異世界みたいなアメリカのナイト・オブ・ザ・キュー
1月10日、約束の午後。イチタロウはサトウの工場から借りた堅牢な革製のボストンバッグ二つを手に、紙器職人の工房の暖簾をくぐった。
「……できたぞ。手間をかけさせやがって」
老職人が差し出したのは、注文通り、漆黒の上紙に金箔押しが施された二十四の化粧箱だった。イチタロウは一箱ずつ手に取り、箔の潰れがないか、ベルベットの毛足が寝ていないかを入念に確認した。
代金として、イチタロウは30ドルをテーブルに置いた。
「……おい、多すぎるぞ」
老職人が絶句した。当時の相場なら、高級な葉巻入れの箱ですら一つ50セントもあれば釣りが来る。1ドル25セントという価格は、老職人の技術への敬意という名目の、法外な祝儀だった。
「いえ、手間をかけた分です。それから、預けていた包丁を」
イチタロウは、化粧箱の採寸用に預けていた軟鉄の包丁一本を回収した。
その包丁を布で巻いて傍らに置くと、完成したばかりの化粧箱を一つずつ丁寧に油紙で包んでから、二つボストンバッグの底へ隙間なく詰め込んでいく。
化粧箱同士が擦れて傷がつかぬよう、持参したフランネルの布を緩衝材として挟み込むその手つきは、まるで壊れ物を扱う学者のようだった。
工房を出て、ファースト街 (E 1st St)を南へ折れ、セントラル・アベニューとセカンド街(E 2nd St)の交差点をイチタロウは歩いていた。
目指す下宿は、日本人たちの間で『美景荘』と呼ばれている『ベラ・ヴィスタ・アパートメント』だ。四日に定宿を引き払って、この下宿に入居していた。
家賃は月に14ドル。安宿の倍近いが、その分、一階の居間には磨き抜かれたピアノがあり、女将の厳しい目が泥棒や酔っ払いを寄せ付けなかった。
何より、2026年の記憶を持つ彼にとって、清潔なリネンと鍵のかかる堅牢なオークのドアは、事業を練り上げるための最低限の必要経費だった。
元は白人の邸宅だったものを改装したその洋館は、リトル東京の安宿に特有の湿った匂いとは無縁で、女将のミツが磨き上げた廊下には、ほのかに蜜蝋の香りが漂っていた。
「お帰り、イチタロウさん。今日も包丁いじりかい?」
一階の居間で声をかけてきたのは、ミツだった。彼女はイチタロウがサトウの工場で「軟鉄の包丁」を打っているという噂を、リトル東京の社交場――という名の井戸端――ですでに聞きつけていた。
「ええ、一つ形になりました」
イチタロウはバッグから、『ISC』のロゴのみが箔押しされた漆黒の化粧箱を恭しく取り出して見せた。ミツは目を丸くし、おっかなびっくりその化粧箱の縁を指先でなぞった。
「……まあ、なんて綺麗な化粧箱。それでもさ、中に入るのはあの『軟鉄包丁』なんだろう? 勿体ないねえ。でも、こないだ持たせてもらった時の重さは、なんだか不思議な感じがしたよ。普通の包丁よりずっと、手に吸い付くような……」
そう言いながら、ミツは当時の記憶を呼び起こすように手を動かしていた。
サトウの町工場から軟鉄の包丁を持ち帰った時、興味ありげなミツに、相手先に送る見本品だといって一度持たせてみたことがあったからだ。
日雇い労働者の日給に近い、鋼の大型・中型・小型の西洋包丁を何本もミツは使い分けていたが、それらは軽量な木材の柄で鋼の芯材 (フルタング)を挟み込んだ構造であったため、重心は必然的に前方に寄らざるを得ない。
1910年の世界には、手元の人差し指が当たる位置で包丁の均衡が保たれる人間工学的な『万能中型包丁』という概念はまだ存在しない。
「あの包丁の重さは、使う時の力の流れを計算してあるんです。おばさん」
イチタロウは軽く会釈し、二階南向きの角部屋へと階段を上がった。
部屋に入ると、彼はすぐにドアの頑丈なオーク材の鍵を回した。冬の低い西日が、まだ何も置かれていない殺風景な机の上を、オレンジ色に焦がしている。
イチタロウはバッグから回収してきた包丁を机に置いた。
念のためドアの施錠を確認してから、隠しておいた残りの十本をその横へ並べていく。二列に整列した十一本の包丁が、夕日に鈍く光っていた。
これから行うのは、工学的な「加工」ではない。指先を添えて『異世界の言語』を唱え世界の理を書き換えていく魔法の儀式だ。
一番左、手前に置かれた包丁の柄に、右の人差し指を当てる。
『――構成、置換。不動態皮膜、展開』
チリッ、と静電気のような音が空気を焼き、鈍い灰色の軟鉄が、内側から発光するかのように白銀の鏡面へと変貌を遂げた。
原子配列が組み替えられ、クロムが表面へと析出する。2026年の科学ですら容易には到達し得ない、ナノレベルで平滑化された完璧なステンレス鋼への昇華。
それをトントントンと右端の五本目まで続けると、鏡面となった刀身が次々と西日を跳ね返し、壁の上に鋭い光の帯を刻んでいった。
切刃を机に預け、わずかに傾いて並ぶ鏡面ステンレスの列は、イチタロウに「太陽光パネル」を連想させた。
イチタロウは、ボストンバッグの一つから慎重に漆黒の化粧箱を取り出していくと、清浄なリネンの布で「魔法」の産物を丹念に拭い、ベルベットの寝床へと収めていく。
この時代のプレス加工は精度に揺らぎがあるが、柔らかな布地はその差異を優しく吸収し、一体型包丁を黄金の比率で固定した。
残された最後の一本―― 回収してきたあの軟鉄の包丁だけは、文鎮代わりに机の上に置かれた。
この軟鉄の包丁は荒研ぎのままで、刃を付けていない。最初にプレスで打ち出されただけの無骨なプランク (抜き板)だ。
それは、命を削って開墾した父と、学問の光を信じた母の、果たせなかった夢の「未完成な記録」そのもののようだった。
1910年1月11日。ロサンゼルスは、前日に幕を開けたアメリカ史上初の航空祭「ロサンゼルス国際航空祭」の熱狂に揺れていた。
朝七時のファースト街 (E 1st St)の市場へ向かう馬車の蹄の音が石畳を叩き、サンタフェ鉄道のセントラル駅 (Santa Fe Central Station)の機関車が吐き出す巨大な蒸気が、朝の冷気に白く溶け込んでいく。
イチタロウは、粗末な荒縄で括られた木箱を両手に五個づつぶら下げて、下宿先から徒歩十分ほどにある駅の旅客ターミナルへと向かっていた。
近所の雑貨商や青果市場から譲り受けた空き木箱を、下宿の金槌で分解して作った即席の輸送箱だ。その中身は一箱につき「一体型鏡面ステンレス中型包丁」が一本づつ、あの漆黒の化粧箱に収められている。
それは輸送中の脱落や、エキスプレスマンによる「中身の確認」という名の盗難を防ぐために、箱の外側は硬質なスチールバンドで十字に固く締め上げられていた。
木箱の表面には、黒いインクでニューヨークの各宛先と、荷を扱う者たちへの警告の「割れ物注意 (Glass)』『取扱注意 (Handle with Care)』の文字が、端正な書体でステンシルされている。
イチタロウは荒縄で括った十個の木箱を、大手輸送会社「ウェルズ・ファーゴ・エクスプレス」の貨物窓口へ積み上げた。
「これら全てに、一個につき500ドルの保険 (申告価格)をかけたい」
窓口の係員の手が止まった。一箱につき基本運賃1ドル30セント、さらに高額申告への従価料金45セント。十箱の総計17ドル50セント――。日雇い労働者が一ヶ月働いてようやく手にする大金だ。
その瞬間、木箱の格付けが変わった。
箱には「貴重品」を象徴する鮮やかな赤と黄色のラベルが貼られ、一般貨物の山から隔離された。それは、選ばれた荷のみが通る厳重な管理ルート (Value Route)への招待状だった。
「おいおい……金の延べ棒でも詰まっているのか?」
職員の驚き混じりの軽口を背中で聞き流し、イチタロウは窓口を後にした。
(――これで、輸送中は専用の金庫 (Waybill Safe)に、武装したメッセンジャーがショットガンを抱えて死守する。だが、真の狙いは警備そのものではない)
貨物伝票に記された「500ドル」という法外な数字は、ニューヨークで荷を解くゲートキーパーたち――購買代理店や委託代理人といった、海千山千の「目利き」の眼球を強制的に釘付けにする。
(不審と好奇が混ざり合った手で、彼らがスチールバンドを切り、木箱をこじ開ける瞬間が勝負だ。漆黒に金箔の化粧箱を開けて、ベルベットに横たわる鏡面の刃を目にしさえすれば、彼らは己のキャリアを賭けてでも、本国へ向けて熱狂的な推薦状 (Letters of Introduction)を添えて送るだろう)
イチタロウが駅を出ると、皆が皆、「航空祭」を開催している南の空を気にしながら歩いている。
手ぶらのイチタロウの心は、どんな飛行機よりも高い空を飛んでいた。
1910年1月17日、月曜日。マンハッタン。
石畳を叩く蹄の乾いた音と、普及し始めたガソリン車の不規則な排気音が混ざり合い、霧雨のブロードウェイを騒がしく包み込んでいた。
ウェルズ・ファーゴの荷馬車が、追い越していく電動タクシーの無遠慮な警笛に馬を驚かせながら、ゴールドマンの事務所前で急停止する。
御者台から飛び降りたのは、伝統的な濃紺の制服を着たエクスプレスマンだ。背後では最新型の1910年型パッカードが青白い煙を吐いて走り去っていくが、彼は慎重な手つきで、厳重に施錠された荷台から「1000ドルの貴重品」を恭しく運び出した。
午前8時。ブロードウェイに近いオフィス街。高級百貨店「ハロッズ」や「アーミー&ネイビー」など欧州各社と契約し、アメリカ全土の流行を監視する「購買代理店 (Resident Buyer)」のアーサー・ゴールドマンの事務所に、その二つの木箱は届けられる。
霧雨に濡れた制服に身を包んだルート・メッセンジャーの腰には、コルト社のリボルバーが光り、その手首には「貴重品金庫 (Waybill Safe)」の鍵が鋼鉄のチェーンで繋がれている。
「『貴重品 (Value)』だ。ここにサインを」
メッセンジャーは、他の一般貨物とは一線を画す赤と黄色のラベルが貼られた二箱を、事務所の受付にドスンと置いた。
受け取ったのは、ゴールドマンの右腕であり、英国的な冷徹さと米国的な抜け目なさを併せ持つ主任バイヤー、ウィリアムだ。
「500ドルの保険? 中身は……包丁だと?」
ウィリアムは、送り状 (Waybill)に記された異常な申告額と、ロサンゼルスからの運賃・従価料金がすでに全額前払いされているのを見て、鼻で笑った。
「どうした、ウィリアム」
奥からコーヒーカップを片手に現れたのは、所長のゴールドマンだ。彼はロンドン本国との折衝を一手に引き受ける、鋭い審美眼の持ち主である。
「今度は500ドルの保険をかけた包丁だそうです。二箱ですから計1000ドル。西海岸の田舎者が、また派手な宣伝を思いついたようですよ」
「ああ、なるほど」とゴールドマンは肩をすくめた。
「高額な保険をかけて目立とうとする、いかにもアメリカ流の浅知恵だ。開けてみろ。どうせゾーリンゲンの粗悪な模倣品に、安物のメッキでも塗ってあるんだろう」
「おい、みんな来い! 一挺500ドルの『伝説の包丁』がお出ましだぞ!」
ゴールドマンが声を上げると、出勤したばかりの若手バイヤーたちが、ニヤニヤと失笑を浮かべて集まってきた。
ウィリアムがバールを手に取り、端正なステンシルが施されたスチールバンドを鮮やかに切り飛ばす。
蓋をこじ開けた瞬間、一同の笑いが、ふっと消えた。
「……ほう、タール紙 (防水紙)で内装を固めているのか」
木箱の内側は、湿気を防ぐタール紙が隙間なく貼り付けられ、その厳重さは精密機械の輸送のようだった。
敷き詰められた木毛をかき分けると、油紙に包まれた二通の手紙が出てくる。
「宛先はうち (NY代理店)と、ロンドン本店のマネージャー宛か……。ハハッ、手間だけは一人前だ!」
ウィリアムがタイプライターの文字を読み上げると、若手たちが失笑した。文字サイズの大きさと少し横幅のある独特なセリフ体を見れば、それがアンダーウッドNo.5で打たれたものであることは、毎日大量の書簡を捌く彼らにはすぐに分かった。
そして、木毛の底から、さらに重厚な油紙に包まれた漆黒の箱が現れた。
油紙を剥ぎ取った瞬間、室内の空気が変わった。
そこにあったのは、マンハッタンでも滅多にお目にかかれない見事な漆黒の化粧箱だった。
中心には『ISC』のロゴが、装飾を一切排した、野心的なまでに真っ直ぐで太い金箔押しで輝いている。当時の流行である優雅な筆記体とは対極にあるアクチデンツ・グロテスク。機械的なまでの規律を感じさせる書体だ。
その最下部には、銀行の証券か一流紙のレターヘッドでしか見かけない、鋭利な角を持つカッパープレート体で、一分の潰れもなく『LOS ANGELES, CALIFORNIA』と刻まれていた。
「箱だけで500ドルの保険だ!」
誰かの冗談に大爆笑が起こる。だが、その笑いは長くは続かなかった。
ウィリアムが指先で箱の蓋を押し上げる。
――刹那。
窓から差し込む冬の鈍い光が、暗いボルドーのベルベットに横たわる「それ」に触れた瞬間、シャボン玉のように光が膨らんだ。
ひょっこりとまあるい光が机の上に立ち上がった。
「……何だ、これは」
誰かが祈るように息を呑んだ。
そこにあったのは、淡い光に今にも溶けそうな、一体型鏡面ステンレス中型包丁だった。
ガチャン、と。
ゴールドマンの手から、コーヒーカップが床に落ちて砕ける音がした。




