第97話 あんたバカじゃないの
翌週月曜日のお昼休み。燈香が退部届を提出した。
女子バレー部の顧問には強く引き留められたらしい。それでも燈香の決意は変わらなかった。気が向いたら顔を出せと言われたらしい。
それを語った時の燈香は苦々しく口角を上げていた。
魚見たちが何でどうしてと問いを投げたけど、答える燈香の口調ハスラスラとして淀みがなかった。燈香が女子バレー部に顔を出すことは二度とない。そんな確信があった。
勉強を教える行為は理解を深める。俺はお昼休みの内にそんな理屈をこねて、燈香と二人で勉強する約束をした。何となくだけど今の燈香を一人にしたくなかった。
放課後を迎えた。雨粒が窓を打つ音をBGMにして図書室へと足を運んだ。
燈香と同じテーブルを挟んで問題集とノートを広げた。シャーペンを握って白いページに鉛色の文字を刻む。
気まずい。勉強会でも体験したのはこれが初めてじゃないのに、眼前の問題に集中できない自分がいる。
この胸の奥に根付いたもやもやには覚えがある。
後悔、もしくは後ろめたさ。俺が誰に何の後ろめたさを感じてるって言うんだ。
もやもやがムカムカに転じる前に腰を浮かせた。燈香に一言告げて廊下の空気に身をさらす。
気分転換に食堂でジュースでも買おう。そう思って一階の廊下に靴裏をつける。
靴音が迫る。
体力トレーニングの最中だろう。体操着姿の女子がせっせと廊下を踏み鳴らす。
面々にはどこか見覚えがある。女子の知り合いなんて限られているのにどうしてだろう。
「ちょっと萩原!」
張り上げられた声を耳にして振り向く。
片桐だ。体操着姿の同学年が、眉間にしわを寄せてつかつかと歩み寄る。
「昼休みのアレどういうこと?」
「昼休み?」
「燈香の退部届よ! あんた知ってたんでしょ、何で止めなかったの⁉」
「ああ、そういうことか」
大方バレーボールの顧問から燈香の退部を伝えられたに違いない。
「止めるも何も、燈香が決めたことだからな」
「決めたから何? 今の燈香の言葉をそのまま受け取ってどうすんのよ」
「自棄になってるって言いたいのか? それなら心配ないと思うぞ。ちゃんとセンター試験を見据えてるし」
「あんたバカじゃないの」
意図せず眉がピクついた。
「何がバカなんだよ。俺何か間違ってること言ったか?」
「間違ったことは言ってない。だからと言って正しいとは限らないでしょ」
「正しいさ。受験生が試験を見据えて勉学に勤しむのは正しい高校生の在り方だろ」
「それ本気で言ってんの?」
「本気さ。取れるかも分からないレギュラーを目指させるよりは、ずっとまともな思考をしてるつもりだよ」
眼前の双眸が見張られた。片桐の指がぎゅっと丸みを帯びる。
ほおを張られるかもしれない。心の内で身構える。
俺に非はないんだ。殴るまではいかないにしても手首を弾くくらいはしてやるぞ。
「見損なった」
一瞬思考が漂白された。
元友人の顔には明確な失望の色が見て取れた。
「あんたのことは嫌いだけど、燈香のことを第一に考える奴だと思ってた。私の見込み違いだったんだね」
「考えてるよ。片桐だってセンター試験の重要性は分かってるだろ? 入った大学で将来が決まるかもしれないんだ。片桐だって、いい所に就職したいからこの学校に進学したんだろ?」
下手に背中を押すのは無責任。三年生の時間を捧げた上に志望校に受からない、そんな最悪の未来だってあり得るんだ。友人として堅実な道を勧めて何が悪い。
間違いなんて微塵もない正論、のはずだ。どうしてこんなにもうすら寒く聞こえるんだろう。片桐は俺が嫌い。だから突っかかってくる。そうに違いないのに。
「片桐サボるな!」
はるか前方で女子が声を張り上げた。片桐が振り向いてすみませんを口にする。
「じゃ私部活戻るから」
「あ、ああ」
片桐の背中が遠ざかる。
反論は受けなかったのに負けた気分だった。




