異世界みたいなアメリカのナイツ・オブ・ザ・キュー その1
1910年1月24日。
午前八時三十分。
アレクサンドリア・ホテル三階のスタンダード・ルーム。イチタロウは、ドアの下に差し込まれていた『ロサンゼルス・タイムズ』を読み終えたところだった。
インクの匂いが残るごわごわとした紙面を折りたたみ、朝食のトレイに添えられていたリネンで指を拭いてから、コーヒーカップに手を伸ばす。
確かに、新聞の最後の方にある三行広告 (Classified Ads)、法定公示 (Legal Notice)の欄に、その記事は記載されていた。
『ここに、署名者が『イトウ・スチール・カンパニー (Ito Steel Company)』という屋号 (擬制氏名)のもとでビジネスを行うことを通知する……』
5.5ポイント (Agate)の活字は、新聞紙面で使われる文字としては事実上の最小サイズ。ここから、『ISC』の歴史が始まる。
すっかり冷めかけたコーヒーに、イチタロウは口をつけた。
「イトウさん、グリーンウッドだ」その時、ドアが叩かれた。
イチタロウがドアを開けると、グリーンウッド弁護士が少し緊張した面持ちで立っていた。彼は会談開始の一時間半も前に来ることになった自分の慌ただしさを、乾いた笑いでごまかそうとした。
「……おはよう。もう準備万端かね」
だが、部屋に入りかけたグリーンウッドの言葉が止まった。窓からの朝光を受け、イチタロウの胸元のミッドナイト・ブルーのスーツに並ぶ鏡面ステンレスボタンが、あまりにも鋭く、冷徹な光を放っていたからだ。
グリーンウッドは、なるほどこれは確かに鏡のように見えるなと、感心したように目を細めた。
「先に部屋で見せてもらって助かったよ。……心の準備というやつが、本当に必要だった」
午前九時。
二人は最終的な書類の確認を終え、部屋を出た。
「十時開始だが、先に部屋に入っておきたい。我々が主導権を握るためにも、彼らを迎える体勢を完璧に整えておきたいんだ」とグリーンウッドが言う。
「賛成です。ホストが遅れては話になりません」
フロントへデスクの電話の後、それからエレベーターを降り、二階 (Mezzanine Floor)の奥まった場所にある『グリーン・バンケット・ルーム』へと向かった。そこには、参加者十二名のオールデイ・セッションを支える「プライベート・ダイニング・スイート」が予約されている。
イチタロウは、扉の前で控えていた給仕長 (メートル・ド・テル )と給仕 (キャプテン)二人に歩み寄った。
ベストのポケットから取り出したのは、路面電車 (Yellow Cars)の車掌が腰にぶら下げている無骨な業務用コインディスペンサーではなく、手のひらに収まるほど小さく、極めて薄い鏡面ステンレス製のブック型コインホルダーだった。
親指一本でその蓋を開けると、バネ仕掛けのスロットが二つ、精密機械のように姿を現した。一つは10セント (バーバー・ダイム)、もう一つは25セント (バーバー・クォーター)用。
10セントがチップの相場で、5セント(Vニッケル)がコーヒー一杯の相場だ。
イチタロウは手元を見ることなく、ホルダーのスロットから25セント硬貨を一枚ずつ、正確に取り出した。キィン、キィンと、真鍮製ディスペンサーではあり得ない澄んだ硬質な音が響く。
「今日の会談の間、静寂を保ってほしい。頼めるかな」
イチタロウがホルダーをポケットに戻しながら視線を向けると、チップを受け取った若いキャプテンは、金額の多さではなく、一瞬見えた鏡のような光に、目を奪われたようだった。
高級ホテルの廊下は静かであるのが当たり前だ。それを承知で「静寂を」という名目でイチタロウは高額のチップを弾んだ。あえて多すぎる額を、理由にならない理由で渡す行為自体はスマートではある。
だが、その行為はまだ何者でもないイチタロウには早すぎるとグリーンウッドは思った。
午前九時四十三分。
アレクサンドリア・ホテルの二階回廊を、マンハッタンから大陸横断鉄道を五日間乗り継いできた十人の代表団は、長旅の疲れも見せず、欲望の熱気に包まれながら歩いていた。
J.P.モルガンの主たる代理人 (The Principal Agent)の一人、ジョン・ヘンリー・ボストンは、無意識に懐中時計を確認した。
ハンターケースの蓋が閉まるカチリという音が、不自然なほど廊下に響く。
USスチールの特許戦略を一手に引き受ける辣腕の特許弁護士サイラス・V・レイモンドが、焦燥感を隠しながらボストンの横を歩いている。
ボストンのポケットには、今朝、終点のセントラル駅に届いていた緊急電報が鉛のように眠っている。
コロンビア大学のプレスコット教授による最終報告――「あらゆる酸による腐食を拒絶。炭素含有量ほぼ零。現代の製錬技術では説明不能」
それはベッセマー法以来の産業秩序を、そして大西洋を隔てた国家間のパワーバランスを根底から覆す「何か」が、ロサンゼルスの片隅で産声を上げたことを予感させていた。
レイモンドは、低く、しかし鋭い声でボストンに耳打ちした。
彼は、J.P.モルガンに買収された旧カーネギー鉄鋼から、USスチールへと横滑りした特許弁護士事務所の主であり、鉄鋼の権威を自負していた。
「ボストン、やはり私の見立てでは、この『イチタロウ』は浸炭 (Carburizing)の新手法を見つけたに過ぎん。軟鉄の表面にクロムを浸透させる、精巧なメッキの進化系だ。そうでなければ、教授の言う『不働態 』……鉄が試薬の酸に溶けないなんてことは、この世の物理法則に反している」
最後には、自分自身を説得するようにレイモンドは呟いた。
彼は、自らが積み上げた経験則――スクリュー撹拌式焼入れ槽の油の匂いや、巨大な浸炭炉の熱気――という十九世紀の残像に必死に縋り付いていた。
世界最大の鉄鋼トラストを背負う彼にとって、数千度の炎も、緻密な炭素の調合も必要としない「不朽の合金」の存在は、認めたくない悪夢でしかない。
USスチールは巨大なオープンハース法 (平炉)やベッセマー法の転炉に数億ドルの資本を投じていた。
もし、「一瞬にして安価な軟鉄を特殊合金へ変える」という、精錬工程そのものを飛び越える魔術が本物ならば、彼らが支配する巨大な煙突の群れは、一夜にしてただの巨大な粗大ゴミと化し、その資産価値は紙屑へと消えるのだ。
イギリスが戦艦ドレッドノートを進水させて以来、世界は「鉄と血」の狂騒の只中にある。もしこの合金が本物ならば、これは包丁やカトラリーの独占販売権といった矮小な商談ではない。
ボイラーを腐食させず、装甲を錆びさせない鋼。それは大西洋の制海権を、ひいてはアメリカ合衆国という国家の存亡を左右する、二十世紀最大の軍事機密に他ならない。
一行は、『グリーン・バンケット・ルーム』の重厚な扉の前に達した。
ボストンは、扉の前に立つ給仕長と、その左右に微動だにせず控える二人の給仕の姿を、品定めするような冷徹な眼差しで射抜いた。
1906年に開業したこのアレクサンドリア・ホテルは、西海岸の野心が生んだ最高級の結晶だが、そこに宿る「教育 (ディシプリン)」は本物か。
マンハッタンの社交界で鍛えられた彼の無意識が、その質を問うていた。
「マンハッタン代表団だ。開けてくれ」
ボストンの短い命に対し、給仕長が微かに顎を引くと、左右の給仕が真鍮の取っ手に手をかけ、完璧な呼吸で観音扉をを押し開いた。
午前九時四十五分。
そこに広がっていたのは、窓のない、太陽の干渉を拒絶した「金箔と深緑の密室」だった。
天井からはクリスタルが幾重にも重なる三基のシャンデリアが吊るされ、導入されたばかりのタングステン電球が放つ鮮烈な黄色い光が、壁面のアール・ヌーヴォー様式の金細工を執拗なまでに浮き上がらせている。
部屋の中央、長大なマホガニー・テーブルの奥から、イチタロウが静かに立ち上がった。その斜め後ろでは、グリーンウッドが影のように寄り添い、同時に腰を浮かせる。
イチタロウが歩み寄るにつれ、代表団十人の視線は彼の装いに仕込まれた「異質な輝き」に釘付けとなった。
流行のハイカット・スーツを彩るのは、シャンデリアの光を青白く弾き返す鏡面ステンレスのボタン。糊で固められた高い立ち襟に収まるパールグレイのシルクタイを飾るタイピン、そして手首のカフスボタンに至るまで、銀よりも澄み、プラチナよりも硬質な光を放っている。
ベストのボタンホールからポケットへ渡された懐中時計のチェーンが、イチタロウの歩調に合わせて冷徹な輝きの弧を描く。その揺れは、まるで銀色のメトロノームのようであった。
「初めまして、イチタロウ・イトウです。ニューヨークからの長旅、お疲れではありませんか?」
イチタロウは完璧なマナーで右手を差し出した。自己紹介と握手の手順が流れるように進む。ボストンは相手の手の温もりを確かめながらも、意識の半分は室内を走査していた。
「さあ、お掛けください。まずは喉を潤しましょう」
その言葉が合図だった。壁面の深い緑に紛れていた隠し扉 (ジブ・ドア)が音もなく開き、サービス・パントリーから二人の給仕 (ウェイター)が、銀色のワゴンを押して滑るように現れた。
廊下にいた給仕 (キャプテン)も最後尾に加わり、三人の男たちによる一糸乱れぬ規律正しい給仕が始まる。
ボーンチャイナのカップに熱いコーヒーが注がれる香りが立ち上る中、代表団の十人とISCの二人の雑談 (スモールトーク)という名の真剣勝負が幕を開けた。
この時代の紳士にとって、長期的な盟約を結ぶに足る人物かを見極めるのは、知識ではなく、相手の肉体に染み付いた「品格 (Character)」と「信頼性」に他ならない。
イチタロウのミッドナイト・ブルーの服装は、「錆びにくい特殊合金」の光のデモンストレーションとはいえ、「非常に目を引く装い」であることも確かだった。
アーミー&ネイビーの全権代理人、パーシー・フォークナーの脳裏には、ロンドンの下層階級、露天商 (コストーモンガー)のリーダーたちが纏う、数千から数万もの真珠母貝 (マザー・オブ・パール)のボタンを隙間なく縫い付けた「パーリー・スーツ」が過ぎった。
労働者階級の虚栄が凝縮された、あの悪趣味な光り輝く出し物。
さらには、精巧なミニチュアSLに訓練された制服の猿を乗せ、文明の利器を操ってみせる見世物小屋の余興 (サイドショー)……。
「……不可解だ」
フォークナーは心の中で毒づく。あれは猿の芸だ。労働者の虚飾だ。そう自分に言い聞かせながらも、彼の視線は、青年の胸元で氷のように煌めくネクタイピンの、あまりに滑らかな反射の虜 (とりこ)になっていた。
午前十一時十分。
質疑応答の応酬が一段落し、十分の休憩 (Recess)の後、場の空気がわずかに弛緩した瞬間を見計らい、イチタロウが静かに口を開いた。
「皆様、これまでの議論で、この『錆びにくい特殊合金』の性能が、現在の市場の炭素鋼を凌駕することはご理解いただけたかと思います」
イチタロウは、マホガニーの長卓中央に置かれた鏡面ステンレスの『ISC』製品へと、一同の視線を促した。
装飾のない鏡のような、万年筆、メタル・ペンシル (繰り出し式鉛筆)、カードケース型のアドレス帳、ポケット・ナイフ (ペンナイフ)、名刺入れ、シガレットケース、スニッフ・ボックス (嗅ぎタバコ入れ)、裸のマッチ棒を入れておくヴェスタ・ストライカー、(既存のマッチ箱側面のやすりが露出している) マッチボックススリーブ、シガー・ケース (複数本収納)、シガー・チューブ (一本収納)、シガーカッター (葉巻切り)、携帯灰皿、ブック型コインホルダー、折りたたみ式櫛 (フォールディング・コーム)、カフリンクス・ケース (小物入れ)。
窓のない密室のそれは、シャンデリアのタングステン光を受けて燃えているようだった。
「私が本日、皆様にご提案するのは、単なる包丁の販売契約ではございません。この比類なき素材を核とした、『ブランド帝国』の共同構築です」
代表団の間に、隠しきれない不快と失笑が混ざった動揺が走った。彼らにとって、イチタロウはまだ一介の東洋の若者に過ぎない。
「現在の包丁は、木製の柄に刃を差し込むか、挟み込む非衛生的な構造が主流です。重量バランスも悪く、扱いにくい。ですが、サンプルでお送りした『ISC』包丁は違います。継ぎ目のない一体型、完璧な重心、
そして何より、この鏡面仕上げの美しさ。一目で『ISC』製品だとわかります。そして錆びにくく、刃持ちもいい。包丁としても、これ以上のものがありますでしょうか?」
イチタロウは、手に取った懐中時計の鎖の先にある鏡面ステンレスの輝きを、振り子のようにゆっくりと揺らした。
それは、居並ぶ紳士たちの視線を強制的に誘導する催眠術のようでもあった。
「皆様、金やスターリングシルバー (純銀)の輝きを否定するつもりはありません。銀食器は代々受け継がれ、執事が丹念に磨き上げることで、その重厚な『古色 (パティナ)』を愛でる……それこそが欧州の、真の貴族の伝統でした」
イチタロウが両手を広げると、鎖の先にある鏡のような懐中時計は更に大きく揺れた。
「しかし、時代は変わりました。煤煙にまみれた都市で、いつ終わるとも知れぬ銀磨きに家事使用人の時間を奪われることを、もはや『贅沢』とは呼ばない。それは単なる『非効率』です。私の『錆びにくい特殊金属』製品――これを便宜上、『ルナ・スチール (Luna Steel)』と呼びましょう。
このルナ・スチールは、手入れを必要としません。磨く必要もなく、ただそこにあるだけで永遠の鏡面を維持する。これは伝統への反逆ではなく、『労働から解放』する新たな階級の象徴なのです」
ハロッズの代理人、アーチボルド・ペンドルトンは、自らの銀のシガレットケースを指でなぞり、わずかな曇りにか眉をひそめた。
銀磨きの職人は消え去り、従順だったメイドたちは工場へと去っていく。残された主たちが手にするのは、手入れを怠れば無惨に黒ずむ銀器と、錆びついて刃こぼれした醜い鋼のナイフだけだ。
それは単なる美観の問題ではない。1910年の英米を覆っていた「サーヴァント・プロブレム (The Servant Problem)」という上流階級の喉元に突きつけられた刃そのものだった。
そして、主流のシルバープレート (銀メッキ)のカトラリーには、致命的な欠陥があった。摩耗したメッキの隙間から内部の卑金属が露出し、そこに目に見えぬ汚れが蓄積する。
十九世紀末から始まった公衆衛生運動 (サニタリー・ムーブメント)の文脈において、イチタロウの継ぎ目のない一体型のカトラリーは、上流階級へ訴求する最強のキラーコンテンツでもあった。
イチタロウの言葉は、単なる商品説明ではない。それは1910年という、ヴィクトリア朝の残照と近代効率主義が衝突する時代の急所を、正確に撃ち抜いていた。
「『サニタリー (衛生的)』……か」
ボストンが深く、重い溜息とともに呟いた。その一言に、代表団の数人がハッとしたように顔を上げた。
当時、ニューヨークやロンドンを席巻していた公衆衛生運動は、単なる知識層の流行ではない。それは結核、コレラ、チフスといった、社会の最上層すら無差別に死へと引きずり込む疫病への恐怖から生まれた、凄絶なまでの社会現象だった。
木製の柄のわずかな隙間に潜む、拭い去れぬ細菌。旧弊依然としたハッチンソン式ボトルの構造的欠陥による洗い残し。
それらを「アンサニタリー (不潔)」と一喝するイチタロウの視点は、富裕層が最も敏感、かつ神経症的にまでなっていた「清潔への強迫観念」を正確に撃ち抜いたのだ。
「もし、このルナ・スチールの白い光が、既存の重苦しいベルベットや、茶褐色のマホガニーの家具と合わないと仰るなら、答えは単純です。服を、カーテンを、インテリアを、この光に合うように作り変えればいい」
イチタロウは、アール・ヌーヴォー様式の華美な装飾が施された『グリーン・バンケット・ルーム』を、引導を渡すような視線で見回してみせた。
一同の間に、戦慄に近い動揺が走った。それは既存の枠組みをを超えた、生活様式 (ライフスタイル)を根底から変える提案だったからだ。
「カタログ販売の真の強みは何ですか? 単品を売ることではありません。『世界観』を売ることです。ISCの『ルナ・スチール』を中心に据え、それに調和する――アール・ヌーヴォーを書き換えていく――白と黒を基調とした幾何学模様のテキスタイル、機能的なモダンリビング。それらをトータルデザインとして、貴社カタログの巻頭を飾るのです
お客様は包丁一本を買う。そして数年後には、その抗えない『白い光』に魅了され、相応しい『未来の生活』をまるごと買い揃えることになる。私はそのための『核』を提供しているのです」
イチタロウは十人の代表団を一人づつ、ゆっくりと見回した。
「これは、単なる『鏡のように光る金属』ではありません。『ISC』というブランドへの入り口 (エントリー商品)となります」
「君は……」ベンドルトンが、震える声を絞り出した。
「君は、この『ルナ・スチール』を売り出すために、「不潔』という恐怖を売り物にするつもりか?」
「これは『置換 (リプレイスメント)』です。銀がかつて貴族の権威であったように、このルナ・スチールは、来るべき二十世紀という『スピードと合理性の世紀』における、新たな貴族の条件となる。
磨くことを誇る時代は終わりました。これからは、『何もしなくても常に輝いていること』こそが、真の富裕の証明となるのです」
沈黙が部屋を支配する。
ベンドルトンは、自分のシガレットケースをポケットへ隠すようにしまい込んだ。
イチタロウは、用意していたポートフォリオ (図案集)を広げた。そこには、ティースプーン、ディナーセット、そして十人の代表団が予想だにしなかった製品――「女性用コンパクト」や「口紅ケース」のデザイン画が並んでいた。
ボストンは、一枚の図面に目を留めた。「金属製の回転繰り出し式口紅ケース」。その合理的な機構を、彼は指先でなぞった。
化粧をするのは、舞台女優と売春婦だけという時代は終わりつつある。紙に包まれた不便な棒口紅が主流の時代、ボストンの妻もまた、鏡の前で筆を使って不自由に紅を引いている。
『ISC』の真価は、この包丁という端緒に続く、膨大な商品展開にあります。私たちは、顧客がその生涯を通じて『ISC』という美学を買い揃え、自らの一部としたくなるような『忠誠心 (ロイヤルティ)』を育てます」
イチタロウは、流れるような動作で価格帯の戦略リストをテーブルに滑らせた。
「商品に応じて、価格帯を重層的に配置いたします。カトラリーセットは『中価格帯と高価格帯の間』、万年筆は『最高級品の一歩手前』……といった具合に。お客様は、ご自身の資産の成長とライフステージの進展に合わせ、背伸びをしながら、しかし確実に、生活の隅々を『ISC』で満たしていくことになるのです」
イチタロウが提示した「ブリッジ・ライン」や「アクセシブル・ラグジュアリー (手の届く贅沢)」という概念は、1910年代のアメリカや欧州で爆発的に増加していた「ホワイトカラー (新興中産階級)」の人口統計学的変化を、百数十年先取りして正確に射抜いていた。
イチタロウが説いたのは、「素材の原価」に基づく旧来の商売ではない。『顧客の忠誠心 (ロイヤルティ)』という見えざる資産の構築だ。「良いものを一度買えば一生モノ」という19世紀の美徳を、「生涯をかけてISCを買い揃えさせる」というコレクション・バイアス (収集本能)へと、歴史的に置換 (リプレイスメント)しようとしていた。
グリーンウッドは、隣で目を見張るのを堪えることができなかった。前日の打ち合わせで聞いた「ブランド帝国」の構想。それは二度、三度と聞くたびに、常識という壁を、静かに、しかし決定的に突き破っていく凄みを増していた。
「待て、イトウ。君の言う『ブリッジ・ライン』や『ロイヤルティ』という概念は、一見理にかなっている。だが――」
シュトゥーケンブロックの全権代理人、ハンス・シュトゥーケンブロックが、異議を唱えた。
「――それはすべて、この『ルナ・スチール』が他社に決して模倣されないという、あまりに危うい前提の上に成り立っているのではないか?」
創業者アウグスト・シュトゥーケンブロックの一族に連なる男は、更にその声を高めた。
「三日前には、我々代表団は君が送ったサンプルの定量分析の報告を受けている。その結果、合金はクロムとニッケルの異常な高配合によって成立していることが判明した。もし、ドイツのフリードリヒ・クルップ社の研究所がこの比率を突き止め、同様の製品を安価に大量生産し始めれば、君の言う『ブランド帝国』は一晩で瓦解する砂上の楼閣だ。
君が我々に求めるべきは、絵空事の未来図ではなく、この素材の製造特許 (パテント)によるライセンス契約ではないのか?」
イチタロウは微笑みながら答えた。
「成分比率を突き止めたところで、一体何の意味があります? …… シュトゥーケンブロックさん。比率を知ったからといって、ルナ・スチールを作れるようになるまでには、次の大彗星 (Halley's Comet)が回ってくるでしょう。それに、先ほども申し上げましたが、私はルナ・スチールの製造特許を取るつもりはありません。
フリードリヒ・クルップが私の背中を追って時間を浪費している間に、私は独占契約を結んだ皆様方のカタログ巻頭を『ISC』のロゴで埋め尽くします。世界中の消費者が『錆びない鋼=ルナ・スチール』という等式を絶対の真理として脳に刻んだ後に、ドイツから安価な模倣品が出たとして、それが何になりますか?」
イチタロウは、テーブルの下から重厚な箱を取り出すと、十人の代表団へ向けて、例の「漆黒の化粧箱」を一人一人の手元へと配り始めた。
箱の上段に配された『ISC』のロゴは、装飾的な筆記体が主流の1910年において異彩を放つ「アクチデンツ・グロテスク」の金箔押しだ。30ポイントの太く、機械的なまでに冷徹な規律を感じさせるその書体は、サンプル品と同じ。
アーミー&ネイビー(Army & Navy)、ハロッズ(Harrods)、ル・ボン・マルシェ (Le Bon Marché)が一段目に。その直下、二段目にはマニュフランス(Manufrance)、そしてシュトゥーケンブロック(Stukenbrok)の社名が、それぞれの会社が誇る固有の字体での10ポイントで、完璧な密度をもって中段に金箔押しされていたのだ。
最下段には、鋭利な角を持つカッパープレート体が、8ポイントという極限の細密さで『LOS ANGELES, CALIFORNIA』と同じように刻まれている。
箱を手にしたハンス・シュトゥーケンブロックは、自社の社名ロゴが、宿敵であるフランスのマニュフランスや、イギリスの至宝ハロッズと並び、ISCの下に等しく金箔押しされているのを見て、思わず息を呑んだ。
「そして、皆様方のカタログ販売という流通網を通じてのみ、お客様はこのISC製品を購入できる。これは、皆様方にとって、他社の追随を許さない『プライベート・ブランド (専売品)』という圧倒的な競争優位性を生み出します」
十二人の揃う『グリーン・バンケット・ルーム』には静寂が流れる。
イチタロウは、単に『錆びにくい特殊合金』の話をしているのではない。欧州の伝統的な商売の枠組みを超えた、未来のビジネスモデルを提示していた。
当時、ハロッズやシアーズ・ローバックなどの百貨店・カタログ会社が展開していた「自社ブランド (PB)」とは、既存の町工場に仕様書を渡し、無名の安物を百貨店のタグで包装し直しただけの、低価格帯商品 (マス・マーケット)を指していた。
一方で「高級」の定義は、金・銀・本革といった素材そのものの価値や、数世代続く職人の工房名に帰属していた。百貨店はあくまで「あらゆる優れたものを集める場所」であり、特定の超高付加価値製品を自社だけで独占製造し、高単価で垂直販売するという発想は存在し得なかった。
富裕層が「便利だから」ではなく「ISCのルナ・スチールを所有しなければ時代に遅れる」と強迫的に信じる仕組みの百年以上先を行くマーケティング戦略。知の支配構造だった。
全権代理人たちは、自らの掌にある漆黒の化粧箱が、単なる包丁の容器ではないことを理解し始めていた。
それは、数世紀にわたり欧州を支配してきた既存の階級社会と価値体系を解体し、ISCを頂点として再構築するための、静かなる「爆弾」だった。




