異世界みたいなアメリカのミッドナイト・ブルー
1910年1月20日。
ロサンゼルスのダウンタウン、スプリング街 (Spring St)の一角。郡庁舎から目と鼻の先にあるその界隈は、ガス灯の装飾美を継承した鋳鉄製の電気街灯 (Electrolier)が立ち並び、ビルの谷間を馬車や初期の自動車が行き交う、喧騒の中心地だった。
イチタロウが足を踏み入れた『グリーンウッド法律事務所』は、古びた石造りの建物の一階にあった。
扉を開けると、外の騒音が嘘のように遮断される。事務所内は、マホガニー材で統一された重厚な家具と、高い天井から下がる電球の柔らかな光に満たされていた。
入口のすぐ右手に、古風なオーク材のカウンターがあり、上品な黒髪の女性秘書、マーサ・ジョンソンがタイプライターに向かっていた。
「いらっしゃいませ。ミスター・グリーンウッドとはお約束で?」
「イトウ、イチタロウです。四時半に予約しています」
「ええ、承知しております」マーサは優雅に微笑み、電話の受話器を耳に当てた。「イトウ様がお見えになりました。どうぞ、そのまま奥の応接室へお入りください」
イチタロウは待合室に通されることなく、前回と同じように、そのまま応接室へと案内された。クライアントを待たせないのは、この事務所の信条らしかった。
定刻通りに、イチタロウを出迎えたのは、白人のベテラン弁護士、アーサー・グリーンウッドだった。
1月7日、グリーンウッドに、刃の付いた軟鉄製の一体型中型包丁を見せたイチタロウは、屋号登録と商標登録を依頼していた。
グリーンウッドは日系移民の顧客も多く抱えていた。コミュニティ内では信頼されていたが、イチタロウのことも「両親を亡くして少しおかしくなった若者」という噂を聞いたようだった。
グリーンウッドは、穏やかだがどこか探るような眼差しでイチタロウを見て、奥の応接室へと促した。
「ようこそ、イトウさん」グリーンウッドは椅子に腰を下ろしながら、軽い雑談を振った。「いや、それにしても、この一週間は街中が浮き足立っていましたな」
「航空ショーのことですか?」イチタロウが応じると、弁護士は笑みを深くした。
「ええ、まさに。私も先週末、家族を連れて『ドミンゲス・ヒルズ』まで足を運びましてね。アメリカ史上初の国際航空祭、素晴らしい光景でした」
「私も先週末に」とイチタロウ。「未来が目の前で開かれるような、そんな体験でした」
「ライト兄弟の飛行機が空を飛ぶ姿は、まさに時代の変わり目を象徴しているようでしたな」
グリーンウッドは、ふと真顔に戻り、手元に置かれたファイルに視線を落とした。
「さて、先々週ご依頼いただいた『ISC (イトウ・スチール・カンパニー)』の件ですがね。郡書記官事務所での屋号登録は無事に完了しました。事業所住所として指定されたサード街 (E 3rd St)134番地の倉庫住所で、公示手続きも開始しています」
グリーンウッドは、分厚いファイルを捲りながら続けた。「これで、あなたは法的に『ISC』という名称でビジネスを行う権利を得たわけです。新聞広告の掲載も手配しました。そして、肝心の商標登録ですが……」
そして、言葉を切ると、イチタロウが先日持参した、軟鉄製の包丁を思い出していた。それは、刃も柄も全金属製だが、独特の重心バランスを持つ、くすんだ灰色の包丁だった。
「このデザインと、あなたが仰る『錆びにくい特殊合金』の商標を、連邦特許商標庁に申請中です。ただ……」
グリーンウッドの脳裏を、リトル東京で囁かれる「あの若者は畑を売って奇妙な包丁を作っている」という噂がよぎる。この事業が成功する可能性は低いと判断していた。
イチタロウは、彼の懐疑的な視線を静かな微笑みで受け流した。
グリーンウッドはため息をついた。
「……まあ、私が口を挟むべきことではありませんな。とにかく、手続きは滞りなく進んでいます。来週には、各カタログ会社から何らかの反応があるはずです。万が一、契約の話が進めば、私の事務所が五社の代理人弁護士と交渉します。抜かりはありません」
彼は電報用紙を一枚取り出した。「こちらが、今日の時点までの途中経過の報告書面です。何か進展があれば、すぐに電報でご連絡します」
グリーンウッドは、クライアントであるイチタロウ・イトウを見送る準備をしていた。一般的な経過報告を終え、あとは形式的な挨拶だけだと思っていた、その時だった。
「グリーンウッドさん」
イチタロウの声は、有無を言わせぬ硬質さを帯びていた。
「実は、五社との会談の日程が決まりました」
「な、何ですって? 会談が?」グリーンウッドは、耳を疑った。
「先ほど、倉庫の方に電報が届きました。五社の全権代理人、および法律顧問団がロサンゼルスに集結するそうです。日時は1月24日、月曜日の午前十時。場所はアレクサンドリア・ホテルです」
イチタロウは、まるで天気の話でもするかのように淡々と告げた。
グリーンウッドは、手に持っていた報告書を危うく落としかけた。アレクサンドリア・ホテル――四年前開業した、ロサンゼルス待望の最高級ホテルだ。映画スターや大統領が定宿とし、ロビーの「100万ドルのカーペット」の上で歴史的なビジネス交渉が行われる。
今のロサンゼルスの社交の殿堂だ。
呆然とするグリーンウッドに、イチタロウは追い討ちをかけた。
「参加者十二名のオールデイ・セッションをプライベート・ダイニング・スイートに予約してあります。ランチョン (Luncheon)を伴う形での予約です。そして、グリーンウッドさん」
イチタロウは、初めて弁護士の目を見据えた。
「会談には、約束通りに、あなたにも同席していただきたい」
グリーンウッドは、職業柄アレクサンドリア・ホテルを何度も利用し、その格式の高さや物価の高さを熟知していた。そんな場所で、いきなり五社合同の、しかも国際的な交渉が行われるという事態が、イチタロウという「少しおかしくなった若者」と結びついていなかった。
(やれやれ。相手方の弁護士事務所に確認の電報を入れないとな)
「相手方の出席者名簿も電報に記載されていました。ご確認ください」
イチタロウが差し出したメモ用紙に、グリーンウッドは視線を落とした。上から順に、見覚えのある、いや、見覚えがありすぎる弁護士事務所の名前が並んでいた。
「承知いたしました。1月24日、アレクサンドリア・ホテルですね」
アーサー・グリーンウッドは、努めて冷静さを装いながら頷いた。メモを懐に入れ、イチタロウが応接室を出るのを見届ける。扉が閉まった瞬間、グリーンウッドの額から一筋の汗が流れ落ちた。
イチタロウを見送った後、彼は執務室のデスクに飛びつくようにして、ベルを鳴らした。
「マーサ、入ってくれ!」
すぐに、秘書のマーサが入室してきた。彼女は手帳を片手に、次の予定を尋ねようとしていた。
「グリーンウッド様、次のクライアントが……」
「それどころではない!」グリーンウッドは声を荒げた。「1月24日のスケジュールを至急確認してくれ! 午前10時から、アレクサンドリア・ホテルで会議が入る!」
マーサは目を丸くした。「1月24日は月曜日でございますね。午前中は、鉄道関連の訴訟の打ち合わせと、午後は不動産取引のクロージング (決済と物件引き渡し)が……」
「すべて組み替えろ! 延期だ! 緊急の国際案件が入った!」
マーサは、普段の冷静沈着な所長の様子に気圧されながらも、電話をかけに執務室を出て行った。
グリーンウッドは、自分の手帳に急いでメモした相手方の名前をもう一度見つめ直しながら、思わず呟いていた。
「ハロッズの法律顧問が、ブレイクリー法律事務所の主任弁護士……。アーミー&ネイビー法律顧問は、……ここはカーネギー系の企業担当の弁護士事務所だったか? チーフ・カウンセラーは、ニューヨーク州弁護士会のジョン・ヘンリー・ボストン……。嘘だろ、おい」
いずれも、ニューヨークやロンドンの一流企業法務を専門とする、この西海岸では滅多にお目にかかれない大物弁護士たちだ。彼らが出張してまでロサンゼルスに来るということは、イチタロウの製品が本物であり、彼らが本気で独占契約を狙っている証拠だった。
(まずい……あの若者は本当に天才なのか? いや、それよりも、この錚々たる面子を前に、この私が代理人を務めきれるのか?)
グリーンウッドは、アレクサンドリア・ホテルの豪華なパーラーで、彼らが冷徹な目で自分を見つめている光景を想像し、再び冷や汗をかいた。
「マーサ、今日の午後の予定はすべてキャンセルだ。ニューヨークのジョン・ヘンリー・ボストン氏の事務所に、至急、私が代理人として同席することの確認電報を打ってくれ。それから、この『ISC』という案件に関するすべての法律を洗い直す。今すぐにだ!」
グリーンウッドは、イチタロウの話が本当かどうか確かめる確認電報を打たせることを、すっかり忘れていた。
スプリング街 (Spring St)のグリーンウッド法律事務所を出たイチタロウは、街灯りが瞬き始めたダウンタウンを足早に横切った。東へと向かうにつれ、石造りのオフィスビル群は背を低くし、アジアの香辛料や醤油の匂いが混じり合う、活気あるリトル東京のメインストリートへと風景は移り変わる。
目的のテーラーは、ファースト街 (E 1st St)から少し入ったロサンゼルス街 (Los Angeles St)沿いにあった。日系移民の職人たちが集まるその通りは、「仕立屋横丁」と呼ばれていた。
『ミヤコ・テーラー』
年季の入った木製の看板には、達筆な日本語と英語で屋号が記されている。
店内はこぢんまりとしているが、隅々まで手入れが行き届き、蒸気とウールの匂いが充満していた。壁には、エドワード朝後期の最新流行を伝える英国のファッション誌の切り抜きがピン留めされ、様々な色と柄の生地見本が積み上げられていた。
店の奥では、老齢の職人であるタナカが、ミシンの前で猫背になって作業をしていた。イチタロウが入ってくると、彼は顔を上げ、少し困惑したような表情を浮かべた。
「イトウさん、お待ちしておりました」
タナカはイチタロウを店の奥のフィッティングルームへと招き入れた。そこには、注文していた二着のスーツとコート、そしてワイシャツが一式揃えられていた。
まずは、グレーのスーツ。当時のビジネスマンが着用するごく標準的なサックコート・スタイルだ。ツイードのコート、取り外し式の白いカラーシャツ。すべてが常識的で堅実な選択であり、非の打ち所がない。
イチタロウは、すぐに視線を隣にあるミッドナイト・ブルーのスーツへと移した。
それは、タナカ渾身の一作だった。エドワード朝後期の流行を取り入れたハイカット・スーツは、Vゾーンが狭く、ボタン位置が高い。威厳があり、制服のような規律正しさを感じさせるスタイルだ。ミッドナイト・ブルーの生地は、ガス灯の光を受けると、深い黒のようにも、濃紺のようにも見えた。
シルバーグレーのシルクタイが、狭いVゾーンから覗いている。
だが、問題は、仮縫いの際にイチタロウが持ち込んだボタンとカフスボタンだった。
「イトウさん、やはりあのボタンは……」
タナカは心底がっかりした様子で言った。それは、ボタンホールを隠すように上から被せる変わったボタン――珍しい工夫がしてあったが、素材は軟鉄製だった。よく磨かれてはいるが、安っぽさは否めない。
「このスーツは最高級のパテントレザー (エナメル革)の内羽根式ストレートチップ・オックスフォードに合うよう考えて製作しました。ですが、あのボタンだけは……」
「これでいいんです、タナカさん」イチタロウは静かに受け流した。
タナカはため息をついた。「いつでも、本物の金属ボタンに取り替えられるようにしておきますよ。一時間もかかりません。そうしないと、このスーツが泣いています」
イチタロウは微笑んだ。この軟鉄のボタンと、これから受け取りに行く靴の靴紐の先にある金具 (アグレット)は、会談前に『錬金術』で鏡面ステンレスへと錬成される予定だった。西海岸で唯一の「本物」は、彼の身につける装飾品となる。
「これもいただきます」
イチタロウは、ベージュと黒のサスペンダー二本を手に取った。
1月7日の注文時、彼はすでに総額から仕立て代の半額を支払っている。グレーのチェスターフィールドコート、三揃い、ワイシャツ六枚、ネクタイ二本の衣服一式の35ドル。ミッドナイト・ブルーのアルスター・コート、三揃い、ワイシャツ二枚、ネクタイ一本の衣服一式の65ドル、合わせて100ドルのうちの50ドルは預け金として支払い済みだ。
「残りの50ドルと、サスペンダーの2ドル。……合わせて52ドル。これでいいですね」
タナカは不承不承、金を受け取った。
「ええ、確かに。……イトウさん、気が変わったらいつでもおいでなさい。その軟鉄のボタン、一時間で真鍮か銀に変えてみせますから」
老職人の親切な念押しを背に、イチタロウは大きな荷物を抱えて店を出た。
午後五時四十五分。
『ミヤコ・テーラー』の古びた引き戸が閉まると、外の空気はシンとして、冷たさを増していた。乾いた快晴のロサンゼルスの空は、日没後の市民薄明の終わり頃に差し掛かっていた。
西の地平線は、まだ淡いオレンジ色の残光を残しているが、頭上はすでに深いミッドナイト・ブルーの帳が下りつつあった。街の灯や、時折通り過ぎる自動車のヘッドライトが、石畳を湿り気もなく照らしていた。
イチタロウは、仕上がったばかりのグレーのスーツ一式を抱え、タナカから手渡されたミッドナイト・ブルーのスーツが収まった大きな木箱を脇に抱えていた。
彼はふと足を止め、空を見上げた。
西の地平線にはまだ淡いオレンジ色の残光が残っていたが、頭上のミッドナイト・ブルーの空には、満月に向かって丸みを帯びた、ワキシング・ギボス (Waxing Gibbous・小望月)が、冷たい光を放っていた。
イチタロウは、四日後のアレクサンドリア・ホテルでのカタログ販売会社五社との会談を考えていた。
鏡面ステンレスに『錬成』したミッドナイト・ブルーのスーツのボタン・カフスボタンを目にした五社の全権代理人、および法律顧問団の目には、これから確かに満ちていく満月のように見えるか、これから近づいてきては去って行く大彗星 (Halley's Comet)のように見えるのかを考えていた。




