そして、当たり前の日々。1
扉を開けて外へ出たティラミスは、ステップを降りると、周囲を見回した。
「明るい方……」
通りは、もやがかかったように薄暗い。何もかも、輪郭がぼんやりとして見える。そのことにティラミスは、初めて気づいた。
明るい方はどちらだろうかと見回すと、一つの方向が、うっすらと明るく見えた。たぶんそっちだろうと思い、店主に言われた通り、まっすぐ歩き出す。
しばらくしてから、店の方を振り返る。
「あれ?」
そこには、見慣れた建物の並ぶ通り。いつもの通勤路にティラミスは立っていた。
ぶろろろろ、と音を立て、車が横を通り過ぎてゆく。
「あたし……ここを曲がった、よね?」
確か、ここの角を間違えて……、と思ってきょろきょろと周囲を見回す。けれど、そこには角などなく。真っ直ぐな道がただ、続いているだけだった。
「あ……あれ? あれ? あれえええ?」
なんで? と思って混乱していると、ケータイが軽やかなメロディを奏でた。慌てて鞄を探る。今度は難なく、見つけることができた。
「はい?」
『あ、つながった! さっきから何度もかけてたのに、返事がないから、どうしたのかと思ったわよ~!』
ケータイからは、同僚の声がした。
「え、あ、みゆたん? 何度もかけてくれてたの?」
『うん~、話したいことがあって……今、どこにいるの?』
「え、会社に行く途中の道……ああ、心配かけちゃったのね。すっごく遅刻したものね? ごめんね~」
そう言うと、怪訝そうな声がした。
『あら~? 遅刻? 何言ってるの。まだ余裕あるわよ?』
「えっ?」
何を言っているのだ。と、ティラミスは思った。自分があの店で、店主とおしゃべりをしていたのは、どう考えても三十分以上だった。下手をすると一時間はかかっている。
「あの、いま、……何時?」
おそるおそる尋ねると、『八時半ちょっと過ぎ』という返事があった。
業務は九時からだ。確かに、まだ余裕がある。と言うか。
(あたし、……道に迷ったの、それぐらいの時刻じゃなかった?)
いつも通りに電車を降りて、いつも通りに歩いていた。その途中で迷った。
それから転んで、手当てをしてもらって、朝食を食べて……、
(どういうこと?)
なのに、その間。時間が全く流れていなかった……?
混乱するティラミスだったが、同僚はまだ話を続けていた。
『今朝は、ティラミスが掃除当番だったでしょ? いつもならもう来てるのに、いないから。何かあったのかなあって、電話してもつながらないし』
ティラミスの会社では、経費削減やら社員の向上心を育てる何とかやらで、毎朝、部屋の掃除を社員が交代で行っている。お茶汲みも同様だ。
ティラミスのいる部署をまとめる室長が率先してやっているので、男性社員もさぼれない。
男社会で育ってきた人物でもあるので、たまに会話が通じなくて、頭に来る事もあるが。
「あ、あ……、そ、そうだった。あの、ごめんね。転んじゃったの、途中で」
呆然としながらそう言うと、『え~?』と心配そうな声がした。
『転んだって、大丈夫? どこか打った?』
「あ、あの、大丈夫……親切な人がいて。手当てしてくれたの。だから」
店主のことを思い出して言う。そこで、妙な事に気がついた。
(あれ? 紅さんって……どんな顔してたっけ)
思い出せない。どうして?
『あらあらまあ。そうなの? 良かったねえ……ああ、でもそれなら、ゆっくり歩いた方が良いわよ。わかった。掃除は、あたしがしておくねえ』
同僚の声がする。
「あ、ありがと、みゆたん」
『あたしの当番の時には、代わってよ~』
「うん、もちろん」
受け答えをしながら、ティラミスは狐につままれたような気分だった。いったい、これはどういう事なのだろう。
それからもう少し話をして、通話を終えた。ケータイを鞄に入れる。その時、紙袋に手が触れた。かさり、という小さな音。
そこにはショートブレッドとジンジャークッキーの袋……と、カムカムパワーの駄菓子。
「現実よね」
じっと見つめてつぶやく。
あの人たちは、ちゃんと存在していた。それだけは、確かだ。だって。
「あたし、カムカムパワーなんて買わないし……」
あの朝ごはんも、本当に美味しかったのだ。
しばらく考えていたが、やがてティラミスはため息をつき、考えるのをやめた。一日が始まるのだ。仕事に向かわねばならない。
「行こう」
今日も、仕事をして。きっと、落ち込んだり、泣きそうになったりもするだろう。
でも、そんな時にはこのクッキーを食べよう。カムカムパワーも食べさせてもらおう。
そうして、乗り切ろう。それから。
「また絶対、あのお店に行かなくちゃ!」
うん、とうなずくと、ティラミスは歩き出した。




