「一生覚えています!!」 カナリヤside
いつの間にか、泣き疲れて眠ってしまったらしい。ろうそくの芯が燃え尽き、灯が消えていた。結構な時間が経っていたことがわかる。窓からは月明かりが射していた。あたりを見渡すと、部屋中に悪夢の残骸が残されていた。
オーダーで作られたドレス、私の足に合わせた靴、髪と目と同じ色の宝飾品。部屋に散らばっている封を開けられたたくさんの空き箱を見渡して、ようやく我に返ってきた。
「……どうやって返していこう……」
鏡に映っているのは泣きはらした顔の惨めな女。何も目に入れたくなくて、部屋から飛び出した。
そのまま、廊下の窓から見える満月に誘われるように、外へ。大きな玄関の扉を開け、石階段の段差に座り込んだ。春なのに夜のためか、冷たい風が頬を撫でていく。空を見上げると、窓からも見えた月が夜空に輝いていた。
今日、会場の庭園で彼と一緒に月を見られるんじゃないかと期待していたのに。
現実は、しわくちゃになったドレスに乱れきった髪のままひとりぼっち。愛する人にさげすまれ夜空を一人で見上げて泣いている。
「月が綺麗ですね」
彼に告げたかった言葉を呟いてみた。涙がこみあげてきた。
ガラガラとした音に気が付き、そちらを向くと門の外で辻馬車が停まっていた。慌てて立ち上がる。
馬車から出られたトーマス様は、御者に謝礼を払い終えるとこちらを振り向いた。私に気が付いたトーマス様は、ふらつきながらも駆け足でこちらに向かってきた。
数刻前にトーマス様に伸ばした手を振り払われたのを思い出す。罵られる事を覚悟し目をつぶる。
しかし、私はトーマス様に無言で肩を抱き引き寄せた。思わず目を開けると、彼の顔が近づき唇に温かいものが押し当てられた。
口づけ?
酒気を帯びた呼気にむせそうになる。それに気が付いた彼から、肩を再び掴まれ引きはがされた。残念に思う間もなく、再び引き寄せられ今度は抱き締められた。
押し当てられた彼の胸からは早鐘のような鼓動が聞こえてきた。
もしかして、これは彼からの恩情かしら。本気で、あなたの恋人役が出来ると信じた愚かな女を憐れんで……。
いつの間にか、私は彼の腕の中で涙をこぼしていた。
ごめんなさい、ちゃんと出来なくて。身勝手な夢を見て。次から次へと出てくる涙で、彼の服を濡らした。
永遠に続けばいいと思う時間ほど、早く過ぎる。温かい腕の中で顔をうずめていた私を、彼は引きはがした。
「もう……おわり……? 」
「もっもちろん! 」
未練がましく聞いた私に、動揺したトーマス様が即答した。
「そう……ですか……」
それだけトーマス様に伝え、自室に戻るため振り返り玄関の扉を開けた。ふわふわとした気持ちで廊下を進む。自室の扉を開けへやに入りドレスから簡素な寝衣に着替た。そのままベッドに潜り込む。
その間ずっと、私は先ほどのトーマス様の行動の意味を考えていた。
きっと彼はお酒で酔っぱらっていたんだ。それで前後不覚になって。だから、あんな夢みたいな事を……。一生誰にも言わないでおこう。もちろんトーマス様にも。私だけ覚えていられれば……
いつの間に寝付いたのか。気がつけば窓から鳥の声が聞こえてきた。もう何度目かわからないほど繰り返した、泣きながら目覚め。でもいつもと違う。私は昨夜の事を思い返した。
泥酔して帰ってきたトーマス様にキスして抱きしめられてもらった事を。
信じられない。
トーマス様の腕の中にいたなんて。あの胸に頬を寄せることが出来たなんて。ずっと諦めていたのに。
トーマス様がキスしてくれた。これから彼に愛する人が出来たのしても、最初に口づけをして貰ったのは自分なんだ。きっと、二度と訪れない奇跡。
ずっとずっとトーマス様からの愛が欲しかった。
ありがとうございます、十分です。二度と、分不相応な事は望みません。
昨夜に思いを馳せていたが、とっくに起きるべき時間を過ぎている事に気が付いた。慌てて毛布から抜け出し、身支度に取り掛かった。
急いで朝食の支度をする。幸いな事にトーマス様はまだ起きていなかった。泥酔していたからお昼近くになるかもしれない。
そんな事を考えながら食器を並べていると、後ろからドアが開く音がした。食堂に入ってきたトーマス様は、険しい表情をしていた。
きっと、昨日の二日酔いで気分が悪いに違いない。お水を用意して……トーマス様は本当に酔っていたから……
昨夜の出来事を思い出す。思わず笑みがこぼれる。
浮かれていた私に、トーマス様は思いつめた声で告げた。
「昨日の事を忘れてくれないか? 無かったことにして欲しい」
えっ
「あのっパーティーに連れてってもらえなかった事は、気にしてません! あれは私が悪かったんですから!! 」
どうか思い違いであって欲しいと祈り続ける。お願い! あの思い出だけは私のものに。愛する人にキスして抱きしめて貰った、生涯で一番幸福な思い出だけは……
「違うっ! いや……それも僕が悪かったんだけど……。昨日、君に抱き着いてキスしたことを忘れて貰えると……。言い訳じゃないけど、昨日は酔っぱらってて……あんな事をするつもりじゃ……」
悪あがきしていた望みは、あっけなく絶たれた。
「僕に出来る事は何でもするから。欲しい物を買うし、好きな場所へ連れていく。お金でいいんだったらいくらでも払う。何回だって謝るし、土下座もするから。許してくれると……」
なんで?……。私は誰にも言う気は無かったのに。あなたに抱きしめて貰ったこともキスして貰ったことも……。なんで謝ろうとするの? 何を許して欲しいの?
『僕に出来る事は何でもするから』
そこまでして……。
返事をしなければ……わかりました、全て忘れますって……。
「……嫌です……」
「……えっ……」
断られると思っていなかったのかトーマス様は困惑した表情を浮かべた。
「無理です! 絶対に忘れません! 一生覚えています!! 」
訴える私の顔を見て真っ青になるトーマス様。
「どうして、忘れろなんて簡単に言うんですか? 私にとってあれがどれほど……」
叫び声を上げたいのを、唇を嚙み締め必死に我慢する。
「……ごめん……」
トーマス様は茫然自失のまま謝罪を口にした。
「はい、それでは失礼します」
「あっちょっと待って」
トーマス様が引き留めるのも構わず部屋を出た。廊下を小走りに進み角を曲がったところで限界が来た。
なんとか堪えようとした。しかし、俯むいたとたん涙がボタボタとこぼれた。雫が床にシミを作る。嘆きが止められない。
「……昨日、死ねば良かった………そうすれば、こんなに惨めな気持ちにならずに済んだのに……」
彼に抱きしめられた時に息を引き取れていたら。幸福な夢を見たまま……
いつまで経っても涙は止まらなかった。私はずっと廊下の隅に立ちすくんだまま、泣き続けた。