Episode19 洵の帰宅
ネタ回、ですね。
俺は玄関の扉を開けて家に入る。
「ただいま……」
うん、死ぬかと思った。かなり真面目に。
あの男から命からがら逃げたと思えばさらに筋骨隆々な奴が現れたり、相撲とかやってそうな体格の奴が来たり。
あの短時間で一体何人の熱狂的ファン――俺からして敵――を作り出したのだろうか。ティエルとかいうあの人を絶対に許さん、女だろうが一度殴る……怪我だけはしない程度で。
いや、あれだよ、怪我なんてさせたらガチでやつらに殺られる気がする。
でも何か借りを返さないと気が済まないのだ。人の苦労を知れ、あいつめ。
なんて尖りに尖りながら棒みたいな足を引きずって俺は帰ってきていたりする。
玄関からろくに進んでいないのも俺は悪くない。
足を引きずりながらどうにか壁伝いにリビングへ行く。
ドアを開けると、母さんがソファに座っていた。まあ予想通りで……あれ?
「ただいま……弥生は? もしかして帰ったとか?」
「…………ぐ~」
「って、寝てるんかい!!」
母さんは時より直立で座りながら寝るといったこういう妙な器用さを垣間見せたりするが、ほんと何なのだろうか。
しかもこの人は困った事に一度寝てしまうとなかなか起きないのだ。子として思う所はハイスペックだったりなんだか抜けていたりと良く分からない事ばかりだ。
そういえば、俺に父親はいない。詳しくは……なんだったろうか、小さな時に聞いた覚えがあるが正直記憶としては薄い。確か交通事故とかで亡くなったって聞いてたっけ。
とにかく、俺は母さんと二人暮らしでこれまで過ごしてきたのだ。母さんは女手一人で俺を育てたりして大変だろうに、そんな面を俺に見せることはない。
そんな所には尊敬するが、もう少し無理しなくてもいいとも思う。
「……ぇー……ぁ」
どこからか声が聞こえてきた気がする。
「……ねぇー、誰かー」
今度ははっきり聞こえた。この声は弥生に違いない。なんだかくぐもって聞こえるけど。
弥生はどこにいるのだろうか。
「誰かー、お母さーん?」
どうやら誰かの助けを求めているようだ。
行かなきゃいけない、そんな使命感がどこからか湧き、痛い足をどうにか進ませて声のする方へ行くと……
「…………風呂場……だって?」
風呂場の前まできて足を止める。確かにここから声がしてるのだから間違えはないはずだ。
弥生が……この先に……いるのか。
そしてなにか助けを求めていると。
「お願い……トリートメントが切れてるの……ねぇ、誰かぁー」
さらにはっきりと声が聞こえる。声が篭っているのは扉に阻まれているからだろう。
俺はとりあえず心の中で弥生に謝りながら脱衣所に入る。
弥生の下着やらが置いてありそうな部分には目を伏せて引き戸を開ける。そしてトリートメントの換えを取り出し……最後の壁で立ち止まる。
さて、どうしようものか。この扉をやすやすと開けるなんて出来るわけもなく。
シャワーの音がやけに響いて聞こえた。
考えてみれば俺は今、多分人生最大に近いくらいの危機に瀕しているのだ。
「ねぇ……早くして……お願い……」
行くしかない。なに、扉を少し開けて換えをさっと置いていくだけだ。難しい事ではない。
とんでもない背徳感というか罪悪感に襲われているが、目を瞑ろう。二つの意味で。
そうだ、タオルを巻こう。それでドアを開けて渡せばいいんだよな、うん。
手の届く距離にある棚からタオルを出して目が隠れるように巻いて後ろで縛る。
そして俺は意を決して固唾を飲みながら扉を開けた。
「ほら、トリートメントだよな、これ!」
と、見えないながらに俺はトリートメントの換えを持つ手を必死に伸ばす。
「ま、洵!?」
「落ち着け、俺は一切見えてないから!! 早く受け取ってくれ!!」
「え、ええ……あ、ありがと……」
弥生が受け取るのを確認できたほっとして俺は手を引っ込める。
「うおわっ!?」
その刹那――
引っ込めた手は少し開いた扉のノブにぶつかり、慌てた俺はその場に転がるように頭を打って倒れた。
しかし、水を吸い取ってくれる足拭きマットが引かれているおかげでほぼ無償で済んだ。
「洵、大丈夫?」
驚いて駆け寄ってきてくれた――見えないから、多分だが――弥生が心配そうに言う。
「ありがとう、大丈…………ぶ」
大丈夫、気にしないでいい。
そう言おうと身体を起こした俺は絶句してしまった。
さっき頭を打った時に緩んでいたのだろうか、巻いていたタオルがはらりと落ちて……開けた視界には弥生の透き通るような白い肌が見えて……あ、弥生と目が合った。
見る見るうちに弥生の顔は真っ赤になる。多分俺は逆だと思う。冷や汗かいてる。
「っ!! ……きゃあああああ!!」
「ごめんなさ――ぎゃぁぁぁ!?」
必死の謝罪を試みたが、一切の猶予もなく俺は弥生の全力の平手打ちを浴びる事になるのだった。
「…………はぁ」
俺は自室のベッドに寝転がってため息を一つ。
足が悲鳴をあげていて正直ろくに動かな……いや、動くけど痛んで仕方ない。 これだと明日は筋肉痛確定である。よりによって体育がサッカーなのが嫌がらせにも思えてくる。
まあそんなことより……俺は、弥生のために……少しでも頑張らないといけないよな。とは言っても何が出来るのかも分からないのだが。
とりあえず今は弥生を見守ろう、それくらいなら俺にもできるはずだから。
俺に弥生が恋人のフリを頼んだのも……きっと何かあるんだ。きっと、助けて欲しい、とか。
弥生が今日はこのまま泊まる、とのことで空いてる部屋を貸している。
なんというか弥生がすぐ近くにいるんだと思うと恥ずかしい。よりにもよってその部屋は俺の今いる部屋の向かいなのだ。
さっき……事故とはいえ……見てしまった。弥生の透き通るようなまばゆく白い肌が、今も俺の脳裏にしつこく焼き付いて離れてくれない。
こうなっては弥生に対してどう接すればいいのかが分からないし、何より顔向け出来ない。
――どうにか……しないと…………。
疲れ果てていたのか、俺は気づかぬ間に寝てしまったのだった。
◆
「はぁぁ……」
洵と同じようにまた、憂いを込めた深いため息をつく。
窓から薄い月明かりが部屋を照らしていた。
あたしは今……一体どれだけの人に迷惑をかけているの?
洵、洵のお母さん、青葉、須田……うちの屋敷のみんな……
考えても……分からない。 青葉の言っていた意味も分からない。
きっと疲れているのだ。それにまだ頭が火照っているのかもしれない。わざとではないとは分かっていても洵に見られてしまったのがあまりに恥ずかしい。あの後出るに出られなくて長風呂をしていたせいで火照ってしまったのだ。
元はといえば洵が…………いや、違う。
「全部……あたしが悪いのよね……」
弥生がここを訪れなければこんな事態にはならなかったのである。だから、元を辿ると悪いのは弥生自身になるのだ。
何でこうなったのか。他にもたくさんあるわからない事を……それなら、考えよう。徹底的に。
それから弥生は朝まで思考に耽っているのだった。
弥生ちゃん可愛いです。
じゃなかった。
お読みいただき有難うございます。
次もまた読んでいただけたら幸いでございます。