●番外編 アイリッシュ・モルト 4
「ティラミス~。あのお茶、ホント美味しいねえ。おとな~って感じで、さりげなくって」
会社で、ティラミスはみゆたんに声をかけられた。いつもはのんびりモードな彼女。でも、うれしかったらしい。はしゃいでいた。
「うん、あたしも気に入ってるの」
「あ、あたしも昨日、飲んでみた。紅茶って、気取ってる感じがして、どうかなって思ってたけど。あれは、美味しかったわ~。大人っぽくてカッコイイ感じだねえ」
側を通りかかったうとが、あはは、と笑いながら言った。活動的な感じのショートカットで、きびきび動く、どこか小動物っぽい女性である。
「フエラムネには笑っちゃったけど」
「ああ、思わずぴーぴー鳴らしちゃった。夜中だったのに」
三人で笑っていると、コピーをした書類を抱えた、わけがやって来た。眼鏡がずり落ちそうになっている。
「楽しそうねえ。なんの話?」
「あ、わけちゃん。ほら。ティラミスからもらった、お茶とフエラムネ。あれ、笑えたよねえ」
うとの返事に、わけは、ああ、と言った。
「あたしは、まだお茶、飲んでないんだ。あのお菓子も食べてないの。ごめんね、淹れ方のメモまでもらってるのに」
わけの言葉に、ティラミスは首を振った。
「全然、かまわないよ。気にしないで? あ、でもさ。今度、葉っぱを持ってくるから。会社で淹れちゃおうか。他の人にも飲んでほしいし。あれ、ホントに美味しいお茶だから」
「あ~、それ良い!」
うとが笑った。
「会社の人にも淹れてあげるの?」
みゆたんの言葉にうなずくと、わけが言った。
「でも、ティラミス。それだったら、すぐに葉っぱがなくなっちゃうよ」
「良いのよ。紅さんに教えてもらったの。美味しいものって、一人で食べたり飲んだりしてても、あんまり楽しくないのよね。
こんなに美味しいものがあるんだぞーって、他の人にも知ってもらいたいの。
それに、紅茶も食べ物だから。封を切ってしまった葉っぱは、できだけ新鮮な内に、飲みきっちゃった方が良いんだって。
あ、でも、フエラムネはあれだけだから。お茶だけね」
「ティラミスって、良い子だよね……」
みゆたんが、よよよ、という風に泣きまねをし、涙をぬぐう仕種をした。
「じゃあ、あれに合うお菓子を、手作りしてこようかな」
わけが、眼鏡を片手で押し上げながら言った。
「ああ、わけちゃん、お菓子作りとか得意だったっけ」
「得意ってほどでもないけど」
「えー、でも、前に差し入れしてくれたクッキー、美味しかったよ~。チーズ味の」
「うん、あれは美味しかった」
ティラミスたちの言葉に、わけは真っ赤になった。
「うん、……作ってくる」
「楽しみ~。やっぱりクッキー?」
うとの言葉に、わけが首をかしげる。
「う~ん……ねえ、ティラミス。あたし、まだあのお茶、飲んでないんだけど。合うお菓子って、どんな感じ?」
ティラミスは、首をかしげた。
「カカオの香りがしてるのよ。モルトウィスキーの香りも。だから、シンプルなものが良いって聞いたけど……」
「ざっくりした感じのビスケットとか?」
「カカオが入っているなら、チョコレートとも合うんじゃない? それとか、……オレンジの皮が入ってるお菓子。あれが、意外と合うんじゃないかと思ったけど、あたし」
みゆたんが言った。
「ああ、カカオの香りにオレンジって、合うんだよね」
うとが同意し、二人でうんうんとうなずいている。
「そっか~。キャラウェイの入ったショートブレッドだと、合わないかなって思ったけど。チョコレートとか、オレンジね。うん。合うかも。
ねえ、こんな風に、組み合わせを考えたりするのも楽しいね」
ティラミスが言うと、全員が、そうだね、と言って笑った。
ああ、なんだか平和だなあ。と、ティラミスは思った。
* * *
おばばは、ただの茶屋の店の中で、ゆっくりと、スパイス入りのオルゾを楽しんだ。ほろ苦い、炒った大麦の香ばしさ。わずかに入った蜂蜜の甘さ。甘い香りのスパイス。
古いレシピ。
「時が流れるの」
ぽつり、と言うおばばに、店主は、視線を向けた。
「外のお嬢さんは、元気じゃの。己の足で歩き、己の目で世界を見聞きし、それにより世界を広げ、やがて己の手で未来を引き寄せる。
命とは、まこと美しい。
時の流れの中で、精一杯を歩み。時に立ち止まり、時に後戻りし。時にうつむいたまま、涙を流し、慟哭する。
しかしやがては顔を上げ、己がつかむ、己の世界を、より良き方へと変えてゆく。
この場所に暮らすわれらには、ちいとばかり、眩しいのう」
店主は、空になったポットとカップを集め、テーブルを拭いた。かちゃ、という陶器の触れ合う音がした。
「おばばさま。われらにも、時は流れます」
「無論じゃ。したがわれらは、生きておると言えるのか。果たして」
「おばばさま……」
「関わる事は許されず、ただ、眺めているしかない。たとえ、どれほど心を傾けた相手であったとしても……」
ふう、と息をつくと、おばばは言葉を止め、首を振った。
「まるめろのコンフィチュールを、もう少しもらおうかのう」
「はい」
店主が厨房に戻り、やがて小さな器に、甘く似た果物のジャムを入れて戻ってくる。パンケーキも皿に盛られていた。
金色のとろりとしたそれを、スプーンですくい、ながめる。果物の形がわずかに残るそれもまた、昔ながらのレシピによるものだ。
パンケーキに落としてから、おばばは胸元の無限大の印に、ふと触れた。
「あれは、これが好きじゃった」
誰にともなく言う。
「この歳になっても、まだ迷う。わしのした事は、間違っておったのじゃろうか」
「おばばさま……」
「行くなと。言ってすがれば良かったのかのう」
遠いまなざしで、はるか昔に別の世界に消えた、男たちの面影を追う。
「必ず戻ると言うたのにの。案の定、二人とも戻らなんだわ」
店主は、何も言わない。おばばも、答を期待していたわけではなかった。
しばらく、無言の時が流れる。やがてため息をつくとおばばはマグカップをつかんでぐいっとオルゾを飲み、パンケーキをばくばくと食べた。
「ふん。やはり美味い。バレンタインの時期には、これでなくてはの」
「ありがとうございます」
「チョコレートも嫌いではないが、わしにはこれじゃ」
食べ尽くしてしまうと、ことり、と色とりどりの砂の入った小瓶を置く。
「対価じゃ。ネズミよけ、虫よけの呪いが入っておる」
「確かに」
「あとは、これじゃな。何かあった時に、身代わりになる」
白目を剥いた、でろーんと舌を出した怪しげな人形を取り出し、テーブルに置く。
「ありがとう……ございます。あの。このデザイン、どうにかならないんですか……」
「可愛かろう。良く目立つしの。渡した相手はみな、捨てがたいと言って手元に置いておったぞ。ひひひ」
「捨てると更に呪われそうで、手放すに手放せなかっただけでは……」
「とっとと受け取りゃ。わしの渾身の力を込めた、最っ高の力作じゃぞ?」
「アリガトウゴザイマス」
どことなく棒読みの感じで礼を述べ、店主は人形を受け取った。それを確認してから、おばばは立ち上がった。
「行かれますか」
「うむ。馳走になった。また来る」
「はい。ありがとうございました」
「うむ」
おばばは扉に向かって、かつかつとヒールの音を響かせた。そうして扉の前まで進み、……立ち止まる。
「のう、紅どのや」
「はい」
振り向かないまま、おばばは言った。
「先ほどのは、戯言じゃ」
「はい」
「わかっておろうの。戯言じゃ」
「はい」
おばばは前を向いたまま、何気ない口調で続けた。
「紅どの。愚痴をいつも聞いてくれる、おまえさんには感謝しておる」
「いえ。わたしは、何も」
「黙って聞け。良いか。わしはの。後悔するのは嫌いじゃ。したがの。迷わないわけでもない。
そんな時には、この場所は、休息するのにちょうど良いのじゃ」
おばばは視線を下げると、胸元のブローチをぴん、とはじいた。
「馬鹿者どもは、己が道を行った。後悔はなかったであろうよ。それはそれで良いのじゃ。
わしも、己が道を行く。
すがるなど。わしにできようはずもない。あれらの道を歪め、定められた全ての運命に対抗し、愚かな女に成り下がる。そのような真似を、このおばばがするわけがない。
わしは、おばばじゃ。魔法小路の古株にして、力と道の傍観者。
ゆえにわしは、わしである。手出しなど、するわけがない。
のう。紅どの。
先ほどのは、まっこと、ただの戯言に過ぎぬのじゃ。ぬしも、わかっていよう?」
「はい」
「それなら、良いのじゃ」
扉に手をかける。からん、とドアベルが鳴った。
「わかっておるのならな。それならば、良いのじゃ」
ヒールの音を響かせ、外に出る。力強く、すっと背筋を伸ばし、頭を上げて。
「ありがとうございました。またおいで下さい」
店主は、そんな彼女の背に向かって声をかけた。おばばが振り向く。
いつも通りの、おばばだった。意思と知恵の光が宿る目。どこか人をからかうような、それでいて優しさがうかがえる笑み。
「おう。おまえさんも、より精進しやれ」
「はい」
「ではな」
うなずくと、外に消える。からん、とドアベルが鳴って、扉が閉まった。
* * *
店主が後片付けをしていると、ほどなくして、ドアベルの音がした。見ると、大柄な騎士が入ってくる所だった。
「いらっしゃいませ」
「久しいな。……俺だけか?」
店内を見回した騎士は、一瞬、残念そうな顔をした。けれどもすぐに、元通りの表情に戻って、適当な席に腰かけた。
「ティラミスさんとは、入れ違いになりましたね。先ほどまでおられたのですが」
「いや、別に、あの娘に会いたいわけでは」
困ったような顔をした騎士に、店主は微笑んだ。
「今日は、どのようなものをお求めでしょうか、サー・ウィル」