第70話 夕食
楽しかった。
年甲斐もなく滑るのに熱中してしまった。リフトを待つ間も数年ぶりの雪景色が新鮮に映って、話し相手がいなくても苦に感じなかった。
何より浮谷さんに勝利した。爽快感あふれる理由はそれが一番大きい。二回目の走行からは蛇行を抑えて、いわくスピーディーな滑りを意識した。
インストラクターの号令によって一日目のスキー講習を終えた。
晴れ晴れとした気分で施設内に戻った。スノーウェアを脱ぎ去って体操着を身にまとい、脱衣所に足を運んで汗を流した。
夕食もバイキングだ。カフェテラスに足を運んだ頃には広々とした空間が賑わっていた。
今回はルームメイトに置いていかれまいと早めに皿を盛り付けたものの、三人まとまって座れる席はない。
結局俺一人空いている席に腰を下ろした。孤独な食事を摂る可能性を考えてスマートフォンを持参した自分が誇らしい。
デバイスの液晶画面とにらめっこしながら箸を握る。
「萩原さん」
やわらかな声に名前を呼ばれて手を止める。
顔を上げた先でレンズ越しの瞳と目が合った。
「久しぶりだな柴崎さん。ルームメイトは?」
「たぶんどこかで食べてます。カフェテリアまでは一緒だったんですけど、列に並んでいるうちにはぐれてしまって」
線の細い面持ちが苦々しく口角を上げる。
柴崎さんも俺と似た境遇にあるらしい。不用意なことを訊いた罪悪感と、ちょっとした親近感が込み上げる。
「夕食一緒してもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
スマートフォンをズボンのポケットに収める。
お盆の底がテーブルの天板をコトッと鳴らした。華奢な体操着姿が正面の椅子に腰を下ろしていただきますを告げる。
「萩原さんはどのコースを選びました?」
「上級コースだよ」
「スキー上手なんですね。体育祭でも徒競走速かったですし、意外と運動は得意な方なんですか?」
「得意ってほどじゃないよ。スキーは小学生の頃に両親から教わったし、徒競走は体育祭の前に練習したからな」
「じゃあ多彩なんですね。勉強だけじゃなくて運動もできるなんて、さすが萩原さんです」
純粋な好意の笑みがまぶしい。
ルームメイトとのやり取りがうまく行かず寂寥感すらある今、こんな笑みを向けられたら目頭が熱くなりそうだ。
多くの視線があるカフェテリア内。涙なんて流せない。
カップの取っ手を握って口元に縁を付けた。熱い液体を口に含み、舌を通じて伝わる痛さで情動を無理やり抑え込む。
温かい。喉を下るほろ苦さが体の芯にしみ渡る。
「番茶美味しいな」
「本当ですか? 私も淹れて来ればよかったです」
柴崎さんが椅子に座ったまま入り口の方を振り向く。
眼鏡に飾られた横顔から視線を外すと、飲み物の前で伸びる列が映った。ざっと十人は並んでいそうだ。
「列が落ち着くまでもうしばらくかかりそうですね」
「ああ」
テーブルを挟む席も八割方埋まっている。後から追加される人の数も知れたものだ。数分としない内に列が縮まるだろう。
列から視線を外す。
柴崎さんが俺の手元を眺めていた。繊細な指をもじもじさせて、あどけなさの残る面持ちに上目遣いを向けられた。
「あの、一口飲んでみていいですか?」
「え?」
思わず問いが口を突いた。視界内で白い耳たぶがほのかに赤みを帯びる。
柴崎さんが細い手がかざした。
「い、嫌だったらいいんです。後で自分で取ってきますから」
「いや、いいよ」
レンズの向こう側で大きな目がぱちくりした。
「いいんですか? 私たちもう交際してないのに」
「いいだろ。柴崎さんは友人なんだ。友人と飲食物をシェアするくらい誰でもやってるよ」
「そう、ですか。じゃあいただきますね」
俺は番茶が入ったカップを差し出した。白い手がカップを包んだのを機に「離すよ」と告げて腕を引く。
桃色のくちびるがふーっ、ふーっと番茶を冷まして、容器がゆっくりと角度を帯びる。
カップの底がテーブルの天板をことっと鳴らした。満足げな吐息が何とも艶めかしい。
「本当に美味しいですね。冷めた体にしみ渡ると言いますか」
「俺も同じこと思った」
「感性が合いますね」
笑みを交わして夕食の手を進める。
「夕食が終わったらここで待機しなきゃいけないんだっけ」
「はい。しおりを見ると夕食後に催しがあるみたいですね」
「ちょっとしたゲームで親睦でも深めるのかな」
「かもしれませんね」
別のクラスに属する生徒と交流する機会は限られる。
俺たちは後一年ちょっとで自由登校だ。来年には修学旅行もあるけど、班行動は同じクラス内で行われる。他クラスの生徒と談笑するならこの林間学校が最後のチャンスになる生徒も多いだろう。
かくいう俺もその一人。実はちょっと楽しみだ。
皿の上にある物をお腹に収めて食器を片付けた。座っていた席に戻って柴崎さんとの雑談に興じる。
カフェテリア内の騒めきに教師陣の号令が混じる。




