さらに、その店では。2
「いたのか」
「はい」
「そなたの料理は、美味いな」
「ありがとうございます」
人が側にいたのに気がつかなかった自分に妙な焦りを感じたが、店主の静かな佇まいに、落ち着きを取り戻す。少しの間、ウィルフレッドは紅を見ていたが、やがて言った。
「店主」
「はい」
「俺の舌は、そう肥えているわけでもない。騎士になる前は裕福ではない暮らしをしていたし、騎士になってからも、多少、肉が食えるぐらいで、基本は庶民と変わらん。
俺のようなものは、酒と、火で炙った熱いものが腹に入りさえすれば、満足するものだ」
「はい」
「だがそなた……、これはないだろう」
「はい?」
ウィルフレッドは苦笑気味に、空になった碗と綺麗に平らげた魚の痕跡を見やり、もう一度紅に目をやった。
「母親が息子の為に、祖母が孫の為に、作る料理の味がする。高価な食材は使われてはおらんのに、そのはずなのに。隅々まで気が使われている。実に細やかだ。
味わう事に夢中になりすぎて、周りに気をやることを忘れていた。騎士に警戒を忘れさせるとは。そなたの料理、罪深過ぎるぞ」
紅はまばたいてから、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「花、な」
ウィルフレッドはつまんだままだった野菜を見下ろし、ひょい、と口に放り込んだ。咀嚼して飲み込み、うん、とうなずく。
「昔、母がこうしたものを良く作ってくれた」
「そうですか」
「母はな。料理の腕が良いのだ。貧しい暮らしの中でも、できる限り美味いものをと、腕を振るっていた。庭に畑を作り、野菜や香草を育てていた。俺も野や森で、食べられるものを探しては持ち帰った。
あのころは豆や野菜ばかりで、魚もたまに食べられるものだった。肉が手に入れば、天にも昇る心地だったな……」
ウィルフレッドは次々と野菜を食べ、最後に汚れた指を洗い、固焼きパンのふちでぬぐった。それから、今までの料理の味を思い返すかのように、目を閉じて息をつく。
心地よかった。
これまでになく、くつろいだ気分だった。
その場所は暖かく、穏やかだった。暖炉で薪が燃える、ぱちぱちという音が響いている。
ゆったりと、時が過ぎる。
そこにいる者たちは、静かで。沈黙したウィルフレッドを特に気にかける様子もなく。しかし穏やかな気遣いをもって、彼の沈黙を尊重してくれていた。
それが、とても。彼の心を癒し、くつろがさせていた。驚くほど。
よみがえる、幼いころの優しい記憶。
中には苦いものもあった。悲しみも。
しかし、今。温かな暖炉の火を感じながら、こうしていると。全てはやわらかな何かに包まれて、痛みも悲しみも、確かにあったのに。遠くなってゆくようだった。
耐えられぬ痛みではなかった。耐えられぬ悲しみでもなかった。
あのころの自分には、世界が終るのではないかと思えるほどの、怒りであり、痛みであり、悲しみであったが、今なら言える。その全ては、耐えきれぬほどのものではなく。
大したものでもなかったのだ。
青かったのだな、と思う。俺は、随分と。未熟な人間だった。
しばらくそうしていたウィルフレッドだったが、やがて目を開いた。それから大麦の飲み物を口にした。ゆっくりと、味わうように飲む。
「これも、うまいな。エールが欲しかったが、これはこれで良い」
「ありがとうございます」
思い出の中の日々をもう一度、大切に胸の中にしまい直すと、騎士はそう言った。店主が静かに答え、会釈する。
「ソースの作り方を教えてもらえないか。母に教えれば喜ぶ」
そう言うと、店主は考え込むような顔をした。それから彼女はウィルフレッドに尋ねた。
「ハーブの名前を、取り違えたりなさいませんか」
「大丈夫だ。さっきも言っただろう。俺は子どものころ、母の料理を手伝っていた。確かに騎士の中には、人参とパセリの違いもわからん者もいるが。その程度の区別はつく。ああ……それとも、何か秘伝でもあるか?」
店主は微笑むと答えた。
「昔ながらの方法で作られた酢や塩、油、ハーブを使っているだけです。秘伝などは何も。
魚にかけたものは、刻んだ玉葱とニンニクを酢とワインに浸しておき、ローズマリーとセージを入れて軽く煮たものです。
野菜にかけたものは、茹でたエンドウマメを使いました。裏ごししたものを酢とワインでのばし、パセリと生姜を刻み入れたソースです。肉汁があれば、それを混ぜても良いでしょう」
「ミントの味もしたが」
「野菜の方に混ぜました」
「ああ……、手の込んだ事をするものだな」
「性分ですので」
「褒めている。よくわからんが、美味い」
「ありがとうございます」
ウィルフレッドは、素焼きの器に入っていた大麦の飲み物を飲み干した。かすかな苦みとほのかな甘さが心地よい。薄く切られたチーズをつまんで口にする。
「このチーズは……変わった味がする」
「以前、ここを訪れたお客さまが、食事代にと置いて行かれたものです」
「悪くない。だが、食事代か。そうか。品物を置いて行く者もいるのか」
金銭よりは、そうしたもので支払った方が良いのだろうか、とウィルフレッドは思った。
「さて。しかし、そうであれば俺は、何を、どれほど支払えば良いのかな」
「持っておる金銭で支払えば良かろう」
つぶやいたウィルフレッドに、おばばが言った。むき出しの足を、暖炉の火で温めるかのような格好をしている。
「ぬしはおよそ、ここには不似合いな客じゃ。はよう対価を支払って、去ぬるが良い」
「おまえに言われたくはないぞ。おい。足を隠せ」
何となくむっとしてウィルフレッドが言うと、おばばは鼻で笑い、見せつけるように足を伸ばして見せた。
「なんじゃ、気になるのか。若い娘の足じゃ。眼福であろうが」
「おばばさま」
紅と名乗った店主が、たしなめるかのように名を呼んだ。おばばは軽く眉を上げ、横目で店主を見やった。
「ふん、わしに意見をするのか、『ただ茶屋』の?」
「この方はわたしの客です。彼はここに来て、店は彼を迎え入れました。挑発はおやめください」
柔らかい声音で、しかし意外ときっぱりとした意志を込めて、店主が言った。おばばがむっつりとした顔になる。
「はよう縁が切れるのが、こやつにとっても幸いであろう。おのが日常に戻り、ここでの事は忘れ去る。このような男には、それが」
「それは、我らの決める事ではありません。この方の道筋は、この方のものですから」
店主の言葉に、おばばは黙った。ぷいと横を向く。
「機嫌悪そうですね~……」
ジンが店主に言った。紅は小さく息をついた。
「いえ……おばばさまの言われるのも最もです。ここから早く、この騎士さまをお出しした方が良いというのは。
騎士さま。よろしければ、対価をいただいてもよろしいでしょうか」
やはり、彼らの言っている事はわからない。そう思いつつ黙ってやりとりを見ていたウィルフレッドだったが、そう言われてうなずいた。
「ああ、……銀貨で良いなら」
そう言ってウィルフレッドは、ベルトにくくりつけてある小袋から、数枚の銀貨を取り出した。