松永久秀の戦事情
永禄9年(1564年から1565年)織田信長が美濃の攻略を行い上洛への準備を進めていたころ中央では、永禄の変と呼ばれる将軍足利義輝が暗殺された事件を発端に、三好家と松永家が畿内の覇権を争っていた。
そんな年の暮れ、和泉国堺(現在の大阪府堺市)で布教活動を行っていたルイス・フロイスは、布教活動の一環として、降誕祭を行うことにした。
しかし、今ある司祭館は小さすぎるので、堺の会合衆らが普段集会に使う場所を借り受け飾り付けを行った。
その頃、松永久秀方の軍勢と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)方の軍勢が近郊で対峙していた。
その中には、キリシタン武士がおりフロイスはキリシタン相互の一致和合と愛を示すため、彼らにクリスマスのミサを催す事を呼び掛けた。
もちろんその話は、彼らの主にも伝えられた。
「それで、卿は私に休戦をしろというのだね?」
「ハ~イ、明後日ノ夜ハ神聖な降誕祭デース」
「ふむ……で降誕祭というものは何なのかね?」
「ソレハ、我ラガ主の誕生を祝ウモノデ~ス」
「承知した。では、私のほうから三好のほうへ休戦を申し入れることにしよう」
そして当日、キリシタンたちは、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻って来た。
その中には、両軍合わせて七十名もの武士がおり彼らは敵味方の区別なく、歌を歌ったり、ともに懺悔したりして交流しあったそうだ。
ちなみに、そんな催し物が珍しかったのか、その様子を見ようと街の住人たちが押し寄せて扉が壊れそうになったそうだ。
戦国時代にキリスト教は、伝来してきて宣教師たちは自らの教えを広めようと、涙ぐましい努力をしてきました。
その結果は散々なものでしたけどね。
伝わってきた時代が、悪かった。
キリシタンになった大友宗麟は、キリスト教の街を作ろうと領土を増やそうとしたが、兵力では劣るはずの島津軍によって、再起困難になるほど完敗してますし豊臣秀吉によって弾圧され、徳川幕府によって完全シャットアウトされました。
そんななかで、キリシタンにまつわる唯一かもしれないいい話
その話の出所が、悪名高い松永久秀とは、なんとも面白いですね。
何か、誤植などがありましたら、お気軽にコメントして下さい。