家臣は新たなる奈良漬けにがっくし。3
ゆらり。
ゆうらり。
腕が、揺れて手招く。
人々のざわめきが、騎士を包んでいた。ざわめきにはどこか、嘲るような、誘うような響きがあった。
それは、上品な女性の腕に見えた。
すんなりとして白く、手入れが行き届いて美しい。影の中でひらひらと舞う様は、男を誘惑しているかのようにも見えた。
ウィルフレッドの視線が、近くの窓から見える手に止まる。
彼は、ゆっくりとそちらに歩み寄った。手招く腕は、ウィルフレッドが一歩進むごとに、なまめかしく、焦らすように動いた。
ついに窓の近くで彼が立ち止まると、腕は、自身の美しさを見せつけるかのように、柔らかく、なよやかに動いた。すっ、と影の中から伸び、この手を取れと言わんばかりに宙で止まる。
触れてみたいと思うような、淑やかな手。淑やかでありながら、誘うような色香が漂う。
男が夢見る貴婦人の手であった。目の前にあれば、触れてみたいと手を伸ばさずにはいられないだろう。……通常の男ならば。
しかし、忘れてはならない。ここにいるのは、サー・ウィルフレッド・ホーク。
ミストレイクに名高い、朴念仁を究めた男であったのだ。
ウィルフレッドは、自分に向けて伸ばされた手を見下ろした。そして、ふー、と息をつくと、
「ご苦労である。そなたらの任は果たされたゆえ、あとは安んじて帰られよ」
と、言った。
ざわめきが消えた。
同時に、腕の動きも止まった。
「わが君が、どのような難題を押しつけたかは知らぬが。このような所まで来て働かねばならぬとは、申し訳ないことをした」
真面目な顔で騎士は言った。ウィルフレッドの脳裏では既に、ここにいる住民たちは、ロード・アランに雇われた『ロマン追求の為の人員』に決定されていた。
すんなりした手は手入れが行き届いている。農民や、職人の手ではない。
そのような手を持つ女性は、身分の高い貴婦人。それぐらいは彼にもわかる。
そうした女性を引きずり込んで、ロマンを追求するとなると、領主はいったい、どのような無理を押し通したのか。また、この女性たちにも、どのような葛藤があったのか。
(あれだ。きっと身分はあるが、金策に困っている領地の貴族の娘か奥方たちだ)
そういう女性たちが、豊かな領の領主や奥方の縁故をたどり、行儀見習いと銘打った侍女奉公や、話し相手などを勤めることがあると聞いた事がある。
その領の奥方にうまく引き立てられ、結婚相手を見つける幸運に恵まれることもあれば、弱い立場であることにつけこまれ、無理を通されることもあると。
この手の持ち主も、そういう女性だろうとウィルフレッドは思った。
ロマン追求にまっしぐらな領主には、女性の微妙な立場などわからない。まず自分の欲求が優先される。
あの領主のことだから、『よし、ロマン追求するぞー』と叫び、(←いつもの事)
人手が足りない、ああ、ちょうど行儀見習いでうちに女の人が来るじゃないかーと呑気に喜び、(←レディ・アリシアに見つかったら雷が落とされるのだが、思いついた時は大抵、忘れている)
だったら頼んで良いよね、と、発揮しないで良い行動力を発揮し、(←これもいつもの事)
何がなんだかわかっていない、貴族の女性たちに『これやって!』『あれやって!』と命じる。
本人はただ頼んでいるだけのつもりだが、立場の弱いものからすれば、領の最高責任者の発言は、命令に等しい。
その辺りの気遣いはしかし皆無。その結果、命じられた相手にすべてしわ寄せが行く。
この女性もそうしたロード・アランの気まぐれの犠牲者だろうと、ウィルフレッドは思った。自分の経験からも、かなり詳細な想像までしてしまった。
「まことに、申し訳ない」
それゆえ、彼の発言は、実感の籠もったものになった。ウィルフレッドにとってどれほど領主が信用がない、いや、ある方向に向けては、必ずやらかすだろうという、多大な信用があるのかがわかる。
「皆はしっかりと責務を果たしたと伝えておくゆえ、安心して帰られよ」
真顔で騎士は言った。
一方、慌てたのは腕の方である。
窓から美しい女性の腕が伸び、それがゆるやかに男を差し招く、という状況は、少し考えればわかるだろうが、
あきらかに誘惑である。
であるのに、この男は、自分に触れようともせず。
帰れと言った。二回も。
かつてない事である。
それでも、腕はがんばった。
凍りついたように停止していたのが、気を取り直したのか、さらになまめかしく、あからさまな色香を放ちながら動いた。ウィルフレッドの歓心を買おうとでも言うように。
ほうら。わたしの手はきれいでしょう? 触りたくならない? この手の持ち主もきっと、きれいだと思うでしょう?
だから、ほら、わたしの手を取って。ねえ。あなたの好きにして良いのよ……?
そのような言葉が聞こえてきそうな、露骨な媚態だった。
しかし、くどいようだが、ここにいるのはサー・ウィルフレッド・ホークである。
秋波を浴びせる娘たちのことごとくを、無意識に回避。と言うか秋波が浴びせられていた事すら気づかなかった男。
まばたきをして見せる娘には、『目がかゆいなら洗った方が良いぞ』と助言し、
体をくねらせる娘には、『腹が冷えたのか。くだす前に温めておけよ』と言ってのけた、ある意味最強の男である。
そういう男に果たして、通じるだろうか。