●番外編 アイリッシュ・モルト 2
遅くなりました。そして、まだ完結じゃないですm(__)m
「良い香りじゃの」
入ってきたのは、おばばだった。ピンクのスーツに茶色のハイヒール。バッグも茶色。でも所々にポイントで、緑色が入っている。胸元には、緑の濃淡のついた葉をあしらった、数字の8らしきモチーフの金のブローチ。
サクラ草みたいだなあ、とティラミスは思った。
「おばばさま。今日はピンクなの?」
「小鳥たちが、愛の歌を歌う日じゃろ。気分的にこの色かと思うてな」
ふふ、と笑うとおばばは、くるりと一回転して見せた。
「小鳥たちが?」
「バレンタインの時期から、小鳥たちは求愛を始め、恋の歌を歌い始める、という言い伝えが確か、ありました。五月には巣を作って、子育てをしていますから」
ティラミスが首をかしげると、おばばの言葉を店主が補足した。
「そうなんだ。へー……なんだか可愛い言い伝えね。おばばさま。そのブローチ、数字の8?」
「いや。これは無限を現す記号じゃ」
「無限……、ああ。無限大」
数学などで出てくる、8の字を倒した記号だったらしい。
「なんでそんな記号を?」
「バレンタインと言えば、これじゃろ」
「え?」
なんのことかわからず、クエスチョンマークを頭の周囲に飛ばすティラミス。
「ぬ? 近ごろは、これを身につけたりはせんのか?」
おばばの言葉に店主が答えた。
「今は、ハートマークが多いですね。その意味を知る方は、少ないかと」
「風情がないのう」
ため息をつくと、おばばはティラミスの近くにある椅子に腰かけた。
「バレンタインに無限大って……何か意味があるの?」
ティラミスが尋ねると、おばばは答えた。
「愛は大きなものじゃ。果てがない。そのような意味でな。この記号を身につけていた時代もあったのよ」
「へー……」
「恋結び、とも呼ばれました。リボン結びはこの記号……と言うか、結び方を身につける風習から、生まれたようなものです」
店主が言った。
「え? リボン結びって、良くあるあの、蝶々結び? ええっと……壁にかかってる、あれみたいな」
良く見ると本日の店の中には、リボンを蝶々結びにして、花を添えた飾りがいくつか掛けられていた。周囲を見回したティラミスは、その飾りの一つを指し示した。
「はい、あれです。結び目の所、似てませんか。無限大の記号に」
「言われてみれば……」
「ハートの形にも似ているでしょう」
そう言われれば、なんとなくそう見えてくる。
「他には、アルファベットの大文字のAに、冠をつけたものがありましたね」
「アルファベット? なんで冠?」
「フランス語で愛は、amour。頭文字がAなんです。その文字に冠をかぶせることで、愛はすべてを超越する王である、という意味になりました。
ラテン語の格言、amor vincit omnia(アモール ウィンキッド オムニア)が由来です。愛は全てに勝利する、という意味ですが」
「なんかカッコイイね、それ」
ティラミスは、くすくす笑った。
「ま、縁起物みたいなものじゃ。きれいに刺繍したり、宝石で飾ったり。いろいろやった者はいたが。わしはこれが気に入っておっての」
おばばは、胸元のブローチに手をやった。
「昔の男からの貢ぎ物じゃ。この時期には思い出すのでなあ。つけてやっておるのよ」
「ぐふっ」
あっさりと言われた言葉に、一瞬、紅茶が喉につまってむせそうになった。ティラミスは咳払いをし、目をぱちぱちしてから、おばばを見やり、店主を見やり、もう一度おばばを見やった。
「えーと、……いきなり恋バナ?」
「そんな良いものではないのう。おっそろしく堅物で、朴念仁じゃったでな」
「朴念仁……」
一瞬、ティラミスの脳裏に、苦虫を噛みつぶしたような顔をした誰かさんの顔が浮かんだ。いやいや。
「つけてやっているって……えーと。その人とは、もう付き合ってないの?」
「とうに別れておる」
あっさりと、おばばは言った。
「あー、……えと」
ティラミスは、口ごもった。次の言葉が出てこない。
(別れたのに、もらったプレゼントを身につけているって……)
普通、女性は、別れた男性からのプレゼントは、捨てるかしまい込むかして、自分の目につかないようにする。なのに、おばばは身につけていた。
なんだろう。何か事情があるのかな、とティラミスは思った。まだ未練があるとか……。
「おまえさんの考えておることは、何となくわかるがのう。別に未練があるわけではないぞい」
おばばはしかし、苦笑して言った。
「これは、まあ、何と言うか。記念のようなものじゃ。そういう日々があったと、思い返すためのな。それだけに過ぎん」
「良く、わからないんだけど……」
「わしの中では、もう終わったことなんじゃよ。腹の立つこともあったがの。そういうものはもう、全部過ぎてしもうたわ。
思い出すことが、ただ懐かしいという事もあるのよ」
おばばの笑い方は穏やかで、静かだった。様々なことを経験した後、全てを許したかのような。
「どうぞ」
そこで、その場を離れていた店主が戻ってきた。おばばの前に、お茶のカップとお菓子の皿を置く。
「おう、すまぬの」
「なんのお菓子?」
ティラミスはのぞきこんだ。皿にもられているお菓子は、クッキーのようだ。ショートブレッドっぽい生地に、いろいろ練り込んである。つぶつぶした何かのスパイス、砕いたドライフルーツらしきものが見える。大きさは、人差し指ほど。形は楕円形。
「キャラウェイ・シードと干しぶどう、プラムを練り込んだケーキです」
店主が答え、ティラミスは首をかしげた。
「ケーキ? クッキーって言うか……ショートブレッドっぽいけど」
「ああ、……ええ。ショートブレッドです」
「これを『ケーキ』と呼ぶ時代もあったのよ。今のように、ふわふわとさせる手立てがなかったからのう。ベーキングパウダーなんぞ、昔はなかった。卵を泡立てるという手段も、知られてはおらなんだしの」
おばばがそう言いながら、一つをつまんだ。さくっ、とかじる。
「懐かしい味じゃ」
「洋梨のコンフィチュールもありますが」
「もらおうかの。パンケーキに添えて」
「はい」
うなずいてから、店主はティラミスを見た。
「ティラミスさんも、食べてみますか? そのお茶には合わないかもしれませんが」
「あ、えと、……合わないの?」
「カカオの香りを楽しむためには、シンプルな味のケーキやクッキーの方が良いですから……」
「あれ、じゃあ、おばばさまのお茶、あたしのと同じじゃないの?」
ティラミスは、おばばの手元のカップを見つめた。黒っぽい液体が入っている。
「コーヒー?」
「わしが飲んでおるのは、オルゾじゃよ」
「おるぞ?」
「大麦を炒った飲み物です。麦茶みたいなものですね。コーヒーや紅茶が広まる前に、ヨーロッパで飲まれていました。
カフェインが入っていないので、現代でも、体調の良くない方が、代替コーヒーとして飲んでいますね」
「そうなんだ~……」
ふうん、と言ってから、ティラミスは、おばばがかじっているショートブレッドに目をやった。
「ん~、でも、気になる。あたしも、おばばさまと同じお菓子を頼んで良いですか?」
「はい」
店主が微笑んだ。
※補足
蝶々結び、と呼ばれるリボンの結び方は、実は、古代エジプトや、古代ギリシアの時代からあります。
当時はひもや、ロープでしたが。
船乗りなどが、ほどけないよう、結び方を考えて伝えていったのですが、これが、衣装の装飾になったり、髪飾りになったりしてゆきました。
17世紀ぐらいに、綺麗な布を細くしたリボンで、胸元などに飾りとしてつけることが流行し、現代の蝶々結びへとつながってゆきました。
結ぶ、というのは日本でも、人と人とを結ぶ、恋のおまじないみたいに使われていたみたです。水引とかがそうですね。
無限大の記号を身につけるのは、中世のころの風習で、始まりもなく、終わりもない、という意味から、永遠、という意味が導き出され、愛のお守りの記号とされました。