そして、当たり前の日々。2
☆★☆
「無事に行ったようじゃのう」
おばばが言った。
「もう、迷わないでしょう」
店主は後片付けをしながら、そう言った。
「元の世界に戻ったら、驚くぞ。時間が過ぎておらんのじゃからなあ」
「そうでしょうね」
店主は手を止めると、微笑んだ。
『迷い人』の上には、時が流れない。それはこの小路の、暗黙の了解のようなものだった。
訪れた客は、その客の住む世界から、一時的に切り離されたような状態になる。そうして、この小路に迷い込むのだ。
小路を無事に出る条件は、ここで誰かの客になり、何かを売り買いする契約を結ぶこと。
一度契約を結べば、それを完遂するまでは、その人物は契約主の預かりになる。そうなれば、小路に住む他の住民、他の勢力からは、いかなる力も及ぼせない。善意のものであれ、悪意のものであれ。
迷い込んだ客がどの店に入るかで、その人物のその後が決定されると言っても過言ではなかった。
ティラミスは、運が良かった。
この通りには、呪詛を扱う者もいれば、訪れた客自身を呪いの素材にしてしまう悪辣な者もいる。それらを避けて、ティラミスが入ったのは、この通りで唯一、魔法を扱わない茶屋だった。
そうして『朝食を取る』という『契約を結び』、『商品を受け取り』、『対価を支払った』のだ。
契約が成れば、小路は速やかに、客をもといた世界に戻す。世界に切り離されていた存在が、元の世界に戻るのだ。
それらの関係から、客にとってその間、時間は流れなかった事になる。
また、世界から世界へと移動する反動で、記憶に混乱が生じる事もあるらしい。
ティラミスがこの茶屋で、通勤途中だったにも関わらず、のんびりと過ごしていたのは、その辺りにも原因があった。契約を結ぶ途中であったのと、世界を移動した影響から、日常の生活への感覚が鈍くなり、時間を気にする事すら忘れてしまったのだ。
契約が成った瞬間に、その辺りが戻ったので、あの騒ぎになったのであるが。
「もともと、生きる力のある人です。ここに迷い込んだのは、何かの間違いだったのでしょう」
店主はそう言うと、テーブルを拭いた。
「また会えると良いがのう」
「どうでしょうか。すぐに忘れるのでは?」
「いやあ……、わしの駄菓子は結構お茶目じゃろ? あれで、ここでのことを忘れてしまっても、思い出してくれるのではと思っておるんじゃが」
「だから渡したのですか?」
呆れたような眼差しを注ぐと、おばばは肩をすくめた。
「絶対に忘れない、と言った者でも、界を移動すれば、忘れ果てるのが常じゃからな。まあ、ここでの出来事など、覚えておらぬ方が幸せな場合も多いが。
とは言え、長くここで暮らしておると、たまには運命とやらに抗いたくもなる」
その言葉はさらりと言われているようでいて、どこかに苦く、痛みのようなものを秘めていた。ごくごくわずかで、注意しなければ気づかないような小さなものではあったが。
おばばが自分よりも長くこの小路にいる事を、店主は知っていた。
彼女が出会った客たちと、どのような会話をしたのか、店主は知らない。彼らとどのような関わり方をしてきたのかも。
小路の住人同士でも、相手の過去は詮索しないのが、ここの礼儀だからだ。
それでも、こんな風にぽつりと漏らされる一言から、何かあったのだろうと推測する事はできた。きっとおばばは、いつか、誰かと、何かの約束をしたのだろう。また訪れるとその誰かは約束をして、
その約束が、果たされる事はなかったのだ。
ここでは、良くある事だった。
店主は軽く目を伏せた。そうして詮索することはせず、ただこう言うに留めた。
「だからと言って、カムカムパワーはないでしょう」
「何ぞ、わけのわからん力がある気がするじゃろう」
にやりとしてから、おばばは店主の方を向いた。真剣な顔になる。
「それで、紅どの。ものは相談じゃが」
「はい」
おばばの真剣な様子に、店主も真面目な顔になり、姿勢を正した。おばばは言った。
「お肌の手入れ法とやらを、詳しく話してくれんかの?」
ぐわけけけ~。
どこかで、怪しげな鳥の声がした。
☆★☆
その日、ティラミスは一日忙しかった。それでも何とか仕事をこなし、昼には同僚とランチに出かけた。店主にもらったクッキーやジャーキーの事は、すっかりと忘れ果てていた。
夜。家に帰ってからようやく、それらを食べていない事に気づいた。
「あー。食べてなかった……悪くなってないかな? 大丈夫かな?」
するめジャーキーは大丈夫そうだった。店主のくれたクッキーの方は、手作りっぽかったし、保存料なんて入っていないだろう。置いておくと悪くなる。
ごそごそと袋を取り出し、中身を見る。ショートブレッドとジンジャークッキーは、扱いが良くなかった為か、割れて砕けてしまっていた。
「やだ、粉々……あれ?」
クッキー以外にも、何か入っている。取り出してみるとそれは、ティーバッグだった。空気が入らないようぴっちりとしまる小袋に、一つ入っている。
「紅さんのサービスかな」
ティーバッグを自分のマグカップに入れて、電気ポットから湯を注いだ。ちゃぷちゃぷ、と揺らしてから、色がついた辺りで引き上げる。
「美味しくない……」
あの店で飲んだ紅茶とは、まるで違う味がした。
たぶん、この紅茶は、良い葉っぱを使っている。だって、紅さんが選んだのだもの。
でも、美味しくない。
どうしてこんなに違うのだろう。
「お茶の淹れ方も、教えてもらえば良かった……」
何となくがっくりきて、ティラミスは紅茶をすすった。それから、自分の手を見る。
「指先をマッサージ、だっけ?」
ハンドクリームあったかな。とつぶやいて、ティラミスは自分の指をそっと撫でた。
「絶対、また、あのお店に行こう……」
見つかるかな。会えるかな。
そんなわくわくするような、不思議な気分を味わいながら。
☆★☆
『ただの茶屋』では、やって来る客の波が一段落し、店内が静かになった。
もう、夜は遅い。
店主は閉店の札を店の前に出すと、店内の掃除を始めた。今日はなぜか客の入りが良く、その分、対応に気を使った。
掃除を終えると店主は、明日の準備をした。それが終わってから、ミルクを入れた小さなカップを裏口に置いた。
「約束通り、ミルクです。みなさんも、お疲れさま」
そう暗がりに声をかけると、ぱたり、と扉を閉める。やがて、店の灯が消えた。
『ミルク』
『ミルクだ』
『約束、守った』
ささやく声がした。
『うれしい』
『うれしいな』
『ミルク』
『美味しいミルク』
『わしら、守る』
『ちゃんと守る』
『約束、守ったから』
『わしらも、約束、守る』
『ここに来る客は』
『みんな、わしらが、守るよ』
歌うようなささやきは、静かに広がり、消えた。カップの中のミルクもまた。
小路は、静寂に包まれた。
閉じられた裏口の扉の前には、空っぽになったカップが一つ。店は静まり返り、小路もまた静かだ。
そうして、『ただの茶屋』の一日も終わる。