恰幅は慌しく何だかごつし。3
羊の改良を始めたころ、長年、羊に携わっていた農夫や羊飼いの経験から、質の良い毛の羊を産み出せるようしてきたが、これを文字として残せないかと、当時、領に招かれた学者が言った。
そうした記録をまた、農夫や羊飼いたちに伝えることはできないか、と言った者もいた。
その中の一人、このミストレイクでは聖人扱いとなっている、修道女カタリナが、ある時、ミストレイク侯にこう訴えたのである。
記憶は、忘れられるものである。
しかし、文字は残る。
農夫や羊飼いの、経験は尊い。
しかし、その経験は、個人が死ぬと共についえる。
もちろん、彼らは、自身の子どもや孫たちに、毎日の生活の中で様々な事を伝えただろう。
それにより、その子どもたちも知恵や知識を身につけてはいただろう。けれど。
急な病や天災、盗賊の襲撃や事故で、経験を伝えるはずの年長者が亡くなることは、ごく普通にある。
その時、伝えられるはずだった知恵や知識は、永遠に失われてしまうのだ。
その前に、少しでも残すことはできないか、と。
知恵や知識を、残すことができれば、時間はかかるだろうが、必ず領は富む。
人の質が上がれば、それはすなわち、領の財産となってゆくだろう。ゆえに、
知識を伝え、経験を書き記す、そのような場所を作れはしないだろうか。
幼い子どもに文字を教える、そのような制度が作れないだろうか、と。
カタリナは、元は貴族出身の、尊敬される修道院長であったが、実家が没落した時に、都での地位を追われ、許されざる罪を犯したとされ、就任していた修道院を追放された。
貧民の子どもに読み書きを教えた咎で。
修道院に自らを寄進した子どもに、文字を教えるのは良い。彼らは神の栄光を現すために学ぶのだから。
しかし、長じれば罪を犯すだけであろう貧民の子どもに文字を教えることは、許されない。
彼らは貴族の懐を狙い、新たな悪を行うようになるだろう。また、貧民に学問をさずけることは、それ以上の身分の者に使うべき時間を奪う事であり、身分制度を覆す恐ろしい行為である。
そのように言われ、都を追われた。学識の高い彼女をねたんだ者の、陰謀であったとも言われている。
そうして都を追われた彼女を拾ったのが、辺境に位置するミストレイクの領主であったのだ。
カタリナには、信念があった。
どのような身分に生まれたとしても、その人間が、神の子どもである事に変わりはない。
教育をさずけることで、人を良い方向に導くことができるはずだ、と。
そのゆえに、彼女は積極的に貧しい者の元を訪れ、
彼らと親しく付き合い、傷ついた者、病に倒れた者を見舞い、
その子どもたちに知識を、あるいは貧しい境遇から抜け出せるような機会を与えた。
けれどもその行いは、当時としては許されざる行為とされ、その考えは、認められないものとされた。
教育は、貴族にまず与えられるもの。
平民や貧民には、造反せぬよう、知識は与えるな。それが社会の常識であったからだ。
都を追われた後も、彼女の信念はかわらず、ミストレイク領で修道女として働き始めてからも、貧しい者に目を向け続けた。
そうして、様々なことを経た後に、領民に学識をとミストレイク侯に訴えたのである。
当時のミストレイク侯ウィリアム、今では『英断侯』として知られる領主はその訴えを真摯に受け止めた。
彼はカタリナだけでなく、他の学者や修道士たちとも良く相談し、最終的に、低い身分の者にも読み書きを学ばせよ、と命じた。
その為の組織作りを始め、場所を作り、教育者を育成することを、領主の権限で実行した。
彼の行動は、他領の貴族や領主たちから、ひどくけなされた。
平民ごときに文字の読み書きを学ばせるなど。そんな事をすれば、低い身分の者たちが増長する。学ぶ時間を取られることで、働く時間が減り、怠けることばかりを考えるようになる。
ミストレイク侯は正気の沙汰ではない。彼らは文字に足で砂をひっかけ、同じように正しき貴族にも砂をひっかけるようになるだろう……など。
ひどい場合は、カタリナと彼が愛人関係にあるという噂まで流された。
今でもミストレイクには、『英断侯』の残した教育機関があり、それを揶揄してあざ笑う貴族たちはいる。
間違ったことも、失敗もあった。
しかし、彼の方針により、ミストレイクがその後、百年をかけて、豊かな領に生まれ変わったことは、事実である。
一介の農夫が都で流行りの小説などを、行商人から買い取って、読書を楽しんだり、才覚のある子どもが家の職業ではなく、別の職業に就く事がごく普通に許されたりすることは、ここ、ミストレイクぐらいの事である。
なお、修道女カタリナは、学問の守護聖女カタリナと同一視され、ミストレイクでは広く信仰されているが、彼女を描く絵画や綴れ織りには必ず、書物を持つ、ごつい熊のような男が描かれる。
『英断侯』ウィリアムは、修道女カタリナの境遇に配慮し、また領民にも慈悲をよく示す領主であったが、その繊細な気遣いとは裏腹に、強面で熊のような髭面の、ごつい男であった。
子どもも泣き出す強面でありながら、奥方に愛の詩を贈りまくった、現ミストレイク侯アランは彼に、よく似ている。
最も『英断侯』は、ロード・アランのように、はた迷惑なロマンの追求はしなかったが。
「何度見ても、奇怪な文字だ。法則性がまるでわからん」
ウィルフレッドはつぶやいた。見下ろす呪符には、明らかに文字であるとわかる模様が記されている。
ミストレイクで生まれた彼ももちろん、読み書きはできた。
他領では考えられない事である。騎士とは力でもって領主に仕える存在であり、読み書きは、僧侶を別にすれば、金勘定をする商人などの卑しい身分の者が行うことだという言い分が、どこででもまかり通っていたからだ。
読み書きができる騎士というのは、下手をすれば、馬鹿にされた。
それでも、文字を学ぶことで、ウィルフレッドは新たな視点を与えられたと今も思っている。
自分以外の者の経験を、文字を学ぶことで、知る。
それがどれだけ得難い事か。はっきりと自覚こそはないものの、彼はそれを本能の部分で知っていた。
ゆえに、騎士としての修行も怠りはしなかったが、彼は『学ぶ』ということに対して、敬意を払ってきた。
しかし。
「どこの国の文字なのか、まるで見当もつかない……」
呪符を見せれば恐慌状態に陥りかねない修道士たちを見て、ウィルフレッドもこれを見せるのは慎重になった。
文字の部分だけを写し取り、それを学識の高い修道院長に渡したのだが……、これもまた、空振りだったのだ。
異国の文字であることは確かだが、意味はまるでわからない、との事だった。
どうも、何種類かの文字を組み合わせているようだ、と修道院長は言ったが、それまでだった。まず、文字の量が少な過ぎる。また、どこの国のものであるかも見当もつかない、と。
染料も見当がつかない。文字も見当がつかない。
八方塞がりだ。
それまでの苦労を思い返し、徒労に終わった日々に遠い目になっていたウィルフレッドだったが、やがて、ふう、と息をついた。
太陽は、西の果てに姿を沈めた。空は次第に暮れなずみ、赤や金色がゆっくりと、青紫に染まってゆく。
夜が来る。
今日は収穫は何もなかった。だが。明日には何か、見つかるかもしれない。
そう思って自分をはげまし、呪符を懐にしまったウィルフレッドは、暗くなる前に、村に戻ろうと一歩、足を踏み出し、
唖然として立ち止まった。
「どこだ、ここは?」
自分が歩いていたのは、村に通じる道であったはずだ。
だが、今、彼の目の前には。夕暮れの光の中、見覚えのない建物が並ぶ通りがあった。