やって来た者は。1
音は小さなものだったが、意外にその場に響いた。誰もが思わず、口をつぐみ、扉に目をやった。
「どなたですか」
店主が問いかける。すると外から、若い男の声がした。
「『ただの茶屋』の店主どのに申し上げる。客として参った。
平和の内にひとときを過ごし、平和の内に立ち去ると約束するゆえ、入れてもらいたい」
「どうぞ、お入りください」
店主の言葉と共に、扉が開いた。ごっ、と音を立てて風が渦巻くのが聞こえたが、なぜか風は、店の中には入って来なかった。
入り口に立っていたのは背の高い男で、全身を灰色のマントでくるみ、フードを深くかぶっていた。背になにかを背負っている。
優雅な、しかし尊大な所のある所作で敷居をまたぐと、男は店内に入った。
背後で扉が閉まる。風の吠える声が一瞬だけ聞こえ、ぶつりと途絶えた。
「いらっしゃいませ」
「なんという意地汚い闇だ」
店主の言葉にうなずいてから、男はぼやくように言い、すたすたと歩いて暖炉の側にやって来た。フードを下ろす。
ウィルフレッドは眉を上げた。
男は若く、細身で、白っぽい金髪を長くのばし、およそ、人間が思い描ける限りの、ととのった顔をしていた。肌が発光し、光のしずくや星の輝きが、常に取り巻いているかのように見える。
その足どりは軽く、ひとつひとつのしぐさが優雅だった。
目の色は、鮮やかな青。
声音は低く、それでいて音楽的で、語る言葉は耳に心地よい。これは。これは、まるで。
「久しぶりですね、ロード・ヴィンド。ようこそ」
店主の言葉に、ウィルフレッドは我に返った。そこで初めて、自分が相手に見入っていたことに気づく。
「たまに、この店のもてなしが懐かしくなってな。息災であったか、店主」
「おかげさまで、どうにか暮らしております」
店主からの侯、の呼びかけに、貴族か、とウィルフレッドは思った。道理で。しかし、それにしては……。
「まじわざのおばばも……おお。パン焼きの若者もいるではないか。ん? そちらは新たな住人か?」
男の目が自分をとらえ、ウィルフレッドはなぜか、背筋を伸ばした。
「お客さまです。少し前に、この店に入って来られました」
店主の言葉に、男はふむ、と言ってウィルフレッドを見つめた後、視線を外して店主に目を向けた。男の視線が外れると共に、ウィルフレッドは息をついた。自分が緊張していたのだと、その時気づく。
「あれが騒いでおるのは、これが原因か?」
「おそらく」
「ただ人ではないのか?」
「ごく、当たり前の人間です」
店主と男が、穏やかに会話をしている。しかしそのやりとりは、別の意味をふくませているように、ウィルフレッドには聞こえた。
これ、というのは自分の事だろう。多分、そうだ。
だが、あれ、とか、原因、というのは、何の事だ。
男は、ふう、と息をつくとマントを脱いだ。次いで背負っていたものを外し、近くの机の上に置く。ごとり、と重たげな音がした。
「ここに来た時点で、それはどうかと思うがな。まあ良い。通り一帯が、うるさくてかなわん。はよう帰してやれ。
契約はいつ終わる」
「それは、この方の見つけるものですので」
この店主の言葉に、男は動きを止めた。軽く眉を上げる。
「迷いかけておるのか」
「まだ決まっておりません」
鋭いと言える口調でたずねた男に、間髪を入れず、店主が答える。男は渋面になった。
「たわごとを。そなたのやる事なぞ、見当がつくわ。
わかっておるのか? 吾はここが気に入っておる。その場所を損なうような真似をするのは、たとえ、そなたと言えど許さぬぞ」
厳しい調子で言われた言葉には、それだけで威圧されるものがあった。しかし店主は動じることなく、微笑んだ。一礼する。
「ロード・ヴィンドファル、慈悲深きアヴァルの丘のあるじよ。卑賤なる我が身をお気遣いいただき、感謝いたします」
「そなたのことなぞ、気づかってはおらぬ」
ぷいと顔をそむけ、むっつりとして言う男に、おばばとじんが苦笑した。
「丘の。わしには何もなしかえ。わしも、ここにおるのじゃがな」
男はちらりとおばばを見やった後、ふんと鼻をならした。
「そなたは何があれど、勝手に生き延びるであろうが、まじわざの。そこの若者はどうだか知らぬが」
「え、おれ、死亡フラグ立ってる?」
いきなり話題をふられたじんが、慌てた顔で言った。
「旗がどうした。パン焼きはパン焼きらしく、パンを焼いておれ。なにを巻き込まれておる」
「巻き込まれてるんですか、おれ?」
あわわ、とういう感じで自分を指さしたじんに、男は、残念なものを見るようなまなざしになった。
「店主。もう少しばかり、これに知恵をつけてやっても良いのではないか」
「あの、おれって、そんなに残念……?」
衝撃を受けた様子の青年を見て、おばばが笑った。
「丘の。これはこれで良いのよ。これの契約は、ゆるやかではあるが、強力ゆえな。
それなりに人脈も築いておるし、危ない事には手を出さぬ。ここの主も気をつけておるし、滅多な事にはならぬさ」
「別に、それの心配をしたわけではない、まじわざの。頭の巡りがどうであるのか、気になっただけだ」
男が答えたが、その言葉におばばは、「ひっひ、ツンデレ、ツンデレ」と言いながら笑った。男は眉をしかめた。
じんはじんで、「いや、おれにデレられても」と口の中でぼそぼそ言っている。
「つんで、れ?」
聞き慣れない言葉に、ウィルフレッドは首をかしげた。何かの呪文か?




