その店の中では。2
* * *
黒衣の人物は現れた時と同様、唐突に姿を消した。気づけば、ウィルフレッドは一人で、薄暗い広場に立っていた。
つーんとする匂いの物体を手にして。
捨てようかとも思ったが、何かの役に立つかもしれないと思いなおす。たとえば、狼に追われた時に、投げつけるとか。盗賊の気を逸らすのに、投げつけるとか。
城に帰還した際に、ロード・アランに投げつけるとか。
良いかもしれない。と、一人うなずいてから、ウィルフレッドは改めて、周囲を見回した。ともかく、今は、誰かに道を尋ねねば。
「まっすぐに行けと言ったか……?」
つぶやいて一歩、踏み出す。すると、めまいのようなものに襲われた。
目を閉じてやりすごし、目を開ける。
「道……?」
目の前に、道があった。先ほどまでは、こんな道には気付かなかった。
一本の道が、こちらに来いとでも言うように、広場から伸びている。
誘われるかのように、ウィルフレッドはその道をたどりだした。
* * *
歩くたびに、なぜか体が重くなった。
前に進むのがおっくうになる。
立ち止まりたい。座り込みたい。休みたい。
一歩進むたびに、そんな思いが湧いた。
次第に、息をするのも重苦しく感じるようになってゆく。
この道で良いのか。
俺は何かを、間違えたのではないか。
今からでも遅くはない。引き返した方が良いのでは。そんな思いも湧いた。
疲労のせいか、頭がはっきりしない。何度か立ち止まろうかとウィルフレッドは思ったが、そのたびに、
つ~~~ん……。
手にした謎の物体からの刺激臭が、彼の意識をしゃんとさせた。意外とこれは、気付け薬として仕えるかもしれない、と彼は思った。
どれだけ歩いただろう。
空が闇色に染まり、大地も暗さの中に沈み始め、足元もおぼつかなくなり出したころ。
一軒の家の前に、ウィルフレッドは立っていた。
どこか作りものめいた先ほどまでの家々とは違い、その家はしっかりとそこに根を下ろし、人がそこで暮らしている気配を漂わせていた。
古びてはいるが、手入れのされた屋根や、壁。温かな光が、窓や戸口から漏れている。
少し高くなった所に建てられているその家の前には石段があって、家の周囲には、家人が手入れしているのだろう緑があり、名も知らぬ花が咲いていた。
どこにでもあるような、ただの家だ。そのはずだ。
そのはずなのに、なぜか。うれしいような、懐かしいような。そうしてほっとするような。長らく離れていた我が家に帰ってきたような。
その家を見たウィルフレッドは、そんな思いを味わった。
疲れ果てていたはずなのに、なぜか、気力が湧いてくる。どこかはずむような足取りで、彼は石段を上った。
戸口は目の前だ。
古びた木の扉を叩き、声をかける。
「夜分、失礼する。道に迷い、難儀している。怪しい者ではない。俺は、ミストレイクの騎士をつとめるウィルフレッドという。
中に入れてもらえないか」
扉が開いた。
中は明るい光に満ち、暖炉からであろう温かな空気が、開けた扉から逃げ出して、ウィルフレッドを包んだ。
「いらっしゃいませ」
黒い髪を一つにたばねた、男のような衣服をまとう女がそこにいた。
彼女は微笑んで、立っている位置を横にずらすと、ウィルフレッドに中に入るようにうながした。
古びた木の柱と、歳月の色に染まった漆喰の壁。
何度も水拭きされている内に、磨き抜かれ、角が丸まってしまった机や椅子が、いくつも並んでいる。
奥で、暖かな炎を踊らせている暖炉。
心地よく揺れる光と影。
目に入るものは、それだった。ウィルフレッドは、店に入って立ち止まり、それらを見て取った。
小麦粉や果物、何かのハーブを熱した甘く刺激的な香りが、バターを焦がす、良い香りと共に漂っている。調理中だったのだろうか。
視線を感じてそちらを見ると、髪を短く刈り上げた若い男が、少し離れたところに立って、こちらを見ていた。この家の者か?
「ご婦人。ここは……」
いくつも並ぶ机と椅子に首をひねると、扉を開けてくれた、男のような格好をした女性が答えた。
「ただの茶屋にございます、騎士さま」
「茶……屋? 茶とはなんだ。何かを商う店か?」
「騎士さまの国にはまだ、伝わっておりませんか……薬湯、と言えばよろしいでしょうか」
「薬草屋か?」
「いえ、……旅の途中、疲れた者がひととき立ち寄り、軽く何かを腹に入れ、飲み物を飲む場所にございます」
「旅籠のようなものか」
「そうですね。時には、道がわかるまで、ここに留まるお客さまもおいでです。
ですが、騎士さまには、小さな村で、立ち寄った方に食事を出してもてなす、主婦の仕事が少し広がったもの、と考えていただいた方が良いやもしれません。
わたくしどもの仕事は、立ち寄った方に休んでいただき、一息ついた後、旅立たれるのを見送ることにございます。
その分の報酬も、いただきますが」
ふむ、とウィルフレッドはうなずいた。
あれか。ちょっと立ち寄った村で、何か食べる物はないかと求め、有り合わせを出してくれたその家の主婦に、心付けを渡すようなものか。
そういう事が度重なって、この家の者は、やって来る者にとりあえず、何かを出せるようにしているのか。
「なるほど。では、少し休ませていただこうか。歩き詰めで、腹も減っている」
「こちらへ。お好きな席にお付きください」
女性にうながされ、光と影がゆらゆらと揺れる中を歩む。このような造りの家では珍しく、何もかもがくっきりと見えた。
夜更け、家の中とくれば、影は深くなり、光をはずれた所は、暗がりに沈むのが当り前であるのに。
「騎士さまには、申し訳ないのですが。ここには麦酒はございません」
「切らしているのか?」
「いえ、ここでは、『チャ』や『テ』と呼ばれる薬湯をお出ししております。
血の気の多いお客さまが来られた事もございまして」
女性の言葉に、飲んで暴れる真似をした者がいたのだろう、とウィルフレッドは思った。その用心から、酒を出さないようにしているのだろう。
「そうか。残念だが……、『チャ』? とは、どのような薬草だ。聞いた事もないが」
「心を落ち着かせ、疲れた体を穏やかに回復させます。この薬草を求めて、はるかな旅をした人々が多くおりました」
そうなのか。とウィルフレッドは思った。
「遅かったのう」
そこで、声がかけられる。
聞いた事のある声だ、と思い、そちらを見、
がくり、と顎を落とした。
「待ちくたびれたぞい。はよう座れ」
対等な立場、いや、自分の方が身分が上と言わんばかりの口ぶりで話す、その女は、
栗色の髪を短く切り落とし、露にした足を組んで、椅子に腰かけていた。
ウィルフレッドの常識の中の『女性』の姿ではあり得ない、奇矯ななりである。
脇に置いてあるのは、見おぼえのある黒衣。
「おまえ……」
「わしの助言は役に立ったかのう?」
怪しげなあの黒衣の下にいたであろう、より一層怪しげな女がそこにいた。
 
 
おばばさまは、スーツを着て、ローヒールを履いています。
 




