さらに、その店では。1
外から、何かの獣が甲高く叫ぶ声がした。
しかし、それは一瞬で。扉が閉まると同時に消えた。後には妙に清澄で、平穏な空気だけが残る。
(なんだったんだ?)
何かがあった気がする。眉をひそめたが、しかし自分には、何がどうなったのだが、さっぱりわからない。
「ご婦人。今のは」
「埃をはたいて、外に出しました」
さらりと返され、ウィルフレッドは次の言葉を返しあぐねた。確かに、言われてみれば、この女性がした事は、埃にまみれた旅人の埃をはたき、外に追い出しただけなのだ。しかし、どうも、他に何かをしたような気がするのだが……。
「騎士さまには改めて、ようこそいらっしゃいました。ここは、ただの茶屋。わたしはここで、店のあるじをさせていただいております。どうぞ、紅とお呼びください」
考えていると、女性が名乗った。
「べに?」
「そうお呼び下さい。そちらはジン。パン職人ですが、時折、店の手伝いに来てくれます」
言われて青年の方を見ると、軽く頭を下げてきた。パン職人だったのか。道理で筋骨たくましいわけだ。
「おばばさまはもう、おわかりですね」
「俺はウィルフレッド。ミストレイクの騎士だ」
おばばの方に一瞬視線を向けたが、むきだしの足が目に入ったので、ウィルフレッドは礼儀正しく目を逸らした。どうにも、あれは困る。
「騎士さまには、おなかがすいておられましたね。何か召し上がりますか。簡単なものしか出せませんが」
すると、紅と名乗った女性が言った。それまで考えていたことを、ウィルフレッドはあっさり放棄した。
「頼めるのなら、ありがたい」
何かを腹に入れられるというのなら、それが温かい食事だと言うのなら。振る舞いが不遜であろうが、服装がはしたなかろうが、多少の事には目をつぶる。そうだとも!
* * *
さほど時を置かずに出された食事は、ウィルフレッドが今まで食べてきた中でも、絶品と言えるようなものだった。
パンを浸したスープ(ソップ)。
野菜を刻み、何かのソースをかけたもの。
燕麦で包んで揚げた、魚料理。野菜と魚は、固く焼きしめたパンの上に乗っている。
同じパンの上に、薄く切ったチーズもある。
大麦を炒った黒い飲み物。どうやら麦酒の代わりらしい。
紅と名乗った女性と、ジンと呼ばれた青年が、それらを次々と運んできた。
適当な場所に座ると、指を洗う為の水の入った木の器と、リネンの手拭きを出され、ウィルフレッドは鳴る腹をなだめながら、まず指を洗った。セージとミントを煮出したらしいその水は、清潔な香りがした。
パンを取り上げ、スープをすくいあげ、まず一口。
うまい。
生姜の刺激とかすかな甘さ。タイムと、これはパセリか? とろみがあるのは、燕麦を使ったのだろうか。
もう一口。刻み入れられた塩漬け肉を感じる。人参や玉葱も入っている。漉していないらしく、つぶつぶと、野菜や燕麦の感触が舌に触る。洗練された感じではないが、これはこれで風味を出している。
味ととろみを楽しみながら、あっと言う間に平らげてしまう。パンがふやける間もなく、碗を持ち上げ、中身を全て空にした。
そうしてウィルフレッドは次に、魚に取りかかった。持ち歩いている食事用のナイフを取り出し、切り分ける。スープを食べている間にほどよく冷めて、指を火傷する事はなかった。
肉厚な魚だった。カマスだろうか。塩漬けではなく、新鮮なもののようだ。それだけでも美味いと感じる。
かかっているのは、これは、セージか。指でつまんで口元に運ぶと、酢とにんにく、ほのかにローズマリーの香りがした。口に放り込んで噛むと、衣につけた燕麦が、ぱりぱりとしていた。
豊かな味と香りが口の中に広がった。
エールが欲しいな、とウィルフレッドは思った。うまい料理を食べる時には、うまいエールがあるものだ。だが、ここでは酒は出さないと言われた事を思い出し、残念に思った。しかし、店主が女性であるなら、それも仕方がないだろう。
肉を切り分ける時、酔った男たちは、自分のナイフを振り回す。大物の肉であるなら、それこそ殺到してナイフを突き出す。押さえのきく頑丈な男がいない限り、怪我人が続出する。だから、酒を出さないと言うのはわかるのだが。
代わりに出されている黒い飲み物に目をやり、あまり期待せずに素焼きの器を取り上げた。一口飲む。
ウィルフレッドは、目を見開いた。
香ばしい苦みに、フェンネルの香りとわずかな甘み。炒った大麦に、店主はフェンネルの種と、蜂蜜を入れたらしい。それがひどく心を打つ、懐かしいような、優しい味になっている。
『急がないで、ウィル。胃がびっくりしてしまうでしょう。ゆっくり、良く噛んで食べなさい』
子どもの頃、母親に言われた言葉を思い出す。急いたように食べていた彼の速度が、少し落ちた。
もう一度魚料理にもどり、しかし今度は、一口一口を、味わうかのようにゆっくり噛んだ。そうすると、ハーブの香りと魚の旨味が、何かの力となって、体の中に行き渡って行くような気がした。
そうして魚も食べ終わり。彼は野菜を指でつまんだ。緑色のソースがかかっている。鮮やかな色が目に入り、見ると、何かの花びらが入っていた。
「これは、なんだ?」
「刻んだカブとレタス、酢漬けのキャベツ、タンポポの花と葉、キンセンカの花をあえたものです。エンドウマメのソースをかけました。騎士さまの好みには合いませんか?」
ウィルフレッドがつぶやくと、側に立っていた紅がそう言った。食事に夢中になっていて、彼女が側にいることに気づいていなかったウィルフレッドは、はたとなり、そちらに目線をやった。