石と銀貨の掟
石造りの居室を吹き抜けていく風は、いつも骨の髄を撫でるように冷え切っていた。分厚い花崗岩の壁が幾星霜にもわたって吸い込んできた湿気は一滴たりとも温かみを含んでおらず、皮膚に触れるたびに、薄氷を素肌へ直接押し当てられたかのような粟立ちを覚える。見上げるほど高いアーチ窓の向こうには、陽光を一切拒む重苦しい鉛色の雲がどこまでも垂れ込め、中庭の芝生に植えられた木々を鈍い湿火のように濡らしていた。呼吸をするたびに、肺の奥がかすかに軋む。埃と木、古い羊皮紙、それに薪ストーブから漏れ出る不完全燃焼の煙が混ざり合った特有の匂いが、澱んだ空気となって部屋の四隅に溜まっている。それが、ここオーヴェルニュの冬の日常だった。
エレオノール・ド・ロシュフォールは、背筋を僅かな歪みもなくまっすぐ伸ばし、机上の帳簿に迷うことなくペンを走らせていた。羊皮紙の上を削る鵞鳥の羽先の音だけが、カリ、カリと規則正しく室内に響いている。机の上に広げられているのは、聖女たちの殉教を甘美に寿ぐ豪奢な時祷書ではない。領内三つの農村から上がってきた、秋の地代明細だった。大麦の収穫量、製粉水車から徴収する歩合、領主直轄地での賦役日数、そして教会へ差し出す十分の一税の控除額。墨の滲み一つ、数字の書き損じ一つすら許されない、無機質で乾いた記号の羅列である。分厚い雲の向こうから昼の光が染み出しているうちにこれらを片付ける必要がある。
エレオノールは今年で十五になる。名門ロシュフォール伯爵家の長女として生まれた彼女は、二年前、十二の年にここクレルモン子爵家の居城へと預けられた。婚約者である子爵家の嫡男、アルベールとの婚姻に向けた「花嫁修業」のためである。この世界において、貴族の女子に求められる真の教育とは、優雅な刺繍の針運びでも、宮廷風のリュートの爪弾きでもない。領主たる夫が王の召集令状に応じて遠征へ赴けば、城内の兵站を保ち、食糧庫の鍵を握り、小作農たちの泥臭い訴訟を裁き、果ては籠城戦の指揮に至るまで、すべてを「城の女主人」が一人で背負わねばならないのだ。家とは軍事組織であり、婚姻とは血統と領地を担保にした不可侵の契約に他ならない。
クレルモン子爵夫人――アルベールの母であるアニエスは、怜悧にして情を排した厳格な実務家だった。彼女は朝の祈祷が終わるや否やエレオノールには地下貯蔵庫に降りて塩漬け肉の樽の腐臭を嗅ぎ分ける点検を課し、午後には領地会計の監査を命じた。帳簿の数字の不整合を見抜き、怠惰な使用人を氷のように冷徹な舌鋒で叩き伏せる術を、エレオノールはこの二年で徹底的に骨の髄まで叩き込まれていた。
「……麦角病の被害が出た南の村、納入猶予を三割と見積もっていますが、二割五分に抑えられますね。種籾を領主館の備蓄から貸し付け、来期の賦役を二日追加させれば辻褄が合います」
エレオノールが抑揚のない声で呟くと、背後の薄暗がりに影のように控えていた大柄な従僕、ギヨームが低く喉を鳴らした。
「御意。村長に申し渡しておきましょう。あ奴らは少しでも隙を見せれば、痩せた土地の言い訳を並べて年貢をごまかします」
ギヨームは、エレオノールが実家のロシュフォール家から連れてきた護衛兼身辺警護の従僕だった。四十を越えたばかりの無口な男で、かつてロシュフォール伯爵の従騎士として泥塗れの小競り合いを幾度も生き延びてきた古強者である。その腰には、常に使い込まれ、研ぎ澄まされた無骨な短剣が吊るされていた。貴族の姫君の居室に抜き身同然の得物を帯びた従僕を置くのは異例であったが、エレオノールは頑として彼を手元から離さなかった。この冷たい石の城において、己の血族から与えられた唯一の「手足」だったからだ。
「情けをかける必要はありません。飢えぬ程度に生かし、働かせる。それが領主の義務であり、農民の幸福です。余計な感傷は、冬を越すための薪を減らすだけです」
エレオノールは淡々とインク壺にペン先を浸した。丸みを帯びた真鍮の冷たい輝きが、彼女の無表情な青い瞳に反射する。この世界において、命の価値は神の前においてすら平等ではない。祈る者、戦う者、働く者。三つの階級に厳格に分かたれた秩序の中で、平民の命の重さなど、帳簿に記される銀貨の数枚、あるいは麦の俵数と同等に過ぎない。エレオノールはその事実を憎むことも、憐れむこともなく、ただ呼吸をするように当たり前の摂理として受け入れていた。
不意に、重いオーク材の扉の向こうから、床を激しく蹴立てる足音が響いてきた。湿った泥を跳ね上げる拍車の金属音と、喉の奥を鳴らすような傲慢な笑い声。それに、不慣れな柔らかい足音が一つ、もつれるように混じっている。エレオノールは羽ペンを置き、背にしていた扉に向かい立ち上がる。机の向かう主人の背を見守っていたギヨームはスッと音もなくその後ろに下がった。
乱暴に押し開けられた扉の先から入ってきたのは、狩猟用の豪奢な緑のチュニックをまとい、革の脛当てを着けた青年――エレオノールの婚約者、アルベール・ド・クレルモンだった。今年で十七になるアルベールは、騎士見習いとしての修行を終えつつあり、その身体つきは若木のようにしなやかだったが、その双眸には特権階級特有の浅はかな残酷さと、退屈を持て余した若者特有の浮ついた色が濁っていた。だが、エレオノールの目を引いたのは、彼の腕にすがりつくようにして連れられてきた人物だった。
粗末な未染色の麻布のワンピースにウールのチュニックを重ねた、年の頃なら十四、五の少女。亜麻色の髪を無造作に三つ編みにし、頬には森の泥の染みがこびりついている。身なりはどう見ても領民の娘、それも森林地帯の炭焼きか木樵の小娘だった。場違いな豪奢な部屋に連れてこられたというのに、その平民の娘の瞳には怯えよりもむしろ、信じがたいほどの得意げな光が揺らめいていた。彼女の垢切れまみれの手は、アルベールの革の手袋をはめた腕に、あたかも植物の蔦のように絡みついている。部屋に入った瞬間、森の湿った土の臭い、獣の脂、そして青臭い汗の匂いが、冷たい室内に流れ込んできた。
「やあ、エレオノール。今日も陰気な部屋で、羊の皮の数字とにらめっこかい? いかにも君らしい、真面目で退屈な時間の使い方だね」
アルベールは入ってくるなり、泥のついた長靴のまま王への献上品にも用いられたことがあるこの地方特有の分厚い敷物を踏みにじった。猟犬のように荒い息を吐きながら、嘲笑を浮かべてエレオノールを見下ろす。エレオノールは完璧な角度で膝を折った。絹の衣擦れの音すら立てない、規範通りの礼である。
「お帰りなさいませ、アルベール様。今日の狩猟は実り多きものであったご様子、何よりに存じます」
「ああ、大猟だったとも! 仕留めた牝鹿の肉は厨房に運ばせたが……それ以上の、とびきりの『獲物』を森の奥で見つけてね」
アルベールは下卑た笑みを口元に吊り上げ、腕にすがっていた平民の娘の腰を引き寄せた。娘は小さく嬌声を上げ、アルベールの胸板に擦り寄る。その乱れた衣服の襟元、露わになった鎖骨、そして娘の首筋に残る赤紫の鬱血の痕。エレオノールがそれを理解できないとでも侮っているのか、アルベールはこれ見よがしに娘の腰を引き寄せ、指先でその顎をしゃくった。
「森の茂みで迷っていたところを、私が直々に『保護』してやったのさ。野生の木の実というのは、城の温室で育った葡萄よりもずっと果汁が多くて、野趣に富んでいて舌が痺れるほど美味い。……獲物を追い詰め、組み敷く感触というのは、狩人だけに許された最高の道楽だよ。君には分かるまいがね」
品性の欠片もない、露骨な言葉だった。狩場で領民の娘を手込めにし、あまつさえそれを誇らしげに婚約者の面前で語って聞かせているのだ。
平民の娘は、恥じらうどころか、エレオノールを侮るように見つめ返していた。娘の浅薄な頭の中には、甘美な妄想が渦巻いているのが手にとるように分かった。貴族の若君に見初められ、抱かれ、城へ連れてこられた。このまま寵愛を受ければ、温かい部屋と絹の服が与えられ、泥水すすって死ぬだけの農村の暮らしから抜け出せる――。現にこの国においても領主の愛妾となって贅沢に溺れる平民出身の女の噂が、吟遊詩人の歌となって村々にまで流布していた。
「アルベール様は、とてもお優しくて逞しいお方ですわ」
娘は、付け焼き刃の甘ったるい声で言った。
「わたくしのような卑しい身の上の者を、こうして城へ連れてきてくださって……これからもずっと、お側でお仕えしてよいと仰ってくださいましたの。ねえ、旦那様?」
「ああ、そうだとも、マリー」
アルベールは娘の腰を抱き直し、エレオノールに向かって尊大に胸を張った。
「エレオノール、君もいずれこの城の女主人になるのだから、寛大な心を持つことを学ばねばならん。男が外で少しばかり羽を伸ばすのは、騎士の嗜みというものだ。母上のような口うるさい女にはなりたくないだろう?この娘は私の部屋の近くに住まわせ、身の回りの世話をさせることにする。婚礼の後もだ。君も、私の良き妻として、このマリーを妹のように可愛がってやってくれ」
男の不貞は日常茶飯事、愛人を抱えるのも貴族の特権。アルベールはそう信じて疑っていなかった。目の前の淑やかな、感情を表に出さない婚約者が、侮辱に唇を噛み締めながらも「殿方とはそういうものです」と涙を呑んで受け入れる姿を期待していた。それが彼にとっての「勝利」であり、母や厳格な婚約者に対する幼稚な優越感の発露だった。
エレオノールは、微動だにしなかった。その陶器のような白い肌には、怒りの朱も、悲哀の曇りも浮かばない。彼女はただ、静かに、氷の底を覗き込むような澄んだ青い瞳で、眼前で寄り添う二人を見つめていた。部屋の中を支配する冷気が、ふと、さらに一段階張り詰める。
エレオノールにとって、目の前の光景は「嫉妬」や「屈辱」といった感情の領域にはなかった。あるのは純粋な「契約上の瑕疵」と「衛生上の汚染」に対する冷徹な判断だけだった。婚姻とは同盟である。ロシュフォール家とクレルモン家が結ぶべき血の絆の前に、どこの馬の骨とも知れぬ農奴の血が入り込む隙間など、一寸たりとも存在してはならない。万が一にも、婚礼の前に平民の腹に私生児が宿りでもすれば、相続権の争い、教会の介入、果ては持参金の返還請求にまで発展しかねない。秩序を乱す雑音は、芽のうちに摘まねばならない。
エレオノールは、ほんのわずかに、唇の両端を引いた。そして――すっと、その視線をアルベールから外し、斜め後ろ、影の中に佇むギヨームへと滑らせた。
合図は、それだけだった。
言葉すら発されなかった。ただ、主人の冷徹な瞳が、そこにいる従僕の網膜を打った。次の瞬間、空気が爆ぜた。
ギヨームの巨体が、信じがたい俊敏さで前へと踏み出された。乾いた革の擦れる音が一つ。アルベールが「え?」と間抜けな声を漏らすよりも早く、分厚い影が二人の間に割り込んだ。
ギヨームの左手が、万力のような力で娘の後頭部を鷲掴みにした。娘の顔が強制的に天井へと跳ね上げられ、その無防備になった白く細い喉笛が露わになる。
閃光が走った。
ギヨームの右手に握られていたのは、飾り気のない、実用一点張りの分厚い短剣だった。
肉を断ち、軟骨を削ぎ、気管と頸動脈を一文字に両断する、鈍く湿った音が部屋に響いた。焼けた鉄を水に突っ込んだような生々しい音と共に、鮮血が噴水のように吹き上がった。
娘の口から漏れたのは、悲鳴ですらなかった。 「カ……ッ、ガ……」 肺から逆流した血が喉を塞ぎ、泡立つ空気の漏れる音だけが響く。娘の瞳は、何が起きたのか理解できないまま見開かれ、その光は急速に濁っていった。ギヨームは感情の欠片も見せず出血が落ち着き始め、脱力した肉体から手を離した。
重い水袋のような娘の身体を絨毯は音もなく受け止めた。純白と濃紺で織り込まれた高価な敷物が、瞬く間に赤黒い血を吸い上げ、じくじくと広がっていく。僅かな痙攣が二度、三度と続き、やがて完全に止まった。肉の裂け目から立ち上る、鉄と生暖かい内臓の混ざり合った臭気が、居室の冷気を暴力的に塗り替える。
「…………あ」
アルベールの喉から、情けない空気の抜ける音が漏れた。彼の頬には、勢いよく飛散した娘の血がべったりと張り付いていた。チュニックの胸元にも、無数の赤い斑点が散っている。彼は狩りを知っていた。鹿を槍で突き、猪を犬に噛ませて弱らせ、止めを刺す光景は幾度となく見ていた。
だが、人間だ。
つい数秒前まで自分の腕にすがりつき、甘い声を出し、肌を重ねていた人間の娘が、言葉一つ、悲鳴一つ上げる間もなく、まるで屠殺場の豚のように首を切り裂かれ、足元で肉塊に変わったのだ。
「あ、ああ……っ、あ……ッ!?」
アルベールの膝が、ガクガクと音を立てて震え始めた。腰が抜け、後ずさろうとした足が自分自身の拍車に引っかかる。
「ひっ……! う、うわああっ!?」
無様な叫び声を上げながら、アルベールは床に尻餅をついた。手をついた場所は、ちょうど広がってきた血溜まりの縁だった。手のひらにまとわりつく、ぬめるような生ぬるい感触。彼は顔面を蒼白にし、顎をガチガチと鳴らしながら、這うようにして後退した。壁に背中を打ち付け、瞳孔を開ききった目で、足元の死体と、血塗れの短剣を提げたギヨームを交互に見つめている。失禁寸前の恐怖が、その整った顔を醜く歪めていた。
そんな地獄のような惨状の真ん中で。エレオノールは、眉一つ動かしていなかった。
彼女はゆっくりと、絨毯の上の血溜まりを避けて、数歩前へと進み出た。その足取りは、教会の祭壇へ進むときのように優雅で、静謐だった。エレオノールは、血刀を下げたまま直立しているギヨームを見上げ、場違いなほど穏やかな声で口を開いた。
「――これはいけませんね、ギヨーム」
その口調は、まるで幼子が陶器を割ったのを咎めるかのように、平穏極まりないものだった。
「淑女の居室を血で汚すなど、礼を失しています。ましてや、アルベール様がわざわざ森から連れてこられた客人を、断りもなく損なうなど。ロシュフォール家の従僕として、あまりに軽挙妄動が過ぎますよ」
「……滅相もございません」
ギヨームは短剣の血を拭いもせず、淡々と頭を下げた。
「我が主の御前において、賎しき身の者が身の程を弁えぬ言動に及び、主の尊厳を著しく冒涜いたしました。ロシュフォール家の名誉を守るため、我が独断にて処分仕った次第。いかなるお咎めも受ける覚悟にございます」
二人の間で交わされる、完成された茶番劇。エレオノールは小さく溜息をつき、自らの額にほっそりとした指を当てた。
「まったく、困った人です。……ですが、あなたが私を思い、我がロシュフォール家の名誉を慮って忠義から出た行いであることは、よく理解できます。忠臣を無碍に罰するなど、人の上に立つ者のすることではありません」
エレオノールは視線を足元の死体へと落とした。
「とはいえ、みだりに人の命を奪うことは法において罪。教会の教えにも背くことです。……我が忠実な従僕を、みすみす殺人犯として処刑台に送るわけにはまいりませんね。幸いにして、ここは法治の及ぶ世俗の領地。立国の昔より、平民の命の代金には相場というものがございます」
エレオノールは、壁際で震え上がっているアルベールへと、すっと視線を向けた。その瞳には侮蔑の色すらなく、いっそ優しげとも言えるほど穏やかであった。
「アルベール様」
「ヒッ……!」
名を呼ばれただけで、アルベールは過呼吸を起こしたように肩を跳ねさせた。
「お怪我はございませんでしたか? 飛沫がお顔に……ああ、不快でいらっしゃいましょうね。ですがご安心くださいませ。我が従僕の不始末は、我が実家ロシュフォール家が責任を持って清算いたします。……つきましては、この娘への贖罪金を支払わねばなりません。アルベール様、この娘はどこの、誰の家の者でございますか?」
「あ……が……」
アルベールの喉からは、意味をなさない引きつった空気の音が漏れるばかりだった。どこの誰か? 知るはずがなかった。狩小屋の準備に加わっており、見栄えが良かったから馬上に引き上げ、適当な甘言を弄して手込めにしただけの、農村の娘に過ぎないのだから。
「わ、わたし、は……知ら……知らな……」
歯の根が合わず、言葉が千切れて床に落ちる。
エレオノールはその無様な姿を数秒間だけ無言で見つめ、それから「ああ」と、さも今思い出したかのように小さく小首をかしげた。
「――ああ、そういえば。思い当たりましたわ」
歌うような、滑らかな声だった。
「今日アルベール様が狩りに向かわれたクレルモン領の東、オークの深い森を抜けた先にある炭焼き村……あそこの名主をしているデュランの、末娘のマリーですね。今年で十四になったばかりのはず。先週、木炭の納入遅延の件で提出された戸籍帳に、その名が記されておりました」
アルベールは息を呑んだ。エレオノールは、城中の帳簿を完全に把握していた。領民の顔など知らずとも、いくつかの情報があれば、書類の上に記された名前と年齢、家族構成のすべてが収まっている明晰な頭脳の中から探し出すのは容易い。
「なるほど、炭焼きの娘でしたか。それならば計算は容易です」
得心したように僅かにうなづくとエレオノールは淡々と指を折った。
「未婚の農村の娘、未だ教会での正式な婚姻歴なし。慣習法に基づく命の代金は、銀貨にしておよそ三十枚から四十枚といったところでしょう。……デュランの家には、納入遅延の罰金を免除した上で、銀貨五十枚をロシュフォール家の名義で送金しておきますわ。貧しい炭焼きの一家にとって、娘一人の命の対価としては破格の額です。彼らも文句を言うどころか、主家の慈悲深さに涙を流して感謝することでしょう」
エレオノールはアルベールに向かって、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべた。
「これで万事解決です。罪は贖われ、誰も法廷に立つ必要はございません。……ふふ、良かったですね、アルベール様?」
「ば……化物……」
アルベールの唇から、恐怖で掠れた呟きが零れ落ちた。目の前にいるのは、十五の少女などではない。人の命の重みを銀貨の枚数へと瞬時に換算し、名誉と法と帳簿の数字だけで世界を冷徹に統御する、恐るべき支配者そのものだった。
その時。 ギィぃっ! と激しい音を立てて、部屋の扉が再び開かれた。廊下に響き渡った異常な物音と叫び声を聞きつけ、駆けつけてきた者がいた。
「アルベール! 何事ですか、この騒ぎは――!」
現れたのは、クレルモン子爵夫人、アニエスだった。四十代半ばの、引き締まった長身に黒のベルベットのドレスを纏った貴婦人。その鋭い目元と固く結ばれた唇には、長年この城を取り仕切ってきた女主人の威厳が刻まれていた。だが、その威厳に満ちた夫人の足が、部屋の一歩目でぴたりと止まった。
目に飛び込んできたのは、異様な光景だ。床に広がる血の海と、首を裂かれて転がる平民の娘の死体。血刀を下げて佇む大男。その傍らで、静かに微笑むロシュフォール家の娘。そして――床に腰を抜かし、血溜まりの中で震え、失禁寸前の顔で縮こまっている我が息子。
アニエスの冷徹な灰色の瞳が、部屋の中の情報を瞬時に走査した。息子の血のついた狩猟服と、死んだ娘のこの部屋において異質となる粗末な麻布の服。エレオノールの机の上の整然とした帳簿。女主人の優れた頭脳は、誰が何の説明をせずとも、わずか数秒で「何が起きたのか」のすべてを完全に理解した。
エレオノールはすぐさまアニエスに向き直り、何事もなかったかのように深く、優雅な礼を捧げた。
「お見苦しいところをお見せいたしました、アニエス様」
エレオノールの声には、一切の動揺がなかった。
「私の至らなさゆえ、我が実家より伴いました従僕が粗相をいたし、大切なお部屋と敷物を汚してしまいました。誠に申し訳ございません。汚れてしまいました絨毯および床の修繕費用につきましては、すべてロシュフォール家より弁済させていただきます。また、この転がっております娘の骸につきましても、速やかに我が手配にて片付けさせ、清めのお祓いを教会に頼みますので、どうかご安心くださいませ」
アニエス夫人は、ピクリとも眉を動かさなかった。彼女の視線は、エレオノールから、床で震え続ける愚息へと落ちた。軽薄な欲望のままに平民の娘を手込めにし、それを自慢するために婚約者の部屋へと連れ込み、結果として主導権を握られるどころか、目の前で娘を屠られて腰を抜かした息子。アニエスの瞳に、底知れぬ失望と怒りの炎が灯った。だが、それはエレオノールに向けられたものではなかった。
「……立ちなさい、アルベール」
アニエスの声は低く、地這うような冷たさを孕んでいた。
「あ、母上……こ、こいつら、急に……!」
「立ちなさいと言っているのです!クレルモン家の名を継ぐ者が、床に這いつくばって見苦しい!」
母の一喝に、アルベールは悲鳴を飲み込み、震える脚で必死に壁を伝って立ち上がった。だが、その膝はまだ笑っており、エレオノールとギヨームから目を逸らすことができない。アニエス夫人は、息子の醜態から視線を切り離し、再びエレオノールへと向き直った。その表情は、仮面のように硬質だった。
「エレオノール。敷物と床の補償は不要です」
夫人は明確に告げた。
「元はといえば、我が息子の分別なき振る舞いが招いた事態。城の主として、未だ客人とも言えるあなたに無礼な真似を見せたことを私からも詫びねばなりません」
「もったいないお言葉でございます」
「……ただし」
アニエスの鋭い眼光が、ギヨームへと向けられた。
「いかに理由があろうと、我が城内で許可なく血を流した者を、そのまま置いておくわけにはいきません。その従僕は、今日中にロシュフォールへ送り返しなさい。代わりに、別の者を実家から呼び寄せるのです。……それで手を打ちましょう」
それは、女主人としての意地であり、ギリギリの落としどころだった。息子の非を認め、娘の殺害そのものは不問にする代わりに、実行犯を城から排除することで、クレルモン家の統制権を辛うじて誇示する。エレオノールは、その提案の意図を瞬時に察知した。ギヨームを実家に戻すことなど、何ら痛手ではない。彼は役目を果たしたのだ。そして、アニエス夫人が息子のしでかした愚行を完全に把握し、エレオノールの「処置」を事実上承認したという事実こそが、この場における最大の収穫だった。エレオノールは、貴族社会の冷徹な掟を理解し合う者特有の、美しく、どこか凄惨な笑みを唇に浮かべた。
「かしこまりました、アニエス様。奥様の寛大なるご配慮に、心より感謝申し上げます。ギヨームには夕刻の鐘が鳴る前に城を出るよう命じましょう」
アニエス夫人は小さく頷くと、背後の護衛の兵たちに顎をしゃくった。
「この不浄なものを片付けなさい。外の肥桶の脇にでも転がしておいて、夜になったら荷車で村へ運ばせるのです」
「はっ!」
兵たちが足早に入ってきて、血塗れのマリーの死体を布で乱暴に包み、持ち出していった。床にはまだ広がりを続ける血溜まりが残されたが、もはや誰も気に留めていなかった。
「アルベール、部屋に戻りなさい。顔を洗い、着替えなさい。……後で私の部屋に来るのです。徹底的に話をします」
アニエス夫人は、魂の抜けたようになった息子を冷たく見据え、自らも踵を返して去っていった。その足音には、貴族の女主人としての冷厳な怒りが込められていた。
部屋には再び、沈黙が戻った。開け放たれた扉から、秋の冷たい風が吹き込んできて、むせかえるようだった血の臭いを薄めていく。アルベールは、まだ部屋から出られずにいた。母に命じられたというのに、足が竦んで動かないのだ。彼は壁に背を預けたまま、血溜まりの残る床を見つめ、小刻みに震えていた。エレオノールは、そんな婚約者の元へと、滑るように歩み寄った。 彼女の幾重にも布を重ねたドレスの裾は、一滴の血飛沫すら浴びず、惨劇の気配すら帯びていない。
「……アルベール様」
耳元で囁かれたその鈴のような声に、アルベールはビクッと全身を痙攣させた。恐る恐る顔を上げると、そこには至近距離で自分を見つめる、エレオノールの慈愛に満ちた美しい顔があった。
「ご気分はいかがですか?狩りのお疲れが出られたのではありませんこと?」
「あ……お、お前……」
「ふふ。どうぞ、お気を確かに持たれてくださいませ」
エレオノールは、そっと自らの華奢な手を伸ばし、アルベールの頬に触れた。その指先は氷のように冷たかった。アルベールは悲鳴を上げそうになったが、喉が引きつって声が出ない。エレオノールの親指が、彼の頬にこびりついていた乾きかけの血糊を、優しく、しかし確実に拭い去った。
「私はね、アルベール様。物分かりの悪い娘ではございませんのよ」
エレオノールは、囁くように言った。その声は優しく、甘やかで、それゆえに逃れようのない毒に満ちていた。
「殿方が外でお遊びになること、愛妾をお持ちになること……それ自体を、私は頭ごなしに否定するつもりは毛頭ございませんわ。貴族の婚姻とは、所詮は家と家との契約。愛や情念などという不確かなものに縋る気は、最初から持ち合わせておりません」
アルベールは、瞬きも忘れて彼女の瞳を見つめていた。
「ですが――順序というものがございます」
エレオノールの青い瞳が、すっと細められた。その奥底に揺らめく光は、美しい氷の刃だった。
「私と貴方との間で、神と教会、そして双方の家に対する『契約』が完全に果たされるまでは、身を慎んでいただかねば困ります。すなわち――正式な婚姻の儀を執り行い、この城に私が女主人として迎え入れられ、そして我が胎より、クレルモン家とロシュフォール家の血を引く健全な『後継の男子』が無事に産み落とされるまでの間です」
エレオノールの指が、アルベールの胸元、心臓のあたりへと滑り落ちた。 分厚いチュニック越しでも分かるほど狂ったように速い鼓動が脈打っている。
「それまでは、余計な夾雑物は一切認めるわけにはまいりません。万が一にも、どこの馬の骨とも知れぬ平民の血が混ざった私生児が先に生まれ、継承権に瑕疵がつくようなことがあっては、両家にとって取り返しのつかない汚点となりますでしょう? ……お分かりいただけますわね?」
「ひ……っ」
「契約が成就するまでは、禁欲にお励みあそばせ。……もし、また同じような真似をなさろうとしたら」
エレオノールはほんの少し笑みを深くし、指先でアルベールの胸をトンと軽く突いた。
「今度は、どこの娘の首が飛ぶことになるのかしら。あるいは……手を出した方の『獲物』ではなく、手を出した『狩人』の側に、何か不慮の事故が起きないとも限りませんわね。狩場には、落とし穴も、暴発する石弓もたくさんございますもの」
それは、明確な死の宣告だった。次に平民の女に手を出し、秩序を乱せば、殺されるのは女だけではない――お前自身だ、と。
「ヒッ……あ、ああああ……!」
アルベールはもはや言葉を返すことすらできず、エレオノールの手を振り払うようにして、よろめきながら部屋から転がり出た。廊下を無様に走っていく足音が、遠ざかっていく。一人残されたエレオノールは、懐から取り出した純白の亜麻布のハンカチで、アルベールの血を拭った自らの指先を丁寧に拭いた。
「……ご苦労様でした、ギヨーム」
彼女は振り返り、この日のうち最も温かな声で部屋の隅で静かに立ち尽くしていた従僕を労った。
「美しい見事な太刀筋でしたよ。一撃で絶命させ、苦しませることもなかった。デュランの娘にとっても、無駄な恥を晒さずに済んだのは慈悲というものです」
「勿体なきお言葉。我が刃は、常にロシュフォール家とエレオノール様のためにございます」
ギヨームは深く頭を下げた。短剣はすでに鞘に収められ、彼の手もまた布で清められていた。
「実家へ戻ったら、お父様に伝えてください。『婚姻によりオーヴェルニュの地盤は、完全に我が掌中に収まる』と。アニエス様は賢明な方です。息子が無能であればあるほど、実務を完璧にこなす嫁である私に、城の権力を委ねざるを得なくなるでしょう」
「畏まりました。旦那様もお喜びになりましょう」
「それから、デュランの村への銀貨五十枚、くれぐれも手抜かりなく。……神の法と、人の法。両方を完璧に味方につけてこそ、私たちは支配者でいられるのですから」
「はっ」
ギヨームが静かに一礼し、部屋を辞していった。
西日がようやく、厚い雲を割って射し込んできた。赤黒い染みの残る床を、黄金色の光条が無慈悲に照らし出す。エレオノールは乱れた裾を整え、何事もなかったかのように自らの椅子へと腰を下ろした。真鍮のインク壺に羽ペンを浸し、再び羊皮紙の帳簿へと視線を落とす。
「……さて。麦角病の減免申請、続きを片付けなければ」
この西日が落ちる前に、と。 冷え切った部屋に、再び鵞鳥の羽ペンが羊皮紙を削る、先ほどより少し早く、けれど規則正しい冷徹な音だけが響き始めた。
この後、ギヨームに代わってアルベールと同じ目の色をした従僕がやってきます。
年頃はまったくエレオノールと釣り合いませんが、アニエス夫人には当然その意図は伝わります。
ということで、アルベールはアニエス夫人によってしっかりと再教育され、何より幸いなことに、契約が違えられることはありませんでした。




