異世界みたいなアメリカのリトル東京
1910年1月上旬。
リトル東京のメインストリート、ファースト街 (E 1st St)は、木造二階建てから三階建てのレンガ造りの商業ビルが並び、開通して間もない路面電車の音が響く活気ある一角だった。
その路面電車が軋んだ音を立てて通り過ぎる表通りの喧騒から逃れるように、イチタロウとヤマザキは「アサヒ・ベーカリー」の奥にある煤けたテーブルに座っていた。
店内には、リトル東京の朝を告げる焼きたてのパンの匂いと、一世たちが啜る濃いコーヒーの香りと安煙草の煙が混ざり合っている。
ヤマザキは、厚手の白いカップに入ったブラックコーヒーを一口啜り、テーブルに置かれた売買契約書を苦々しげに見つめた。
そこには、イチタロウの変貌に対する不快感に近い戸惑いがあった。
「……イチタロウ、本当にいいのか。ここは、お前の親父さんの血そのものだぞ。5エーカーの優良地、しかもあの作蔵さんが爪を剥がしてまで開墾した土地だ。相場なら1エーカー1000ドルは下らん。それを850ドルで……叩き売りじゃないか」
ヤマザキは、日系移民社会の重鎮でありながら、亡き作蔵への義理立てから、この「安すぎる買収」を何度も確認しに来ていた。
彼にとって850ドルという数字は、作蔵の人生を買い叩いているようで寝覚めが悪かったのだ。
対照的に、イチタロウはカリカリのトーストを平然と口に運び、穏やかな、しかし拒絶の色を含んだ笑みを浮かべた。
「いいんです、ヤマザキさん。泥を啜るのは僕の代で終わりにするって、父もよく言ってましたから。それに、借家もすでに白人の大家に返しました。今の僕には、あの広すぎる土地を持っていても、耕す手も馬もありません」
「……リトル東京に移るというが、あてはあるのか?」
「ええ、セントラル・アベニューとセカンド街(E 2nd St)の交差点付近近くの下宿屋を借りました。前にも言いましたが、これから会社を立ち上げるつもりです」
「……ああ。あの包丁を作るというやつだな。なあ、せっかく入った大学に戻った方がいいんじゃないのか? その方がキヨさんも…………」
窓の外では、吹き付ける寒風が通行人の外套を揺らしている。
ヤマザキは、目の前の若者の瞳に宿る、かつての「孝行息子」とは似ても似つかない、冷徹なまでの決意に背筋が寒くなるのを感じた。
「……作蔵さんも、まさか自分の息子が、1エーカー150ドルの差額を『授業料』だと言って笑い飛ばすような男になるとは思っていなかっただろうな」
「ヤマザキさん。差額の150ドルは、僕達がこの国で『人間』として扱われるための、最初の武器の代金ですよ」
イチタロウは席を立ち、「ハムエッグのトーストセット」の代金をテーブルに置いて、冬の街角へと消えていった。
「アサヒ・ベーカリー」の重い扉を押し開けて外に出ると、冷え切った一月の空気がイチタロウの頬を叩いた。
馬車の車輪が深い轍に溜まった泥を跳ね上げ、普及し始めたばかりのT型フォードの青白い排ガスが、界隈に漂う醤油の匂いや、安宿の窓から漏れる湿った埃の匂いと混ざり合い、この街独特の移民の生活臭を作り出していた。
イチタロウは北側の外れへと歩を進めた。目指すのは、かつて父が壊れた鍬や馬耕用具を修理に出していた町工場。サトウの作業場だ。
工場のトタン屋根が見えてくると、聞き慣れた旋盤の唸り声が響いてきた。油と鉄錆の匂いが充満する薄暗い小屋の中では、散る火花が壁に掛けられた古びた工具を不規則に照らしている。
「……本当にやるのか、イチタロウ。軟鉄の包丁なんて、今どき町の雑貨屋でありふれてる。誰でも作れるような安物に手を出したって、手間賃にもなりゃしねえ。赤字で首を括るのが関の山だぞ」
イチタロウの姿を認めるなり、サトウは作業の手を止めて、顔に飛んだ油を拭った。
「ヤマザキさんに会ってきたんだろう? 畑を売った金があるなら、もう一度大学へ戻ればいい。わざわざこんな鉄屑にまみれる生活に自分から飛び込むことはねえだろうが」
サトウの言葉は、職人としての、そして父の友人としての心からの忠告だった。だが、イチタロウはただ静かに微笑を返した。
「……はあ。まあいい、頼まれていた型はできてる」
サトウは溜め息をつき、作業台から鋼鉄製の合わせ型 (オス・メス)を差し出した。脂ぎった指でその冷たい金属の縁をなぞり、サトウはもう一度、念を押すように若者の顔を覗き込んだ。
「イチタロウ、お前……親父さんが死んで、本当に頭がどうかしたんじゃねえか。柄まで鉄で出来ている包丁なんて聞いたことがねえよ」
「……作ってくれるだけでいいんです、サトウさん。あとの『仕上げ』は、僕にしかできないやり方でやりますから」
その瞳の奥に宿る、冷たく透徹した、どこか人知を超えたような「熱」に当てられ、サトウは毒気を抜かれたように首を振った。
「わかったよ、もう言わねえ。他所の白人の工場へ行けば、大学出の世間知らずだと思って100ドルはふっかけられるだろうからな。……15ドルだ。その代わり、工場の隅を貸してやるから自分でやれ」
イチタロウは15ドルを支払い、工場の片隅にある旧式のネジ式手動スクリュープレスに向かった。
ガチャン、ガチャンと、鈍い音を立てて軟鉄の板が包丁の形に打ち抜かれていく。7インチ (約180ミリ)の中型万能包丁――1910年の技術では、ただの安価な「なまくら」でしかないはずのプランク (抜き板)。
その様子を、休憩中の工員たちが離れた場所から眺めていた。彼らの目には、期待の新星だったはずの二世の若者が、絶望のあまり現実を見失った姿に映っていた。
「見てみな、あのイトウさんとこの息子だ。大学まで行って、結局やるのは町工場の隅っこで、儲かりもしねえ軟鉄の包丁作りかよ」
「イチゴ畑まで叩き売っちまって……。死んだ親父さんも、浮かばれねえな」
哀れみと蔑みが混ざった囁きが背中に刺さる。だが、イチタロウは止まらなかった。
プレスの加工工程で包丁の縁からはみ出したバリを取り、グラインダーで荒研ぎをする。
リトル東京の片隅で、安っぽい火花を散らす軟鉄の板。
イチタロウの指先が軟鉄の一体型中型包丁に触れて、『構成、置換。不動態皮膜、展開』と『異世界の言語』を唱えた時。
イチタロウのポケットには「鏡面」に書き換えられたあのペプシの王冠が入っている。
イチタロウはサトウの町工場を出たその足を、リトル東京の職人街にある小さな紙器職人の工房へと向けた。
煤けた木造長屋の一角。糊と古い紙の匂いが立ち込める工房で、老職人はイチタロウが差し出した「軟鉄の包丁」を怪訝そうに眺めた。
「……柄も鉄の包丁を入れる箱だと? それも、この安っぽい軟鉄の包丁を収めるために、黒の上紙に金箔押し、内装はベルベット調の布を張れと言うのか」
職人の言葉には、隠しきれない困惑が混ざっていた。イチタロウが注文したのは、二種類を各十二箱づつ(各予備二箱を含む)。
一つは『ISC』のロゴのみ(30ポイント大文字)で。もう一つは、その下に欧州五社の名を(10ポイント小文字で)二段に連ねたものだ。
いずれも、最下部には、金箔押しの限界である8ポイント小文字で『LOS ANGELES, CALIFORNIA』と記されていた。
30ポイント (Five-line Nonpareil)は、広告や新聞の特大見出しや、街頭の掲示用。10ポイント (Long Primer)は、一般的な本の本文で新聞では「かなり大きな文字」だ。
8ポイント (Brevier)は、新聞の標準的な本文や辞書や細かい解説に用いられており、活字ではそれほど小さな文字ではない。
5.5ポイント (Agate)が、新聞の求人広告や株価一覧の極小サイズだろう。インクが滲むので、どのポイントでも文字が少し大きくなる。
だが、熱した真鍮版で金を叩き込むには、8ポイントというサイズはあまりに酷だった。アルファベットの小さな「A」や「E」の隙間が、熱で溶け出した糊と金箔で埋まってしまうのは火を見るより明らかだった。
「こんな細けえ文字、金箔が潰れちまうぞ」と老職人が毒づいた。
「まずは試してみてください」とイチタロウも頭を下げる。
「なぜ二種類も違うものを?」という職人の問いに、イチタロウは「客の好みに合わせるためです」と軽く受け流した。
老職人は、形こそ変わっているが、所詮、無価値な軟鉄の包丁にこれほど豪華な装丁を施す行為に、ある種の「詐欺」の匂いを感じて眉をひそめた。だが、奥から出てきた若い店員が、老職人の耳元で囁いた。
「……親方、この人、モンテベロで成功していたイトウさんの息子ですよ。両親を亡くして、大学も辞めて、あのイチゴ畑を二束三文で売っちまったって……」
その言葉を聞いた職人の目は、不信から深い憐憫へと変わった。
(ああ、そうか。可哀想に、あまりのショックで少し頭が……)
職人はそれ以上の追求を止め、「……わかったよ。金さえ払えば、望み通りの『夢の箱』を作ってやる」と、注文帳に筆を走らせた。
工房を後にしたイチタロウは、夕暮れのリトル東京を歩きながら、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。頭の中では、2026年のMBA的な経営戦略と、1910年の硬質な歴史の歯車が、火花を散らしながら噛み合っていく。
(あの黒い箱を開けた瞬間、彼らは「魔法」に触れたと錯覚するはずだ)
彼の思考は、この時代の流通を支配する覇者たちのデータ解析に没頭していた。
(シアーズ・ローバックやモンゴメリー・ウォードは、広大なアメリカを支えるカタログ販売の二大帝国だ。だが、彼らが売っているのはあくまで「安価で堅牢な日用品」に過ぎない。効率を優先する彼らのシステムでは、この「オーパーツ」の価値を正しく計上できない)
イチタロウは太平洋から吹き付ける冷たい潮風を深く吸い込み、ターゲットに定めた欧州五社のポートフォリオを脳内で展開した。
(まずはイギリス。アーミー&ネイビー。あそこは大英帝国の毛細血管だ。インドやアフリカへ赴任する将校や官僚たちが、生死を託す道具を一括注文する場所。あそこのカタログに載ることは、帝国の支配階級の信頼を独占するのと同義だ。
そしてハロッズ。ロンドンの富の象徴、最高級の審美眼。あそこが「鏡面」を認めれば、それは鋼鉄が芸術品としての地位を確立したことを意味する)
イチタロウの思考はドーバー海峡を越え、欧州大陸へと飛ぶ。
(フランスの二社は、役割が明確に違う。ル・ボン・マルシェは家庭の心臓だ。フランス中の主婦たちが食卓を彩るためにあそこのカタログをめくる。ISCの包丁が彼女たちの手に渡れば、台所から文化の革命が起きる。そこからプロのシェフたちへ波及すれば、欧州中の名門レストランがこの鋼を渇望するようになるだろう。
対してマニュフランスは、技術への狂信だ。銃器と自転車で鍛えられた彼らの目は非情なほどに厳しい。だが、だからこそ彼らがISCの鋼を「究極」だと認めれば、欧州全土のエンジニアたちが沈黙し、ひれ伏すはずだ)
最後に、イチタロウは燃えるような夕陽を背に、東――大西洋の向こう側へと目を向けた。
(そしてドイツ、シュトゥーケンブロック。精密機械の王国だ。ゾーリンゲンの名工たちが誇る刃物の歴史に対し、2026年のナノ構造を持つ鏡面ステンレスをぶつけたら、どんなパニックが起きるか……。想像するだけで、この指先が熱くなる)
イチタロウは、この一体型鏡面ステンレス中型包丁を、あえて英仏独の五社による「独占供給」という販路に絞り込んでいた。
米国のシアーズ・ローバックやモンゴメリー・ウォードといった巨大な流通網を通せば、即座に莫大な利益は上がるだろう。
だが、それでは「安価で便利な日用品」として消費され、歴史の波間に埋もれてしまう。
(アメリカでは入手叶わぬ、欧州の権威が認めた幻の『ISC』――そのブランドヒエラルキーを構築することこそが、排日運動という泥濘の中に、黄金の城を築くための唯一の勝機だ)
欧州の権威あるカタログにのみ名を連ねる特権的な製品としてブランディングし、西海岸の粗野な排日感情を、欧州の審美眼に盲従する米国上流階級の「所有欲」で上書きする。
それは、2026年のMBA的な「希少性(Scarcity)」と「威光(Prestige)」を鍵として、人種という名の強固なバイアスを内側から解体する、知の侵略であった。
そのための端緒が、この「一体型鏡面ステンレス中型包丁」である。
『ISC』という硬質な球をキューで突き、まずはヨーロッパの特権階級を打つ。その衝撃が連鎖し、大西洋を越えてアメリカ東海岸の門閥家たちに届く。そして、東海岸の洗練を羨望するこの西海岸の新興富裕層・権力者たちへと、逃れられぬ慣性を持ってぶつかっていくのだ。
鍵となるのは、最初の一撃の初速――『ISC』という球に、どれほどの物理的・文化的衝撃を込めるかにある。
リトル東京の雑踏の中、定宿へと歩を進めるイチタロウの背中には、もはや一介の移民の悲哀など微塵もなかった。
そこにあるのは、世界市場という広大なビリヤード台を冷徹に見下ろし、歴史の配置を書き換えようとするビリアーディスト(Billiardist)の、静かなる威厳であった。




