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流れ落ちる花の下

作者: 柳瀬あさと


 桜の木の下に屍体が埋まっているのなら、藤の木の下には何が埋まっているのかしら?

 だってそうでしょう? 美しさで言ったら、藤の花だって眩暈がするほどよ。藤の花だって異様なのよ。そして美しいのよ。

 満開の藤の木の下に立って御覧なさい。根元に立ち、空を見上げて御覧なさい。

 そこには流れ落ち、舞い落ちてくる花で一杯よ。下に下に、まるで地面に恋しているように花の房はその身を垂らしているの。

 木の下で花の房たちをじっと見ていると、自分が落ちているような気分になるわ。地面の中に沈んでいく気分になるの。ねぇ、恐ろしいでしょう? 気が遠くなるあの錯覚。あんなに恐ろしいのにそれでもあんなに美しいだなんて、藤の木の下にも何か埋まってるんだわ。

 ……いいえ、埋まってるの。

 桜が埋まっている屍体を養分にして美しく咲くように、藤も埋まっているものを養分にして美しく咲くのよ。全部全部、養分にして、咲いて、いつか埋まっているものが無くなるまで、吸い取って、咲いて。無くなるまで。

 藤の木の下にも何かが埋まっているのよ。だけど、絶対に掘り返してはいけないの。

 絶対に、いけないのよ。




* * *




 姉が死んだ。

 生まれた時に長く持たないと言われていた体は、二十一年目の冬、疲れたかのようにゆっくりと活動を停止した。果たして二十一年という時間は持った方なのか持たなかった方なのか。

 体の弱かった姉を、僕はずっと色々と助けてきた。時には友人との約束よりも姉を優先して、守るように姉に接してきた。生活の大半が姉を中心に回っていたと言ってもいい。

 そんな姉の通夜も葬式も終えたのに、未だに僕には感情の乱れも何もなく、涙一つ零れやしない。


「拓海、大丈夫?」


 疲れきった顔をした母が、そっと僕に尋ねてきた。母の方こそよっぽど大丈夫かと聞きたい。けれどそんな事は口に出さず、ただ静かに頷いた。

 火葬場の控え室は暖房が効き過ぎていて、空気が悪い気がした。僕は新鮮な空気を求めて一人で外に出る。誰も止めなかったのは、気遣っているか気付いていないのだろう。

 しゅんという軽い音と共に自動ドアが開く。冬の冷たい空気が心地よい。玄関ホールを歩きながら何度も大きく呼吸をした。目の前の駐車場の、僕たちが乗ってきたバスのところまで行って、そこで火葬場を振り返った。

 天に向かう煙突から、さらに天に向かう煙が湧き上がっている。

 あれが姉の体を燃やした結果出るものだとは、どうしても思えなかった。

 このまま此処にいたら、誰かが僕を呼び戻しに来るだろう。僕はその呼び戻しに来る誰かが姉であっても、何ら違和感がない。

 けれど、そんな事はありえないのだ。


「拓海君、そろそろ来てくれ」


 案の定、姉が僕を呼びに来る事はなく、親戚の篤さんが呼びに来た。彼は東京の大学に通っていて、もう卒業を目前にしているはずだ。きっと色々と忙しいだろうに、わざわざ来てくれたのだ。


「今行きます」


 言いながら篤さんに近付く。隣に並ぶと、篤さんが僕の頭に手を置いた。あと数ヶ月で高校に入る中学生男子としてはあまり嬉しくない行為だったが、身長差と現状を考えると受け入れるしかない。この長身の親戚は僕を思いやってくれているのだ。


「……大丈夫かい?」


 篤さんは、今にも泣きそうな崩れた笑顔で聞いた。

 大丈夫か、と聞く人たちの大概は、言っている当人たちの方が傷ついた顔をしている。きっと誰かを気遣うという行為は、反面自分の心を支えているのだろう。恐らく、自分も辛いのだ。


「大丈夫ですよ」


 僕が微かに微笑みながら答えると、篤さんは少し驚いたように目を見開いた。そしてすぐ、自嘲気味に笑う。


「そうか、凄いね、拓海君は。僕はあまり大丈夫じゃないよ」


 一瞬聞き流してから引っ掛かりを覚え、そっと篤さんの顔をのぞき見る。すでに僕を見ていない彼の目線は、昇っていく煙に定められていた。


「大丈夫じゃないよ……」


 もう一度小さく呟いた。独り言だろうと思い、何も返事を返さなかった。

 僕たち兄弟と篤さんは一年に数回会うか会わないかの関係だったのに、会っても大して話などしていなかったのに。そんな彼でさえ姉の死に此処まで沈んでいる。

 篤さんは情が深い人なのだろう。じゃあ、僕は何なんだろう。




 骨を拾う作業の中、まだ小さい女の子が泣き出した。六歳になったばかりの、母方の従兄妹だ。やたらと姉に懐いていた子だった。さっきまでは意味もわからなくはしゃいでいたのに、目の前にある白いものが姉だと言われて混乱したらしい。それとも怖くなったのだろうか。こんな小さな子供でも死を感覚で分かってしまったのに。何故僕は分からないのだろう。

 喉仏の骨は最も近く親しい身内が拾うらしく、そこは父と母が拾う事になっていて、僕はその近くの骨を拾う事になっていた。


「拓海君、僕が一緒に拾ってもいいかい?」


 順番が回ってきて、箸を握った僕に篤さんがそう言った。篤さんはごく近い親戚で、別に断る理由もなかったので頷いた。

 ちっぽけになってしまった姉の体は、案外小さな骨壷に入れられていく。元々病弱で線の細い人だったが、それでも、生きていたらこんな小さな入れ物には入らなかったのに。死ぬという事は存在が別のものになってしまう。物質的にも、精神的にも。

 だからきっと、これは姉ではないのだ。

 骨を拾う。骨壷に入れる。やがて此処での作業が全て終わったら、この骨は暗い土の中へと埋められるのだ。

 誰も彼もが姉を見ていた時とは違う顔で、視線で、入れられていく骨と骨壷を見る。そのうち埋められてしまうそれを見つめていた。

 埋められる。その言葉が頭に浮かんだと同時に、姉との会話を思い出す。

 あれは一体何時の事だっただろうか。季節は今と違い春だった。それだけは覚えている。何故なら、あの会話は満開の藤を見ながら交わしたものだったのだから。




 ふざけた事に、そのまま初七日を行って納骨をした。忙しい上、親戚が一ヶ所にかたまっていない今の世の中では、こういった事が多いらしい。誰も、少女一人の死に、生活を崩されるわけにはいかないのだ。


「母さん」


 寺の近くの懐石料理店で精進落しを終えると、そこからは皆散り散りに帰る。ごく身内の者だけを乗せた借り物のワゴン車が、ひんやりとしているだろう家へと向かう。奇妙に静まり返った車内で窓の外を見ながら、僕は悄然とした様子の母に尋ねた。


「藤の木の下に何が埋まっているか、知ってる?」

「え?」

「桜の木の下には屍体が埋まってるって言うだろ。それで、藤の木の下は?」


 僕は答えがあっさりと返ってくるものだと思っていた。ところが母は困惑し、片手を顎に当てて考え込む。


「……藤の木の下なんて、聞いたことないけど……どうかしたの?」


 聞いた事がない。その答えに、僕は少なからず驚いて母親をじっと見た。


「……知らないの……?」

「知らないけど……ねぇ、それがどうかしたの?」

「……何でもない……」


 僕は再び窓の外を見る。見慣れない景色がどんどんと流れていく。訳の分からない事を言う事、聞いておきながら自ら話を切る事、常ならば怒られるであろうこれらの行為も今日は許された。母に怒る気力がないというのも理由の一つだが。

 車のスピードに合わせて流れていく景色の中に、幾つもの街路樹がある。今はこげ茶色の木肌しか見せていない木。春になれば何かの花が咲くのだろうか。

 僕は過去へと思いを馳せながら、同時に庭にある木を思い浮かべる。いや、二つは繋がっているのだ。

 街路樹と同じく、今は葉すらつけていない木。低く広がる何処か捩れた木。

 藤の木。あの庭の藤が満開だった時、姉と交わした会話。


『桜の木の下に屍体が埋まっているのなら……』


「藤の木の下には何が埋まっているのか」


 記憶の中の姉の言葉は、現実の誰かが引き継いだ。驚いて声がした方を見ると、それは運転をしている篤さんだった。


「拓海君、何でその話を知ってるの?」


 バックミラーに写る目は、何処か怖く沈んでいた。


「あら、篤君は知ってるの?」


 僕の答えよりも先に、母が口を挟む。篤さんは苦笑する。


「ええ、まぁ。でも、知らないなら知らない方がいいものですよ」

「嫌なものが埋まってるの?」

「嫌なものというか、見てはいけないものが」

「屍体よりも見てはいけないものなんてないだろう」


 話を無理やり打ち切ったのは、低く枯れた父の声だった。母も篤さんも黙り込み、僕は盗み見るように父の方に目をやった。僕とは反対側の窓際の席にいる父は、さっきまでの僕と同じように窓の外を見ていた。誰とも目を会わせようとしない父は、普段の明るい様子からはとても想像出来ない。


「……そうね……」


 力の籠もらない声が車内に響く。


「屍体より、見てはいけないものなんて……」


 母の声はあまりにも儚く、死んだのは姉ではなく母ではないかと僕に思わせるほどだった。

 僕はまた一人過去へと意識を向ける。正確には、あの春の日、姉が言った事へと。

 思い出すのは艶然と微笑んだ姉。咲き誇る藤の花を縁側から眺め、うっとりとした口調で僕に話しかける。

 姉は幸せそうだった。それなのに、どうしてあの時、泣きそうだと僕は思ったのだろう。


「藤の、木の下には……」


 誰にも聞こえないよう、口中でそっと呟く。

 姉は、何が埋まっているのだと言っていただろうか。




 家に着き、両親と祖母がのろのろと中に入っていく。それに続くように母方の叔母夫婦が入っていく。六歳の従兄妹は疲れたのか、叔母の腕の中で眠っていた。


「拓海君、僕は車を返しに行くから」


 最後に降りた僕に、運転席に座ったままの篤さんが言った。


「ああ、はい。伝えておきます」

「それで、僕はそのまま帰るから、皆によろしく伝えておいてくれ」

「分かりました。今日は姉のために、ありがとうございました」

「いいや。拓海君も、ご苦労様。大変だったし、辛かっただろう?」


 僕は返事を返せない。大変だったのは事実だが、辛いという感覚はない。仕方なく曖昧に笑って誤魔化す。篤さんはそれに気がついたのか、苦笑してエンジンをかけた。


「……藤の木の下に何があるか、気になる?」


 エンジン音に混ざりながら尋ねてくる。聞き取りにくかった声を、けれど僕はしっかりと聞き取った。


「はい。実はそれ、姉が言っていた事で……どうしても、思い出せなくて……篤さんは知ってるんですか?」


 心持ち大きな声になる。唸る雑音に邪魔をされないために。そして、問い詰めたい衝動のために。

 篤さんは、奇妙な顔をした。子供に悪戯をされた母親が怒らずに仕方がない子だなぁと笑うような。逆に、母親に悪戯をした子供が怒られずに許されたような。そんな、奇妙な穏やかさと安堵が混ざった表情をした。


「……そっか、聞いたんだ……」


 何故篤さんは知っているのか。恐らく一般には知られていないだろう知識を、姉からしか聞いた事のない知識を。いつも姉と一緒にいた母すらも知らない事を、何故この人が。


「それなら、掘り返してみればいい」


 返す声はやはり聞き取りにくい。さっきまでの挨拶よりも小さい気がする。それとも単純にエンジン音が邪魔なのだろうか。


「掘り返す……って、庭の藤の木をですか?」


 それはつまり、誰かが庭の藤の木に何かを埋めたという事か。そしてその誰かとは恐らく。


「掘り返して、何か出てきたら……」


 篤さんは僕の家を暫く眺め、そして僕の方を向いて微笑んだ。


「もし何か出てきたら、それを僕にくれないかな」


 その微笑みは、とても幸せそうで、それなのに泣き出しそうなものだった。


「……掘り返さないかもしれないし、掘り返しても何も出ないかもしれませんよ」


 何故か心にもない事を言ってしまった。けれど、そんな小さな反抗にも、篤さんは優しく微笑むだけだった。


「それならそれで良いんだよ」


 それを最後の言葉にし、車は走り出した。ワゴン車は遠ざかる。答えを知りながら教えてはくれなかった人が遠ざかる。

 そうしてその場に、答えを知らない僕だけが取り残された。

 藤の木の下に何かが埋まっている。それを知っているのは僕と姉だけだと思っていたのに、違った。違うという事がわかった今、変に焦る気持ちが生まれた。


『掘り返してみればいい』


 まるで自分は掘り返す意思がないような口ぶりで、それなのに、何かが出てきたらそれを欲しいと言う。それじゃあ、いつの日か『欲しい』という気持ちの方が上回ったら、きっとあの人は取りに来てしまう。

 焦る気持ちに後押しされるように、強く思う。今夜、藤の木の下を掘り返そうと。




 厚手のジャケットの下には四枚も着込んだのに、二月の夜の寒さは和らがない。手袋代わりの軍手は大して防寒機能を持っていないらしく、かじかんで上手く動かない。それでも園芸用の小さなスコップを絶え間なく動かす。

 家の者は皆寝静まった、俗に言う丑三つ時。僕は一人庭で土を掘っていた。庭の主とも言える藤の木の下を。

 たまに犬や猫の鳴き声が聞こえる以外、冬の夜はとても静かだ。僕の家は一応住宅街にあるので、こんな夜中では車もほとんど通らない。刺すような静寂の中、土を掘る音だけが耳に入ってくる。

 黙々と掘り続け、気がつけば二十分は経過していた。

 初めは夢中になっていたものの、今はもう何をやっているのだろうと思っている。大体、本当に何か埋まってるかも分からないのだ。埋まってるとしても、藤の木の下など、大雑把すぎて何処だか分からない。浅く広く掘っているが、もっと深く掘らなければならないのだろうか。分からない。何も分からない。

 だけど掘らなければ。

 何故か追い立てられるようにそう思った。僕は掘らなければならない。

 姉はきっと、僕にしか藤の木の事を言ってない。篤さんは保留だ。もしかしたらあの人にも言ったかもしれないし、その逆かもしれない。どちらにしろ、あの人には今、掘る意思がない。だから、真実姉の遺志を継いでいるのは僕だけだ。

 僕は掘らなければならない。掘って手に入れなければならない。


『藤の木の下にも何か埋まってるんだわ』


 艶然とした笑み。


『……いいえ、埋まっているの』


 うっとりとした口調。


『全部全部、養分にして、咲いて』


 満開の藤の花を幸せそうに眺めて。


『いつか埋まっているものが無くなるまで、吸い取って、咲いて』


 それなのに、何故か泣きそうだと思った。


『藤の木の下にも何かが埋まっているのよ』


 姉さん。

 何が埋まっているかなんて、分かるはずがないだろう。

 あんなふうに問いかけて、藤の木に興味を持たせ。だけどそれは全部自分への問いかけだろう? 自分が気になっていたんだろう? 掘りたかったんだろう?

 違う。掘り返したかったんだろう?

 何かを埋めたんだ。きっと姉さんが何かを埋めたんだ。

 それを本当は、掘りたかったんだろう? 掘り返したかったんだろう?

 自分の手で。生きているうちに。だけど叶わず。

 姉さん。


『何が埋まってるの? 教えてよ、ねぇ』


 あの時僕は苛立っていた。

 僕は生活の大半を姉さんに割いていて、だから僕が誰よりも姉さんのことを知っている筈なのに、藤の木の下のことなんて何もわからなかった。姉さんは僕に話しかけながら、僕ではない何かを思い浮かべながら話していた。

 だから悔しくて、苛立って。きつい口調で訊きだした。

 姉さんは何て答えただろう。

 何が埋まってると答えただろう。

 思い出せ。僕は聞いたはずだ。何が埋まっているかを。思い出せ。


『……絶対に、秘密よ。あのね、藤の木の下には……』


 スコップの先に、何か硬いものが当たる。

 僕は必死になる。埋まっている物を取り出すために、今までよりも早く、けれど丁寧に土を掘る。地面から徐々に何かが現れてくる。

 現れたそれは、土がこびりついた螺鈿細工の漆の箱。

 もう何年も前に、母が無くなったと騒いでいたものだ。

 唐突に、思い出した。姉が何て答えたのか。


「……そうか……」


 流れ落ちる花の下、冷たい土の中に埋まっているもの。それは。


『藤の木の下には、子供の頃の自分が埋まっているの』


 姉は確かに、そう言っていた。

 厚さのない箱を取り出すと、表面がほとんど変質していた。


「……これが……?」


 こんなものが子供の頃の姉なのか。

 僕は蓋を持ち上げる。土が入り込んですんなりとはいかないが、少し力を込めれば簡単に開いた。ぱらぱらと土が落ちる中、中に入っていたものを確認する。一体何が入っていたのか。

 入っていたのは、折りたたんである一枚の紙だった。

 開いてみると中には文字が書いてある。それなりに整った字が、けれど、書きなれていない様子の毛筆で。


「……和歌?」


 紙には和歌が二首書かれていた。


   わが宿の 藤の色濃き たそかれに 尋ねやは来ぬ 春の名残りを

   なかなかに 折りやまどはむ 藤の花 たそかれ時の たどたどしくは


 たまたま知っていた。学校の担任は古典が大好きで、何かと和歌だのあらすじだのを教えていたからだ。だから知っていた。これは、源氏物語の中に出てくる和歌だ。

 子供の頃から仲が良かった少年と少女が、ようやく結ばれる時に出てきた歌。詠ったのは少女の父親と少年だったが、それでもこれは間違いなく、男女が結ばれる時に出てきた歌だ。その和歌の下に書かれた名前。


   中谷藤香

   中谷篤


 それは、姉の名前と、父方の()()の名前。

 つまり、姉は。篤さんは。

 ああ、藤の木の下に埋まっているものは……。

 僕は空を仰ぐ。剥き出しの藤の木の枝の間から、白く光る月が見える。降り注ぐ月光は埋まっていたものを明らかにする。永遠に隠すつもりであった、けれど隠しきれず、もう一度手に取りたいと、取り戻したいと思っていた、子供の頃の姉を。




* * *




 庭の藤の花が満開になったから、花見をしようという話になった。

 花見といっても、要は遊ぶ場所が部屋の中から庭に移っただけだ。

 満開の藤の下でココアを飲んで蒸しケーキを食べる、話をする、寝っ転がって本を読む。部屋の中でもしている事も庭の満開の藤の下ですると、何だか特別な事のように思えた。いつもより楽しくなって、俺も藤香もずっと笑ってた。

 春の陽射しは心地よく、藤の花の匂いは柔らかい。

 其処はとても暖かかった。

 ふと本から目を離して藤香のほうを見ると、仰向けになって半分眠りの世界に入り込んでいた。


「藤香、頭に藤の花が乗っかってるよ。結構沢山」


 見たままを伝えると、うっすらと眼を開けて、それでもぼんやりしたまま軽く頭を振った。けれどそれでは落とすことは出来ず、幾つもの花が黒い髪を飾るように留まっていた。


「動かないで。俺が取るよ」

「うん、お願い」

「目、閉じてて」


 藤香は再び目を閉じる。俺は藤香の顔を覗き込むように前かがみになる。そうしたら、俺の頭からも藤の花が二つほど落ちてきた。その二つの花が藤香の頬に当たって落ちた。俺はそれを少し笑いながら見て、藤香の額に乗っていた花を取り除く。簡単に掃ったりせず、一つ一つ摘まんで取り除く。

 全部取り除いた時、また上から藤の花が落ちてきた。今度は藤香の胸元に落ちた。それも取り除こうとして、けれどその花に触れる瞬間、何だか触ってはいけないような気がしてやめた。

 藤香はまだ目を開かない。俺が花を全部取ってくれるのを待っている。

 花は胸元を除いて全部とった。藤香はまだ目を開かない。

 春の陽射し。家の庭。満開の藤の下。俺と藤香。ただ二人きり。

 俺を信じきって、目を閉じたまま動かない少女。俺は目を開いていて、少女に好きに触れる。前髪に触れる。少しだけ持ち上げる。まるでそこに花があって、それを取ろうとしてるかのように。けれど実際は、ただ髪をいじって。


「取れた?」


 目を閉じたまま尋ねてくる。俺は笑う。


「まだ」


 髪に触れる。離す。そしてまた触る。軽く持ち上げて、その感触を楽しみ、そしてまた離す。

 繰り返し、繰り返し。

 触れては離し、触れては離し。


「……取れた?」


 桃色の唇が微かに動いて声を出す。俺は笑ったまま。


「まだだよ」


 俺よりも白い肌。柔らかそうな頬。

 額に触れるとむず痒そうに、長い睫毛を微かに揺らす。

 もう一度髪に触れる。綺麗な黒い髪。さらさらとしていて、離すと額に落ちる。弱い風にも動かされる。

 髪に触れる。頭を撫でるように、髪に触れる。俺は笑ったまま。藤香の髪に、何度も触れて。俺だけが。

 春の陽射しは心地よく、藤の花の匂いは柔らかい。

 其処は、とても暖かかった。




* * *




「僕は父が年老いてから出来た後妻の子でね。生まれてすぐ父が死に、母は新しい男と出て行ったらしい。だから僕は実質的には兄さん、つまり君の父親に育ててもらったようなもんなんだよ」


 ちょうど僕が留守番をしていた時、篤さんを家へと呼んだ。正確には、庭の、藤の木の下へ。そこがふさわしいと思った。

 庭から家を眺めながら、懐かしそうに篤さんは語った。僕は何も訊いていないのに、独り言のように語りだした。


「君がまだ生まれてなかった頃、僕はこの家で一緒に育てられ、一緒に遊んでた。その頃は僕たちの関係がどんなものかなんて知らなかった。ごく自然に惹かれあったよ。その感情が途切れる事無く、ずっと続いていくものだと思ってた。そしてそれが許されると思ってた」


 それは懺悔のようにも聞こえたし、自慢話のようにも聞こえたのが不思議だった。


「……自分たちの関係を正確に知ったのは、中学の二年の時。君が幼稚園の頃かな? その頃から僕は別の親戚の家でご厄介になった。今はもう自立して縁が切れてるけどね。もしかしたら、兄さんは僕たちの事を知って、引き離したのかもしれない」


 篤さんはずっと微笑んでいる。張り付いたように、ただずっと微笑んでいる。顔の筋肉が壊れているみたいだ。けれど僕も人のことは言えない。


「そんな事をしなくても、関係を知った時に、二人で全部埋めてしまったのにね。全部、地面に沈めて、幼い頃の自分も、間違いも、全部沈めて藤の木に吸ってもらおうとしたんだ。桜の下に埋められた屍体のように。養分として吸い取って、花になって、綺麗に散ってお終いになるのを願ってた。全部、沈めた筈だったのにな……上手くいかないね」


 僕はずっと無表情だった。もうずっと何日も無表情だった。僕も篤さんも、顔の筋肉が壊れている。


「なまじ結婚の成立を示唆する歌を埋めたのがいけなかったのかもしれない。その時点で心は縛られてしまった。お終いになんか出来なかった。だから極力会わないようにして、会っても話さないようにして」


 壊れている。


「……こんなに早くにいなくなってしまうなら、全部を振り切って逃げてしまえばよかった……ああ、弟の君に聞かせる事じゃないね」


 これ以上何も聞きたくなくて、僕はやることをさっさと済ませることにした。

 無言で一枚の紙を篤さんに突き出す。やっぱり微笑んだまま敦さんはそれを受け取った。とても大事に、まるで繊細なガラス細工を触るように扱われていたのが印象に残った。

 その紙に何が書かれているのかなんて、きっとこの世の誰よりもよく知っているはずなのに、篤さんはその紙を開いてじっと書かれている文字を見つめていた。何時までもそこに立って見つめているので、僕は先に家の中に入る事にした。縁側に上がり、居間の方へ行こうとしたその時。


「……藤香……」


 振り返ると、篤さんは僕に背を向けて、そっと藤の木を撫でていた。恋人に触れるように優しく、熱く。表情は見えない。ただそっと藤の木を撫でて、もう一度「藤香」と呼んだ。

 その震える切ない響きに答えてくれる人はもう何処にもいない。何処を探してもいない。 どれだけの人が、どんな想いを抱えて呼んでも、絶対に答えは返らない。


 二度と、会えない。


 滲む風景を振り切るように、僕は静かに家の中に入る。そこは親しみ慣れた暖かい空間で、だからこそ空いてしまった空間がよく分かり、胸に痛い。

 何時だってすぐ傍にいたのに。何時だって触れることが出来たのに。誰よりも近い場所で、誰よりも理解していると思っていた。けれど、確かに僕は知らない。僕が生まれる前の、子供の頃の姉だけは、唯一知らない。

 だって埋められてしまった。子供の頃の姉は、ただ一人を想って大切に藤の花に捧げられた。掘り返した欠片は篤さんが手放さないだろう。

 骨となった姉はただ眠りについている。掘り返して握りしめても、きっとそこにはもう何もない。僕の手元には何も残らない。

 本当は渡したくなかった。姉の欠片は何一つ渡したくなかった。僕だけが持っていたかった。だけどその内容を知ってしまえば、持っているのも苦痛だった。

 僕だけが秘密を教えられたのに、だけど僕ではなかった。僕では駄目だった。だけど、僕でありたかった。

 ずっと一緒にいたのに、何よりも優先したのに、それは全部ひたすらに――。


「姉さん……!」


 僕は、姉が好きだった。その死から全力で目を逸らし認めないほどに。


 ああ、きっとこの春も、いや、この先何年も、あの藤の木は寒気がするほど美しい花を咲かせるのだ。

 地面を乞うかのように花房はその身を地面へと垂らすだろう。柔らかい甘い匂いは流れ落ちては揺蕩うのだろう。満開の藤の花の、恐ろしいほどの絢爛たるその光景。いつの日か見た光景そのままに、けれどその時よりも美しく。僕にはその様子が見える。木から顔を背けて目を閉じている、今、この瞬間にも。

 藤の木の下には、今度は、子供の頃の僕が埋まるのだから。



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― 新着の感想 ―
一篇の詩のような 散りゆく花びらのような 美と寂寥をありがとうございました 桜の木の下に埋まっているのは過ぎ去りしもの 藤の木の下に埋まっているのは過ぎ去りしとき 忘れられない捨てられないなにかを埋…
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