美女とラップと、美味しいごはん。1
しばらくそうしていると、「邪魔するよ」という声がした。そちらに目をやると、若い女性が戸口に立っていた。
「おや。店主は留守かね」
(おお、ボン、キュッ、ボン!)
思わずティラミスは心の中でそう言ってしまった。そこにいたのは、二十代ぐらいのスタイルの良い女性。髪はきりっとしたショートで、耳の下辺りで切り揃えられている。化粧は派手すぎず、それでいて女らしさを演出しており、クリーム色のスーツがぴしりと決まっていて目にまぶしい。
「あ、いえ、紅さんなら奥に……」
「この時間帯には珍しい。おまえさん、あれの客かえ?」
ティラミスの返事を無視するかのように、女性はヒールの音を響かせてつかつかと歩み寄って来ると、しげしげという風にこちらを見た。
「外の匂いがしよるのう」
「は? ニオイ?」
転んだ時の泥が、ついたままだったのだろうか、とティラミスは思った。にしても、この女性、
「ふうむ。珍しいが……まあ、ないわけではないわな。で、何をしておるのかの?」
言葉づかいが。古風と言うか。ちょっと変わってないだろうか?
「えと、あの、……転んじゃって、泥だらけになったんです。で、紅さんが、あの。手当てとかしてくれて、その」
「ほー」
「なななんだか、わたしにも良くわからないんですけどっ。あの。こうやったら逆むけに良いらしくって」
「ほほう」
あわあわしながら説明すると、女性は面白そうな顔になった。
「して、おまえさん、ここでは何を求めたのかの?」
「求めた?」
「なんぞ、対価を支払って、受け取ったのではないのか?」
「た、対価? えと……、代金? あの、まだ払ってません。そういえば、あのベーグルサンド、いくらするんだろ?」
厚かましくも開店前の店に上がり込み、朝御飯をいただいてしまった事を思い出して、ティラミスは慌てた。そうだ。お金を払わないと!
「あれは売り物ではありませんから、代金はいただけませんよ」
そこで、店主の声がした。厨房から戻ってきた店主が、女性に会釈する。知り合いのようだ。
「対価なしで?」
女性は、顔をしかめた。店主は苦笑らしきものを顔に浮かべた。
「いただいていません。これはお詫びですから」
「詫び? なんぞあったのか」
「小さな人びとが悪戯をしまして。こちらに迷惑をかけてしまいました」
それで意味がわかったらしい。ショートカットの女性は「ああ、」と言ってうなずいた。
「あれらも、悪いものではないんじゃがなあ。たまに遊び感覚でやらかしおる。呪いは、役に立たんじゃったか?」
「その前に、こちらが転ばされてしまって」
「それでか。しかし……」
女性は、ちら、とティラミスを見やると首をかしげた。
「外の者じゃろ」
「ええ。迷って来られて」
「そりゃ、」
うーむとうなり、女性は首を振った。
「なるほど。運の良いことじゃ」
「え、えーっと?」
ティラミスには、二人の会話がわからない。ひたすら頭の周囲にクエスチョンマークを飛び回らせている。女性は、ティラミスの方を向いた。
「迷って来たのじゃろ、娘さん。紅どのは、面倒見が良い御仁じゃでな。転んだのは、おまえさんの運の強さがあったからじゃ。
ここで転ばなけりゃ、おまえさん、道を見失うておったぞ」
そう言われ、目をぱちぱちとする。
「えっと、……はい。紅さんには本当、良くしていただいて……えっと。ラッキーだったと思ってます」
「うむ」
「あのあの、ええっと……ところで、あなたは」
「わしのことは、おばばと呼べ」
ショートカットの美女に言われ、ティラミスは「はい?」と首をかしげた。こんなに若いのに、なぜ『おばば』?
「ニックネームのようなものです」
店主に言われ、「はあ」と相槌を打つ。でも良くわからない。
「えと……変わったあだ名、ですね?」
「おう。この名は通りも良いし、名乗りやすくもあるでな。遠慮なく呼んでよいぞ。
して、娘。おまえさん、ここで何を求める? まだ聞いておらなんだが」
「は」
いきなり変わった話題に、目をぱちぱちとする。困惑しているティラミスに、店主が近寄り、乗せていたタオルを取り除いた。
「『迷い客』ですよ、おばばさま。酷なことを尋ねたりなさいますな」
店主が静かに言う。おばばと呼ばれた女性は肩をすくめた。
「紅どのも知っていよう。この場所は、理由もなく人を迷わせるわけではない。ここに来る者にはおしなべて、その者にとっての個人的な理由があり、その理由によって引っかかるのじゃ。
それがここに来る大原則であり、重んじねばならぬ法則でもある」
「知っていますが。この方の場合は、……ラップを外しますよ、ティラミスさん」
そう言うと、店主はラップフィルムを外し始めた。ティラミスは、自分の指を見た。油がまだ残っていて、しっとりしている。
「これ、逆むけの治療なんですか?」
「民間療法を多少、いじっただけのものです。医療行為ではありません。ですが、指先は楽になります」
店主はティラミスの手から、ラップフィルムをすべて外した。
「どうしてラップを?」
「傷口は、湿らせておいた方が早く治るんですよ」
「え? そうなんですか? 乾かした方が良いってわたし、聞いてたけど……」
「『湿潤療法』というのが、最近、知られ出したと思いますが。傷ができると、膿が出るでしょう。あれは、傷ついた部分を保護しようと、体が出しているんです。
傷口を乾かしてしまうと、逆に治りが遅くなり、跡も残りやすいんですよ。
適度に湿らせておいた方が、回復は早くなります。火傷にアロエを使う事もあるでしょう?」
「あろえ?」
「知らないかな……、『医者いらず』と呼ばれた薬草ですが」
「あそこにあるぞい」
おばばが、店の隅にあるプランターを指さした。そこにはとげとげのある葉っぱばかりの、見栄えのあまりよろしくない植物が、でん、と鎮座ましましていた。
「サボテンかと思ってた……」
「似てはいますね。あの植物は、葉の内側に、ゼリー状の繊維を持っていて。そこに水分を溜めているんです。
そのゼリーの部分を当てておくと、適度に湿りけがあって、患部を冷やすので。ちょっとした傷や火傷には、あの植物を使うのが、昔から良く行われてきました」
「へえ……」
そうなんだー、とつぶやいていると、おばばと名乗った女性が、のんきじゃのう、と言った。
「紅どの。おまえさん、この娘さんに傷の手当ての講釈を垂れて、終わりにするつもりではあるまいの?」
「いえ、まあ……この方との会話は楽しかったもので」
「それは構わんが。客なら客として扱わねば、この娘さんにとっても良くないぞえ。店に入り、対価も払わず出たとあれば、何が、どのように反応するかわからん。
下手をすればこの娘さん、二度と戻れんぞ」
最後の言葉は低く、ティラミスの耳には届かなかった。けれど、おばばの表情から、何かあると思った彼女は、店主とおばばを見比べた。
「のう、娘さん。おまえさん、ここへは何をしに来たのかえ? 何ぞ、欲しいものでもあったか」
おばばの言葉に、ティラミスは首をかしげる。
「欲しいもの?」
「ここに迷い込んだ時、なにを考えておったか、じゃが」
「道を間違えたかなって、焦ってただけですけど……」
「これが欲しい、というものはなかったのか? まあ、世の中には、人にはそうおいそれとは言えない望みというものも、あるがなあ」
おばばの言い方は軽いものだったが、どこか皮肉めいた響きもあった。『人にはそうおいそれとは言えない望み』に、何か嫌な思い出でもあるらしい。
ティラミスも、さすがに気付いた。最も、何かちくりと言われたな、ぐらいで、明確なものは感じ取れなかったのだが。
「え、なんですか、それ。そんなのない……あ」
眉をひそめてそう言いかけ、そこではた、と思い当たり、ティラミスは言葉を止めた。
「なんじゃ。欲しいものがあったのか」
「あー。えー」
ティラミスは赤くなっていた。なぜか、視線をうろうろとさまよわせる。
「あったんじゃな。何じゃ? 言うてみ?」
その様子に、何かあると確信したらしい。おばばが問うた。おそらく、それがここへ迷い込む鍵になったんじゃろな、と小さくつぶやく。
それは、挙動不審な様子を見せるティラミスの耳には入らなかった。店主の耳には入ったが。
「その、ええっと」
「何だったんです?」
店主がうながす。ティラミスは、赤い顔でうつむいた。
「いや、欲しいと言うか……、……でした」
ぼそりと言う。
「え?」
「なに?」
「だから、」
顔を上げる。
「空腹だったんです。すっごく、お腹がすいてたんですよ~~!」