胸の高鳴りが収まる気配がしない。
むしろ弥生はどうしているのかが気になって仕方がない。
こういう時って無駄に想像力が働いて……そう、弥生がパジャマを……いやいやいや!
「うああっ!」
煩悩をどうにか追いやってしまおうと壁にヘッドバットを繰り返した。
ゴンゴン音を立てているし頭が痛いのだがそんな場合ではない。
「洵ったら、ついにおかしくなったのかしら?」
弥生の冷えきった声が聞こえてくる。
お、少しだけ落ち着けたかもしれない。
そうか、いいことを思いついた!
「弥生!」
「な、何よ」
俺が勢いよく扉を開けると、弥生が鏡台の前に座り櫛で髪をとかしていた。
弥生が少し戸惑った顔でこちらを見ながら髪をとかし続けている。
普段とは違って髪を下ろしているために少しばかり新鮮に見えた。
「あのさ……俺を罵ってくれ!」
「…………は?」
「あ、いや……なんかそういう意味じゃなくてだな!」
「じゃあどういう意味よ?」
弥生は危ない人を見下すような目で俺を見つめていた。
「ええっと……なんて言えばいいんだ……」
「はぁ……バカみたい」
「そう、そんな感じだよ」
弥生が呆れて吐き捨てるように言った言葉が、俺を落ち着けてくれるはずだと思ったからだ。
って言いたいんだけど、喉元で引っかかって上手く言葉にできない。
なんでだ!?
「……流石に引くわ」
ついに見放されてしまったのか、弥生はため息をつきながら再び髪をとかし始めた。
なんかすごい誤解されているよな、なぁ?
絶対に今ので俺がただのドMと思われたに違いない。
まあ弥生に罵られるなら全然構わな……くない、うん。
至って俺は普通、ノーマルなんだ!
なんて主張をしたところで弥生はきっと耳を傾けてはくれないだろう。
確かに俺の言い方が悪かったのは痛感しているんだけど……
「あ、あのー……弥生?」
「…………」
無視。
「弥生さーん?」
「…………」
またも無視。
……こうなれば。
「すみませんでしたぁぁぁ! ちょっと気が動転してて変な事言ってしまっただけなんです!」
俺は全力の謝罪と共に人生でも何度やったか分からない土下座をした。
これで……許しては……
「…………」
くれませんでしたー。
辛いです、とても。
頭を上げると、弥生は俺の事を一切意に介す様子もなく髪をとかしていた。
すーっと、櫛が通った後にはキラキラと星のように輝いている髪が流れていく。
「ほんとにわざとじゃないんだって……なぁ…… 」
「……その手には乗らないわよ」
その手ってなに!?
弥生は昨日買った水色のシュシュで髪を束ねながらぼそっと呟くように言った。
もういいよ、うう……
「俺降りてるから……あまり遅くはならないようにな……」
俺はそれだけ言い残して部屋を出た。
「……というわけだ。須田助けてくれ……」
めげた俺はひとまず須田の部屋へと来ていた。
折れた心を癒してもらうなら、それこそ優姫さんと青葉がいるであろう部屋に行けばいいのだけど……女子だけの部屋に入る勇気を俺は持っていなかった。
それに女の子の朝はなんとなく忙しそうな感じだから、邪魔になりそうだったのでやめたのだった。
「ま、まあ分かったが……一旦落ち着け。私からも言ってやるから、な?」
「ありがどううう」
「うわ、泣くなっ!」
「だってぇぇ……」
弥生にそんな扱いにされるのがここまで辛いものだとは思っていなかった。
だからこそ泣きたいくらい……というか泣いた。
今になって、あれだけ言われてもくじけない海斗の凄さを感じる。
今ならあいつと一日語れるかもしれない……
「お、おい! それは私の髪留めだ、返してくれ!」
隣の部屋から悲鳴にも似た叫び声が響いてきた。
声からして、多分宝生さんだろう。
それにしても、そんな声を荒らげるなんて……
「なんだか賑やかそうだな。どれ、小波も行ってみたらどうだ?」
「いや、それは無理」
からかうように須田が俺に笑いかけてきた。
あくら言われようとも花園のような部屋に俺が入れるわけが無い。というか俺がその場に居られない。
石のようにじっとしているのがやっとに違いないな。
「……どちらにせよ一回離れてくれないか」
「あ、ああ……ごめん」
いつまでも須田にしがみついている事に気が付いて俺は体を離す。
いや、別にドキドキとかはしないぞ。
見た目こそとびきりの女の子だけどやつは男だからな。
「朝から仲がよろしいようで」
「それはいいですから、場所を代わってください……」
「はいはい」
そう言ってすっと立ち上がって洗面台からこちらへ菊池さんがやってくる。
謎の陽気さを振りまいている菊池さんは本当によく分からない。
一つだけ言える事は、なんでもそつなくこなす完璧な人だという事だ。
その反面、普段から何を考えているかもわからないのが不思議で仕方がなかった。
「須田、菊池さんっていつもこんな感じなのか?」
声のボリュームを落として須田に尋ねてみた。
しかし須田は首を横に振るだけだった。
「本当に分からないんだ……古い付き合いなのにな」
「あら? なんの話かしら?」
「い、いや! なんでもありませんよ!」
割って入った菊池さんを必死にはぐらかそうと須田は手をバタバタ振っている。
なんだろう、この上司に問い詰められて焦っているみたいな感じは。
「ふふ、まあいずれ分かるかもしれませんね……それでは」
なんだか意味深な言葉を残して菊池さんは部屋を出ていった。
俺と須田は互いに見合わせて……首を傾げるだけだった。