●番外編 アイリッシュ・モルト 5
「この香りは?」
不思議そうな顔をしている。スパイスやカカオの香りが、残っていたらしい。
「キャラウェイや、果物を混ぜたお菓子を焼きました。大麦の飲み物も、前のお客様にお出ししましたので」
ウィルフレッドの時代には、カカオはまだ伝来していない。だから、ほかのスパイスの事のみ、店主は答えた。
「そうか。良い香りだな。心が浮き立つ」
そう言うと、ウィルフレッドは腰につけた袋から、何かを取り出した。テーブルに置く。
「これは……」
店主は、それを見つめた。麦の茎を編んで作った、素朴な飾り。ハートに似た形に作られ、リボンが結ばれている。
「村の娘たちに渡された。もう、そんな時期だったな」
貧しい村の娘や青年たちが作る、恋のお守りのようなものだ。気になる相手に贈る。
かつて、よく目にしていた。
かつて、毎年。これを作っていた男と、少年がいた。
「欲しいのか? それなら、譲るぞ」
眺めていると、ウィルフレッドに尋ねられた。店主は騎士を見やった。
「いけませんよ。それでは、サーに渡した娘さんに悪いでしょう」
「なぜだ? 俺には渡す相手などおらんと言うのに、渡してきたのだぞ。せっかく作ったのだから、気を使ったりはせず、自分の気になる相手に渡せば良いのにな」
いや、その娘さんは多分、気になる相手に渡したのだと思う。と、店主は思った。
「サー、娘さんの言っていること、良く聞いてから受け取りました?」
「もちろんだ。恋しい相手に贈るものだとか、この形は永遠の愛をあらわすのだとか、いろいろとしゃべっていたぞ。
ありがたく受け取ってから、では、おまえの相手にも祝福があれば良いな、と言った。きっと相応しい相手が現れよう、ともな。
なぜか泣いていたが……」
気の毒に。
「その娘さんには、へこたれずに強く生きていってもらいたいものですね……」
「む? 何か困難でも起こりそうなのか?」
「いえ、どうにもお気の毒で。思う相手に、心が通じていないようですし」
「話を聞いただけでわかるのか? すごいな、店主どのは」
あなたも別の意味ですごいです、と、店主は思った。普通もう少し、何か気がつくものではないだろうか。
「サー・ウィルは、どなたかに作ったり、渡したりする御予定はないのですか」
話題を変えようと尋ねると、なぜか渋い顔をされた。
「母や妹のようなことを言わないでくれ。俺は、女性に人気がないのだ」
「ないわけではないと思いますが」
店主は首をかしげた。こういう恋のお守りを渡してくる娘さんがいるぐらいだし。
「気休めはよしてくれ、店主。自分でも自覚している。俺は、そのう、鈍くてな。女性に対しての気遣いが足りない」
それはそうだろう。と、店主は思った。
「剣を振り回すしか能のない男でもあるしな。それに、領主のやらかした馬鹿げたことの、尻拭いをしたり。尻拭いをしたり。尻拭いを、したりだな。せねばならんので、暇がないのだ。実に。暇がない」
三回も言った。どれだけ迷惑をかけているのだ、ミストレイク領主、と店主は思った。
「どうも、それでな。そういう話にならんのだ。どうしても縁遠くなる」
「いえ単に、サー・ウィルの場合、そうした状況になっているのに気がつかないだけ、という気がするのですが」
「気を使わなくてもかまわんぞ、店主どの」
別に、気は使っていない。
「まあ、そういうわけだ。ああ。本当に、ほしければ持って行ってくれ。まだあるのでな」
「まだあるんですか!?」
驚いて声を上げた店主に、ウィルフレッドはうむ、とうなずくと、麦やリボン、乾燥させたハーブなどで綺麗に編まれた恋のお守りを、次々にテーブルに出して並べた。店が開けそうなぐらいだった。
「村の娘たちは、俺のような騎士に対して、律儀でな。どれも、器用さを示すかのように、手の込んだ編み方をしている。良い主婦になるだろう。
本当に、あの娘たちには、幸せになってもらいたいものだ。良い嫁ぎ先が見つかると良いのだが」
心の底から、という感じで、しみじみと言われた。今日一日だけで、どれほどの娘たちの恋心を粉砕してのけたのだろう、この騎士は。と、店主は思った。
「ですが、このように恋のお守りを広げられては……ふふ。まるで、騎士さまから口説かれているような気になります。こんなにいくつも、いただけるのだとしたら」
ウィルフレッドは店主の言葉を聞き、は? という顔をした。
しばしの沈黙。
それから彼は、突然立ち上がった。
「いや、そうではなく!」
がんっ!
足を、テーブルの角にぶつけた。
「うを。いや。そうで、」
ごつっ!
腕を、壁にぶつけた。
「うだっ、い、いや! 店主! そうではな!」
ががんっ!
「~~~~~!」
ウィルフレッドは、言葉もなくうずくまった。うろたえる余りに腕や手足を訳もなく振り回してしまい、それがことごとく、テーブルや椅子の角、壁などにぶつかっていた。
最後にぶつかったのは、立ち上がったはずみに後ろに倒れかけた椅子。焦った彼がわたわたと足踏みをした結果、何がどうなったのか、床の上ではずみ、さらなる勢いをつけて戻ってきた。そうして足の部分が、思い切り弁慶の泣きどころにぶつかった。
地味に痛い。
「そ……そうでは、ないのだ、店主」
それでも、これだけはと思ったのだろうか。絞り出すように言った。
「あの、……はい。わかっています。すみません。ちょっとからかっただけ、だったんですが……」
目の前で起きた出来事に、あっけに取られていた店主だったが、騎士の言葉にそう返した。
「わたしではなく、ティラミスさんに渡されたかったんですよね」
「いや、そうではなく!」
ごんっ!
勢いよく顔を上げたとたん、頭をテーブルにぶつけた。
「あの、サー。落ち着かれてください」
「そうでは、ないのだ、店主」
「はい、わかりましたので。ゆっくり……あの。立ち上がれますか」
ウィルフレッドは無言で立ち上がった。ちょっと涙目になっていた。
「あ~、つまり、店主?」
「はい。からかって申し訳ありません、サー」
苦笑気味に言うと、店主は並べられた飾りを手に取った。
「こういうものは、本人が作らなければ意味がない。もし騎士さまがわたしに何か、思われておいでなら、騎士さまご自身が作られたものを寄越すでしょう。ティラミスさんに対しても。
他の娘さんたちが作った、と聞いた時点で、そういうことは考えておりませんよ」
「あ、うむ。そうか」
焦ったような、ほっとしたような顔をして、ウィルフレッドは席につきなおした。
「しかし、すごい威力ですね」
「何がだ?」
「娘さんたちの思いの集大成。騎士さまが本気で、どなたかに心を奪われ、行動に移そうとしていたのなら……どんな妨害が起きていたのやら。ひとつひとつは、まあ、可愛らしいと言える程度のものなのですが……」
「ぼうがい?」
なんの話だ、という顔をウィルフレッドがすると、こちらの話です、と店主は答えた。テーブルの上の飾りに、軽く手をかざす。なぜかぱちっ、と静電気が飛び散った。
「ん?」
「まあ、こんなものでしょう」
ひらひらと手をかざした後、店主は飾りをテーブルの隅に寄せた。
「それで、これは、いただいてもよろしいのでしょうか?」
「あ? ああ。俺が持っていても、仕方がないものだしな」
何となく腑に落ちないという顔をしたウィルフレッドだったが、そう問われ、うなずいた。
「ありがとうございます。可愛らしいものですし、壁の飾りや、ほしい人のお土産にさせていただきます。
ところで、騎士さま。本日は、お求めになられるものに対して、何を対価にしていただけるのでしょう。この飾りでしょうか」
「あ? いや、それは俺がもらったものを、流用しただけだしな。対価というのは、俺自身が選び、差し出したものでなければならんのだろう?」
その言葉に店主は軽く頭を下げた。
「はい。それか、わたし自身が望んだものです」
「では、それは該当せんだろう」
「そうとも限りませんが……、それなりに需要はありますよ。うちの店では使えませんが」
「そうか。ではやはり、対価にはならんだろう。俺は、この店に来ているのだから」
「贔屓にしていただいて、ありがとうございます」
店主は軽く頭を下げた。
「わたしも騎士さまとは、長い付き合いをしたいと思っております。しかし、本当に良いのですか? うち以外の店に行けば、大きな力をふるうまじないや、道具を手に入れることができますよ」
「身の丈に合わん力は、求める者の身を滅ぼす。俺にはここが、ちょうど良い。うまい食い物と飲み物があり、たまに音楽を聞き、気心の知れた者と会話する。
それで良い。ここはそういう場所だ。俺程度の騎士には、ここが似合いというものだ」
そう言い切れる欲のなさと、分をわきまえた潔い態度は、彼ならではだろう、と店主は思った。ぎらつく欲望に自ら呑まれ、破滅してゆく者もいる。けれども彼は、そうはならないだろう。
ひととき、茶をたしなみ、甘味を口にする。心を穏やかにして解き放つ。その大切さを、教えられずとも知っている、彼ならば。
「先ほど言いました、キャラウェイのケーキがございます。干しぶどうを入れた、甘いものです。大麦とアニスの飲み物も、持ってまいります」
「そうか。できれば、奥方さまや、母上、妹に何か持って帰りたいのだが」
「用意いたしましょう」
そう言うと、騎士は、顔をほころばせてうなずいた。
この騎士の生きる時代は、厳しい。病になれば、特効薬などない。医師の知識や技術も低い。ささいな傷が、命取りになってしまう。
天災があれば、戦もある。盗賊が人を害するのは当たり前に行われ、野生の獣もうろついている。
そういう世界に、彼は生きている。
死んでほしくないな、と店主は思った。