その店の中では。3
ウィルフレッドの常識では、女性とは、長い髪を誉れとし、慎み深く足を隠すものだ。
髪を短く切り落とすのは、罪人に対する処罰でしかあり得ない。
他に、修道女などが髪を切り落とすことがあるが、その場合、彼女たちは必ず、体の線のわからない衣服をまとい、足はもちろんのこと、頭や首筋をきっちりと覆い隠し、生身の女性であることがわからないように装う。
髪は、生身の女の美しさの象徴。神に仕える修道女が、そのようなものを感じさせてはならないからだ。
目の前にいる女の栗色の髪は、痛々しいまでにばっさりと切り落とされ、首筋が見えている。
これは修道女ではない。ありえない。では、何か罪を犯したのか。
しかし、そういう人間に特有の、どこかが擦り切れたような、引け目を感じているかのような、そんな雰囲気は微塵もない。絹をまとう鋼のような豪胆さこそ感じられるが。
衣服の色は、鮮やかな青。
聖母の色。こうまで鮮やかな青は、相当な忍耐と技量がなければ出せないはず。
あの大青染めの親方であるベンでさえ、こんな鮮やかで、深い青が産み出せるかどうか。
それほどの高価で貴重な聖色を衣服に使いながら、罪深いまでに、スカートの裾は短く切られている。これは、どういう装束なのだ。
総合すると、ウィルフレッドの目の前にいる若い女は、
罪人のように短い髪をして、
聖母の色を身にまとい、
遊び女ですらおののくほどに、足を露にし、
それでいて、女王のように堂々と胸を張り。騎士である自分に臆することもなく、対等な者であるかのように、まっすぐにこちらを見ているという存在だった。
どのような経歴の、また、どのような身分の者であるのか、さっぱり見当がつかない。
立ち居振る舞いや言葉遣いから見当をつけようにも、彼女のそれは、貴婦人のそれではなかったが、
それでいてどこかしら品位があり、自分の知らない、何らかの権威を持つ者のそれに見えた。
「くれてやった奈良漬けは役に立ったかのう。喰ってみたか?」
語る言葉はこれだったが。
「おまえ……、あの時の怪しい女か」
「怪しいも何も、わしは常にわしであるだけじゃ」
「言葉遊びはやめろ。ナ、ナラヅ、ケ? とは、この臭い代物か。これを俺によこしたのはおまえだろう」
ウィルフレッドがその物体を懐から取り出すと、つーん、という匂いがした。服に匂いがついたかもしれない。ちょっと眉根にしわが寄った。
「あれ、奈良漬け」
「おばばさま、これを騎士さまに渡したのですか?」
青年と女性が言い、目を丸くした。
「おばば?」
ウィルフレッドは、二人の言葉に眉を上げた。それは、歳を取った女を差す言葉ではなかったか。すると、「わしのことじゃ」と、青い衣をまとう女が片手を上げた。
「おまえが? ばば?」
「敬意を込めて、おばばさまと呼べ、若造。年長者に対する礼儀がなっておらぬぞ」
そう言われても、目の前の女は、小娘が少しばかり年を重ねたようにしか見えない。どう返答するべきかと思っていると、男装の女性がそっと声をかけてきた。
「騎士さま。『おばばさま』は、彼女に対する敬称でもあるのです。彼女は、この辺りで最も古株の知恵者なので。
騎士さまも、助言をいただいたのでしょう?」
「あれを助言と言うのかどうかはわからんが、これはもらったな」
騎士の手の中でつーん、と臭う、謎の物体。
青い衣の女が笑った。
「ひひひ。堅物そうな騎士どのが、迷うておったのでなあ。まあ、サービスじゃな」
「サービスで奈良漬けですか……初めて見る人にはきついのじゃないですか、これ」
男装の女性が苦笑気味に言うと、おばばと名乗る女は肩をすくめた。
「なんぞ、薄暗い力が取り込もうとしておったでな。目印代わりに渡したのじゃ。意識をしゃっきりさせるのにも、役立ったじゃろ」
「なんの話だ」
ウィルフレッドが言うと、おばばはにやりとした。
「どうと言うこともないわ。おまえさんはな。わしに気に入られたのよ。じゃから、力を貸した。無事にたどりつけたじゃろ、ここに。
ここはある意味、避難所のような場所でなあ。この場所にいる限り、どのような陣営の、どのような権威、力であれ、手を出すことはできぬ。
迷いかけたのであろ? ここまでにも」
女の言う事は、さっぱりわからなかった。しかし、何か、意味があるようにも思えた。
迷いかけた。
確かに、ここに来るまでに。ひどく疲弊し、何度も引き返そうと思いかけた。
もし、引き返していたなら。
この場所にたどりつけず、闇の中で。道を失い、さまよい続けたかもしれない……。
どことも知れぬ闇の中をさまよい続ける自分を思い、ウィルフレッドはぞっとした。道を失ったのは確かだ。朝が来るまで、ずいぶんとかかるだろう。
その間、狼や野犬に襲われたら。疲れ果てた自分はあっさりと、やられていたかもしれない。
そこではたと、気がついた。
「疲れていない……?」
体が軽い。この店に入るまで、あれほど疲れていたはずなのに。
少し腹が減った感じはあるが……、あの、何かがのしかかってくるような、手足に岩をくくりつけられたかのような、疲労が消えている。
「しつこい者がおるからのう。わしが目をかけた迷い客に、それでもまだしがみつこう、たぐり寄せようなど、愚かしいにも程がある」
女が言った。
「まだ、何かやってるんじゃないですか? 払っておいた方が」
青年が、気づかわしげに言う。女は肩をすくめた。
「面倒じゃ。紅どのがやれば良かろ」
「招いたのはおばばさまでしょう。最後まで面倒を見てやっては?」
男装の女性が言ったが、おばばと名乗る青い衣の女は、ひらひらと手を振って拒絶した。
「じゃからと言うて、なんでわしがせにゃならん。わしゃ、これまでに結構、大盤振る舞いをしてやったのじゃぞ?
誘惑されておるこやつに話しかけて、細かい力を払ってやり。この場所の話をして、道をつけてやり。途中、迷わぬよう加護までつけたわ。これ以上はいくらなんでも、面倒くさすぎるわい!」
結局、『面倒くさい』に全てが集約されるらしい。