自己紹介と、死んだふり。1
女性は、ティラミスと名乗った。
「会社に行こうとしてたんですよ。なんかでも、ぼーっとしてて。疲れがたまっていたのかなあ?
いつも曲がる角を間違えて、反対に曲がっちゃったんですよね。そしたら、迷っちゃって。
焦るし、お腹すくし。朝ごはん抜きだったから。
戻ろうとしたけど、来た道もわかんなくなって。
コンビニ探してもないし。どこかのお店に入って道を尋ねようって思っても、この辺りのお店、敷居が高そうで、入りにくい雰囲気でっ。
アンティークとか、高そうなものばっかりじゃないですかっ。
困ってたところで、ここ、見つけて。転んじゃったけどっ。でもよかった、人がいてくれて~!」
以上は、とりあえず店に入ってもらい、おしぼりを手渡し、彼女が泥を落としている間に大急ぎで作ったべーグルサンドといちごを皿に盛り合わせて出したところ、猛然と食べ始めたティラミスが、語ったことだった。
すごい勢いでぱくついている。よほど空腹だったのだろう。
「はぐはぐ、コレ変わった味するけど、なにはさんでるの」
「チーズとバジルの葉、レタスだけですが」
「んぐんぐ、でもなんか味が違う」
「ハーブを漬け込んだオリーブオイルを塗りましたから、それでじゃないですか」
「むぐんぐ、そう? ん~もう、なんでも良いや、おいしい!」
「ありがとうございます……あの、ゆっくり噛んで下さい」
どうやら何も知らず、魔法小路に迷い込んだ客らしい、と店主は見当をつけた。
妙な店に入らなくて良かった。中にはかなり、たちの良くない店もある。何気なく手にした品物から知らずに呪詛をもらい、ひどい目にあう『迷い客』の話は、ここでは珍しいものではない。
入りにくいと感じた、というのは、本能的なところで危機を察知し、回避したのだろう。
この客は、意外と運が強い。本人は気づいていないのだろうが。
「んん、お茶、お茶…」
そうこうしている内に、べーグルサンドを喉に詰めたらしいティラミスが、慌てながらカップを手に取った。一気に飲み干す。
アイスティーではない。ホットティーだ。普通、一気に飲むようなものではない。熱さで喉がびっくりしてしまう……のだが。
ごくごくごく……ぷはあっ!
親父がビールを飲み干した時のようなアクションを入れながら、ティラミスはあっさり、まだ熱いはずのお茶を飲み干した。
「はああ~、おいしかった~!」
しゃべりながら食べている間に、飲み干せるだけの熱さになっていたらしい。
そういえば、今朝の気温は低かった、と店主は思った。店の中も、まだそれほど暖まってはいない。そのせいもあるだろう。
本当に、いろいろと、運が強い人のようだ。
「お茶はまだ、ありますよ。もう一杯、いれましょうか?」
今の飲み方では、味も良くわからなかったのでは、と思って声をかけると、
「お願いします!」
と、満面の笑みつきで返事があった。
☆★☆
ティラミスに出したのは、アッサムで作ったチャイだった。
店主が最初、自分用にいれていた紅茶は、この騒ぎで蒸らし過ぎ、濃くなり過ぎてしまっていた。それで紅茶液を手鍋に注ぎ、ミルクと共に軽く煮込んでみたのだ。
分量がかなりいい加減になってしまったが、自分の朝食用にするつもりだったので、大雑把でも良いか、ぐらいの気持ちだった。
ティラミスには改めて、新しく入れ直すつもりだったのだが、なぜか店主と同じものを! と主張され、出す羽目になった。店主としては、客に出すお茶としては少々不本意だったが、ティラミスはそのお茶を! と言って譲らなかった。
「ん、ホントにおいし……お茶ですよねコレ」
自分用にも、べーグルに適当にチーズをはさみ、軽く炙ったものを皿に乗せていた店主は、食べ始めていた。手鍋の中のチャイをティラミスのカップに注いで渡し、残りを自分用にしている。
客と同じテーブルに着くわけにはいかないので、厨房近くの台に皿を乗せていた。そこで食べていると、ゆっくり飲んで味わっていたらしいティラミスから、そんな声がかかった。
「紅茶です」
「なんだか濃厚な味。紅茶って、もっとしゃぱしゃぱしてるでしょ。なんで?」
「煮込み紅茶だから、ミルクの味が出たのでしょう」
「煮込み? お茶を煮込むの?」
「チャイと呼ばれるものは、手鍋で作ります。煮込むとミルクが馴染んで、濃厚な味になるんですよ」
「ふ~ん。ミルクって、コーヒーに入れるあれ? 白いちっちゃいカップみたいなのに入ってる、たらっとたれるやつ」
「いえ、普通の牛乳です。コーヒーフレッシュは、あれは油から作られていますから。正確には、ミルクではありません」
「えっ、そうなんだ?」
ティラミスは不思議そうに、カップの中の紅茶を見つめた。
「紅茶に牛乳……って、普通にミルクティーよねえ。でもこんなの、飲んだことない。すっごくコクがあるんですけど。
ココアですって言われたら、そうなんだって思いそう」
うーん、とうなりつつ、一口。
「いや、絶対違うでしょ、これ。何かまぜてあるでしょ。紅茶じゃないって」
「紅茶です」
店主は苦笑気味に答えた。
「使っている茶葉が、味の強い種類のものなんですよ」
「え~、でも」
「作っているところ、見せてあげましょうか?」
「えっ、ホントっ? 見たい……って、や、そうじゃなくて」
思わずという風に身を乗り出したティラミスだったが、ベーグルサンドをかじる店主を見て、あっ、という顔をした。
「ごめんなさい、店主さん。朝ごはん、食べちゃって下さい。わたしのことは気にしないで。開店前にお邪魔するなんて。いろいろ準備もあるのに……」
「ん? あ、かまいませんよ。うちは、それほど繁盛しているわけではないので。のんびり食べて、それから準備をするつもりでした。泥だらけのお客さまを、そのままにはしておけませんし。
打ち身だけですんで、良かったですね」
店主は笑って答えた。
「あう、はい。盛大にすっころんだ割に、すりむいたぐらいで、何だか申し訳ない気分です」
ティラミスはちょっと、小さくなって答えた。
「良かったじゃないですか、それだけで。声をかけても倒れたまま動かないので、あの時は心配しました。
本当に、大丈夫なんですね? どこかまだ痛むとか、そういうところはないですか?」
全く動かなかった当初を思い出し、店主が言うと、ティラミスはなぜか、ますます小さくなった。
「だいじょうぶです……あの。あれは。動けなかったんじゃなくって。あの。動かなかった、ん、です」
うつむいて、赤くなっている。
「動かなかった?」
「はい」
「やはり、どこかを痛めて……?」
「いえあの、そうじゃない、です。あの。あの時、わたしは、」
ティラミスは顔を上げた。そうして拳を握りしめると、真っ赤な顔をして言った。
「死んだふりをしていたんですっ!」
「……」
なぜに。