落ちていました。2
店主は扉に向かうと、そっと開いてみた。
外は、いつも通り。怪しげな店が、一見怪しげでないたたずまいで、しかしどことなく不穏な気配を放ちながら並び、
空は晴れているのだか、曇っているのだか、微妙な色に歪み、
たまに『ぐわ~っけけけけっ!』と、何かの鳥の声らしきものが、どこからともなく響く。
店主が育てた花やハーブの鉢植えが、自然な感じに扉の外に並んでいるが、
自然すぎて浮いている。
いつも通りの風景だった。
一体、何がと思いつつ目線を下げると、何かが落ちていた。
人だ。たぶん。
若い女性だろう。おそらく。
そこにはややタイトなスカートの、黒いスーツに身を包み、かかとの低いパンプスをはき、地味だがセンスの良いバッグを抱えた小柄な女性が、
セミロングの髪をぐしゃぐしゃに振り乱し、泥まみれになって転がっていた。
どうやら滑って転び、地面に突っ込んだ挙げ句、目を回したらしい。
どうしたものかと思いつつ、一歩、足を踏み出しかけ、店主は動きを止めた。
「なるほど」
つぶやくと、ポケットから小さな瓶を取り出した。
中には、色つきの砂が入っている。知り合いの魔女からもらった、妖精の呪文避けの砂だ。
蓋を開け、ぱっとその場にまきちらすと、
ばちんっ。
何かが壊れる音がして、残念そうな舌打ちが聞こえた。
「どこの子かな。だれかに頼まれた?」
そう尋ねると、こちらをうかがう気配があった。
「客への手出しは、やめてもらえないかな」
『そいつが勝手にひっかかったんだ』
しわがれた声がした。
『見ものだったけどな。そいつ、派手に滑って空を飛んだぞ』
飛んだのか、と店主は思った。
『そのあと、盛大に落っこちてたけどな』
重力の法則は、今朝も普通に働いているようだ、と店主は思った。
『あんたを転ばすつもりだったのに』
「ああ……それで、派手に扉をがたつかせていたんですか」
何だろうと扉を開けて、足を踏み出したら、つるり、となるはずだったらしい。そうなる前に、この客がひっかかってしまったのだが。
「私、何かしましたかね?」
自分は何か、妖精たちを怒らせるようなことをしたのだろうか。そう思っての問いかけだったが、それには『うんにゃ』という返事が返ってきた。
『あんたが転べば面白いだろうと思った。それだけだ』
「ははあ。ミルク、いらないんですかね?」
『……』
声は押し黙った。
何か慌てたような気配があり、ごそごそ、ひそひそ、相談している。一人ではなく複数だったらしい。
『ミルク、くれるのか?』
やがて、甲高い声がした。
「今夜、置いておきますよ。裏口に」
『どれぐらい、くれるのか?』
「カップに一杯」
再びごそごそ、と話し合う気配。しわがれた声と甲高い声が、何やら話し合ったあと、
『何をしてほしいんだ?』
『そうだ。何をしてほしいんだ?』
と、尋ねてきた。
「うちに来るお客さまが、気持ちよく店に入れるよう、出てゆく時にも安心して行けるよう、いたずらはしないでくれるかな」
そう言うと、またもや、ごそごそ、と相談する気配。
やがて、相談はまとまったようだった。
『わかった』
『わかった』
『わしら、いたずらしない』
『玄関守る。客も守る。店主も守る』
『だから、ミルクよこせ』
『ミルク。今夜、用意しとけ』
そう言いおくと、ばさばさ、と何かが羽ばたく音がした。一斉に、そこにいたらしい何かがいなくなる。
何の妖精かわからないが、立ち去ったらしい。
「私の事までは考えていなかったのだけど……ラッキー?」
ミルクは忘れず裏口に置かないとな、と思いつつ、店主は倒れたきり、ぴくりともしない客に、改めて目を向けた。
うつ伏せで大の字になり、ばったり倒れたまま動かない。
妖精の話だと、かなり盛大に転んだようだ。頭を打ったりしていないだろうかと、店主は心配になった。
ステップを降りて、倒れている女性客の前に膝をつき、
「お客さま?」
と声をかけた。
返事はない。
店に運んだ方が良いか、しかしあまり振動を与えるのも、と考えていると、
ぐうううう~う。
という、音がした。
「……」
「……」
無言の店主。
無言の倒れたままの客。
しかし客の耳は、真っ赤になっている。
咳払いをしてから店主は、もう一度声をかけた。
「あの~……お客さま?」
「……」
客は動かない。
「うちは、まだ開店していないんですが……」
「……」
「たまたま、朝食を作ろうと思ってまして」
「……」
「紅茶をいれて、蒸らしてまして」
「……」
「昨日の残りのベーグルで、サンドイッチを作ろうとしていた所だったんですよ」
「……!!!」
ぐぐぐ~ううう。きゅるきゅる。
聞き間違えようのない、腹の虫の音。
「せっかくですから、お出ししようかなとか思っ……」
「ありがとうございますっ今すぐ入ります入れて下さいってか食べさせてくださいいいいい~~~っっっ!!!」
がばっ! と顔を上げるとその女性客は起き上がり、店主の腕をつかんで叫んだ。
鬼気迫る様子だった。