チーズケーキと2杯目のコーヒー
いつからだったか。
私は、あの御茶ノ水のカフェに毎週通うようになっていた。
コーヒーが美味いのもあるが、チーズケーキが絶品なのだ。
日曜の朝、カウンターで外を眺め、コーヒーは必ず二杯。
それが私の決まりだった。
そんな場所に、彼はいた。
私のいつもの席から、反対の端。
今どき珍しく原稿用紙を広げ、何かを書いている。
端正な顔立ちで、ときおりふっと外に目をやり、
しばらくすると、また原稿用紙へ視線を落とす。
その姿が、やけにカッコよくて、興味が湧いた。
彼が何者なのかは、その時はよく分からなかった。
⸻
「文学部って、何を学ぶものなんですか。
生憎、私は理系なもんで」
「人を学ぶようなものでしょうね。
作品を書いた者、それを読む者。
そういった人たちを学ぶわけです。……まぁ、私にとっては違いますが」
「ほう。じゃあ、あなたは何を学びに大学へ?」
「学びに行ってるつもりはないですね。材料を集めに行ってるだけです。
有名な作品の表現を知って、それを真似る。
私は『人』について、わかっている……いや、わかったつもりかもしれませんが」
「大層なことをおっしゃいますね。
作家というより、学者のようですよ。
研究職も視野に入れてみてはどうです?」
「はは、確かにそうですね。
ですが大丈夫です。私はちゃんと作家ですよ。
ひとつ、私の芸術論でもお教えしましょうか」
そう言って、彼はカップを手に取り、静かにコーヒーを啜った。
西洋風の整った顔立ちで、その仕草はどこか優美に見えた。
「聞いてみたいですね。
できれば、私のコーヒーが冷めないうちに」
「確かに。
ぬるいコーヒーは、私も嫌いです」
そのとき初めて、彼の笑顔を見た。
なんだか、若い頃に戻って友人と話しているようだった。
「では、話しましょう。
『芸術とは人を写す鏡だ』という言葉があります。
誰の言葉かは知りませんが、私はこれを知ったとき、強く共感したんです」
「そこで疑問が湧いたんです。
では、文学はどうなのか。
あなたはどう思います?
文学は、人を写すものになり得るか」
私は少し顔を上に上げて、考えた。
「うーん……まぁ、なり得るんじゃないですか?」
「ええ、そうです。
ただ一点付け足すと、文学は人をよりはっきり写すんです。何せ、そこには言葉がある」
「文学は、書き手と読み手、すべての『人』を写す。
……少なくとも、私はそう思っています」
彼は一度、コーヒーを飲んで、改めてこちらに向き合った。
「私はこの性質を、利用するんです。
本を読むとき、人は孤独だ。そんなところに、
『世の中の人々は皆馬鹿だ。ただある一人を除いて』なんて書かれていたら、どうです?」
「読み手は、そこに自分を写す。『自分は違う』と思うわけです。
私の思い通りですよ。どうです、面白いでしょう」
さっきまでの青年とは別人のようで、
何かに取り憑かれているように思えるほどの語り方だった。
「そうですね……でも私は、『ただ一人を除いて』なんて書かれていても、
自分のことだとは思えないかもしれません」
どこか納得のいかないまま、私はまだ温かいコーヒーを啜った。
「では、あなたの作品を見せてもらえませんか?
私はやっぱり理論はわかりませんが、
あなたについてはわかるかもしれない」
私は、自分でも驚くほど静かな声だったことに、少し遅れて気づいた。
私がそう言うと、彼は一瞬だけ原稿用紙に視線を落とし、それから、何事もなかったように笑った。
「……それは、また今度にしましょう」
「そうですか…すみませんね。
やっぱり私には、文学とかは難しいようです。
でも、せっかく話を聞かせてもらったんですから。チーズケーキ、どうです?話の代金で奢りますよ」
「いえ、大丈夫です。
芸術論なんて、聞いてくれる人はなかなかいませんから」
そうして私は、チーズケーキとコーヒーを平らげ、席を立った。
そのとき、彼の手元が動いた。ペンが走る音が、かすかに、しかし途切れることなく響く。
原稿用紙に何かを書いているのだろう。ただ、その速さは、私が話しかける前とは段違いだった。
落ち着かない気分のまま、私はカフェを出た。
冬の冷たい空気を吸って、吐き出す。それでも気分は、落ち着かないままだった。
⸻
翌週、
彼はまた同じ席に座り、原稿用紙を広げていた。
「今日も書いているんですか?」
彼は少し驚いたように手を止め、顔を上げた。
「ああ、誰かと思った。
この前はありがとうございます。おかげで、創作が捗りましたよ」
その言い方が、礼なのか皮肉なのか、
私にはわからなかった。
「そうですか。じゃあ、チーズケーキは奢らなくて良かったみたいですね」
そうして、二人で少し笑みを浮かべた。
「あれから私も少し考えてきたんです。やっぱり、文学が鏡っていうのが、よく分からなくて」
「なるほど」
彼は相変わらず落ち着いた様子で、私の話を聞いていた。
「だって、そんなの表現次第じゃないですか?作者がどう書くかで、変わるでしょう?」
彼は一瞬窓の外を眺めて、口を開いた。
「まぁ、そうですね。ですが、日本の文学は私小説がかなり多いんですよ」
「すみません。読んだことがなくて……」
「まぁ、とにかく多いんです。自分とか、読み手を写した本というのは」
彼はそう言うと、また原稿用紙に目を落とし、執筆を続けた。
私はその横顔を見ながら、会話がどこか一方通行だったことに、遅れて気づいた。
結局答えが出ていないじゃないか。
納得できないまま話を終えることが、妙に悔しくて、何か、彼とは違う形で応えてみたくなった。
「じゃあ、私が書きますよ」
「え?」
「私が書いて、証明します。いや、証明は大げさかな。ただ、納得したいんです。間違っていても、合っていても。正直、どっちでもいい。……やっぱり、理系だからですかね?」
私がそう言うと、彼は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、すぐに以前の様子に戻り、笑みを浮かべた。
「ふふ、面白いですね。ペンと紙なら貸しますよ。これを使ってください」
私は原稿用紙と、少し高級感のあるボールペンを受け取った。
整然とマス目の並ぶ原稿用紙を見る。もちろん、書くことなど決まっていない。
どうするか……。
私はカップを手に取り、コーヒーを啜る。
その間も、彼は執筆を続けている。慣れないことに、つい手を出してしまった。
……そうだ。まずは、要素を書いていこう。
私は原稿用紙を裏返し、白紙の面と向かい合った。
よし、書こう。
芸術、文学は鏡
↑ほんと?
文学とは、まず何か
娯楽? 絵本も文学?
……ペンが止まった。
カフェのざわめきが、遅れて耳に戻ってきた。
要素だけと言っても、まるで書けない。
カップの触れる音や、隣の席の笑い声が、急に大きく聞こえた。
「あなたの理論には納得できませんけど、書き続けられるその技術だけは、敵わないと思います」
彼はこちらを見ずに、執筆中の手を動かしながら答えた。
「ありがとうございます。どうです、書けましたか?」
「書けた……と言ったら、怒られそうですね。まだ途中です」
「一度、見せてもらってもいいですか?」
彼はそう言って顔を上げ、こちらの席に近づき、私の原稿用紙を手に取った。
なんだか、宿題を先生に見せているようだ。
彼は原稿用紙を返しながら、
私が書いた箇条書きをもう一度だけ見た。
「良いじゃないですか。最初に文学が何か考えるというのは大事ですよ」
そう言って、彼はどこか遠くを見つめた。何かを考えているようだった。
「どうかしました?」
「……私も、文学とは何かと考えていた時期があったな、と」
彼は、私に向かって話しているというより、過去に語りかけているようだった。
「私は創作を続けるうちに何か変わってしまったのかもしれません」
彼はペン先を指で転がしながら、
付け足すように言った。
「……それでも、書けなくなるよりは、ましだと思ってます」
私はなんと返せば良いかわからなかった。
思えば私は彼の過去や作品なんて全く知らなかった。
ただ、何か場を繋ぐ言葉をかけたかった。
「一度、やめてみるのもありなんじゃないですか?創作をやめて、文学から離れるとか」
言ってから、少しだけ後悔した。
「それはちょっと。
……多分、私は書き続けますよ。
自分を変えても、世の中が変わっても」
私は彼からなんと言われるか心配したが、
彼の口調は優しかった。
「一度、授業をちゃんと受けてみます。教授と話すことも、あまりしてこなかったので」
「いいじゃないですか」
「じゃあ今日は、チーズケーキ奢ってもらおうかな。指導もしましたし」
「もちろん。授業料と、お話代ということで」
そうして、二人で顔を合わせて笑った。
チーズケーキを食べながら、コーヒーを飲んだ。
そんなありふれた時間。
それが、彼と過ごした最後の時間だった。
⸻
翌週。
私は、相変わらずカフェに向かった。
いつもの席、いつもの景色。
ただ一つ違ったのは、そこに彼の姿がなかったことだ。
なんだか、夢を見ていたようだった。
本の妖精が現れて、少しだけ話をしてくれたような。
私は呼び鈴を鳴らした。
「すみません。チーズケーキを一つと、アメリカンをホットで」




