第92話 焦りと恐怖
ひざの故障は一か月では癒えないと告げられた。
足元の床が崩落したような心持ちになった。
同級生の中で唯一レギュラーに選ばれて、これから大会に向けて頑張っていこうって時だった。
どうしてこのタイミングなの? 何で私だけこんな目に遭うの? ひざの痛みにさいなまれながら悔し涙で枕を濡らした。
落ち着いてから、できることをしようと考えて部活動の見学に努めた。松葉杖の先端で廊下の床を突いて、毎日選手やボールの動きに目を凝らした。
私がひざを気にして動けない間も、部内のライバルはボールとたわむれて実力をつける。その様を見せつけられる羽目になって、焦燥が胸の奥から泉のごとくわき出た。
つらくなって部活動の見学を止めた。
みんなに置いて行かれたくない。でも足を使う練習はできない。
だったらそれ以外だ。少しでもブランクの影響を減らしたくて、基本的なストレッチや体幹トレーニングを始めた。自宅にいる間は可能な限りバレーボールを触ることに努めた。
松葉杖を握らなくてもよくなった。
その一方で激しい運動は控えるように告げられた。完治にはまだ時間がかかるようだ。
部活動には顔を出せなかった。
私が自宅であがく間にもクラスメイトは上達している。故障前の私よりも上手くなった同級生を目の当たりにするのが怖かった。
ある日友人に遊びに行こうと誘われた。松葉杖が外れても元気のない私を見かねたらしい。
気分転換になると思って首を縦に振った。先導する友人たちとコンクリートの床を踏み鳴らして、いくつもの建物を視界の隅に送った。
最初は気乗りしなかったけど、華やかな空間でおしゃれな衣服を選んでいると一時的にバレーボールを忘れられた。カフェに立ち寄ってスイーツを頬張ると、口内を満たす甘味で久々に口角が浮き上がった。
バレーボールのない生活も捨てたものじゃない。
そんなことを考えながら歩いていると二人組に絡まれた。
ガラの悪い男性。筋肉を見せびらかすような恰好の二人が、初対面にもかかわらずグイグイと距離を詰めてきた。
一歩詰められて友達が下がり、空いたその隙間を占領して私を挟んだ。彼らの目的が私にあると知って嫌な汗が背中を流れ落ちた。
逃げなきゃと思ったけどひざの治癒は中途半端だ。全力疾走で再発する恐怖が勝って、身をひるがえして走ることはできなかった。
私にできたのは二人組の提案を跳ねのけることだけ。
それが中々上手く行かなかった。
明確に拒絶の言葉をぶつけても、二人の間で言葉が行き交う内に別の提案が回ってくる。逃げ場を塞がれていくみたいで、ぞわっとしたものに頭の中を侵食される感覚があった。
周りには他者の視線がある。泣く姿を見せるのはなけなしの矜持が許さない。
毅然とした態度を心がけたものの、それも限界がきて声が情けなく裏返った。
それを機に二人組がはしゃいで、耳たぶがお風呂でのぼせたように熱を帯びた。生理的な震えに理性のふたをガタガタ言わされて、必死に口元を引き結んだ。
「あの」
呼びかけの声を耳にしたのは、生理的な震えが泣き声に転じかけた時だった。




