松田聖子は歌がうまかったのか
某SNSサイトで「歌のうまかった80年代アイドル」という動画があるのを見かけた。
他に誰が取り上げられていたのかは忘れたが、その中に松田聖子が出てきて、私は思うことがあった。
当時、松田聖子は私の記憶によれば、「歌の下手な歌手」の代表のように言われていた。
それまでの女性アイドルといえば、けっして歌は下手ではなかった。山口百恵だけを挙げてもわかるであろう。若くて可愛くてもけっして子供っぽかったりキャピキャピしたりしてはいなかった。
それが松田聖子の登場から「女性アイドル」の定義が変化したように思う。若くてかわいくて、歌なんか下手でもかわいければよくて、子供っぽくキャピキャピしたものがよしとされるようになった。
松田聖子の後に続いてデビューした女性アイドルの中には素人以下の歌唱力の娘もよくいた。むしろ歌が下手なほうがファンにとっては親近感が湧き、「隣のお姉さん」「隣に住んでる女の子」みたいな感じで気軽に愛せたのかもしれない。
そういうわけで、そんな下手っぴの溢れる女性アイドル界の中で、松田聖子はむしろ歌がうまいほうになっていったのである。
もちろんその誰にも真似できなかった個性的な歌声にも現在彼女がそのSNSサイトで「歌がうまい」と認定されている要因はあるのであろう。しかしクラシック音楽にうるさい島田雅彦氏の当時のエッセイを読むと、「アイドルで歌がうまいのは河合奈保子だけ」「松田聖子がオペラ歌手とデュエットしたら笑われるだけ」みたいなことが書いてあり、やはり「松田聖子は歌が下手」というのが一般的な認識であったようだ。
「価値は周囲のレベルによって変わる」ということであろう。
女性アイドルの歌が下手ではなかった時代に登場した松田聖子は「歌が下手」とされ、その後周囲が下手だらけになったらむしろ「歌がうまい」とされるようになる。しかしオペラ歌手の中へ放り込んでみたらやはり「歌が下手」となるのである。
何事においてもそんなものであろう。
小説でも、美しい日本語を駆使する昔の時代に放り込んだら、現代の小説家は皆、文章が下手ということになるのかもしれない。
小説投稿サイトにおいて「文章がうまい」「ストーリーの作り方がうまい」とされるのは読者受けのいい作者であり、太宰治が投稿したら「句点多すぎw」と笑われ、芥川龍之介が投稿したら「言い回しが難しくて気取りすぎw」、ドストエフスキーがもし日本語で小説を書いて投稿したら「ストーリーの作り方に無駄が多すぎて下手すぎw」と笑われるのかもしれない。
できることなら、周囲のレベルが高い中で生きていたいものである。