第65話 妹との朝食
窓際に垂れ下がった布をつまんで勢いよく開け放った。蛇の威嚇じみた音に遅れて林間学校当日の朝日を一身に浴びる。
制服に袖を通してリュックの持ち手を握った。下りの段差を踏み鳴らしてリビングの床にスリッパの裏をつける。
母とおはようを交わして顔に冷水を叩きつけた。顔を拭き拭きしてダイニングチェアに腰を下ろす。
朝食を腹に収めていると上の方で足音が鳴った。映った足の主にあいさつを投げかける。
朱音が返事を口にして寝ぼけ眼をこすった。
「お兄ちゃん、今日林間学校だっけ?」
「ああ」
「何泊?」
「二泊三日だ」
「いいなぁー。私も行きたい」
「修学旅行からそんなに時間経ってないだろ」
「全然趣旨違うじゃん」
「いいから顔洗ってきなさい」
「はーい」
母さんに促されて朱音が洗面所に消える。
水の音に遅れて妹が戻った。隣のチェアに腰を下ろして両手を合わせる。
「林間学校ってスキーするんだっけ」
「ああ」
「燈香さんと滑るの?」
「んー滑るかもしれないな」
「じゃあツーショット送ってよ。しばらく撮ってないでしょ?」
「悪い、ツーショットはもう撮らないかも」
「どうして?」
「燈香とは別れたから」
「……は?」
妹が目を丸くする。
硬直する妹をよそに朝食の手を進める。
「な、何で⁉ どうして別れちゃったの⁉」
「んー相性が良すぎたからだっけ?」
「何で疑問形? 意味分かんない。あーあ、友達に自慢できないじゃん」
深いため息がダイニングルームの空気を揺らした。
「その物言いは燈香に失礼じゃないか? まるで自慢するための道具みたいに聞こえるぞ」
「私たちにとっては兄の彼女だってアクセサリーだよ。芸能人と付き合ってる一般人って何か特別感生まれるでしょ?」
「それは、そうかも」
確かにハリウッド女優と結婚したらワンステップ上に行ける気がする。俺を羨む丸田の図が見える。
「気後れしたあげくにぎくしゃくして破局しそうだな」
「何の話してんのちゃんと聞けよ」
声色が荒い。結構腹に据えかねていそうだ。
「燈香は芸能人じゃないぞ」
「でも綺麗じゃん」
「まあな」
「運動できるじゃん」
「そだな」
「つまり私たちの憧れなわけ。分かる?」
「文化祭ではしゃいでたって話だもんな」
今年も王子燈香を見て騒いだみたいだけど、昨年の文化祭では燈香を前にして友人ときゃーきゃー言っていた。朱音の友人が燈香をどういう目で見ているかは認識しているつもりだ。
「そんな人が兄の彼女なんだよ? 鼻が高いじゃん」
「俺が燈香と交際したって朱音自身は何も変わらないだろ。研鑽を積んで自分が燈香の立場になればいいじゃないか」
「そりゃなりたいよ。なれないからアイドルとかモデルに自己投影するんじゃん。整形は努力とか言われるけど、そう簡単にできるなら苦労しないっての」
朱音がウインナーにフォークを突き出した。口に含んでぷんぷんしながらもぐもぐする。
よく分からないけど朱音には朱音の悩みがあるのだろう。
しかし整形が努力か。すごい時代になったものだ。
「でも朱音は後輩に慕われてるんだろ?」
「急に何?」
「昨年の文化祭で田中さんから聞いたからさ」
「何勝手に人の友達から情報引き出してんの? きも」
朱音が瞳をすぼめる。
むっとした。自分だって知り合いから俺について聞き出してたくせに。
若干理不尽な気がするけど気にせず言葉を続けた。
「バドミントン部で部長やってたんだろ? 後輩がついてくるだけじゃ不満なのか?」
「不満ではないよ。厳しくしてもついてくる後輩は可愛かったし、部長としての仕事はやりがいがあった。でも私に燈香さんほどの華はないし」
「たった一つの要素で負けてるから何だ? 比較できる要素なんて他にもあるだろ。朱音が燈香に勝ってるところもあるかもしれない」
「勝ってたら逆に何なの? みんな最初は顔で判断するんだよ? どうやったって不利じゃん」
「じゃあ朱音から見て俺はどうだ? イケメンか? 仮に兄じゃなかったら魅力的に見えるか?」
「見えない」
口をつぐむ。即答されるとそれはそれでへこむ。
まあ妹にタイプと言われても返事に困るんだけど。
「学校には俺より背の高い奴がいる。運動できる奴もいるし、両方あわせ持ってる奴もいる。それでも俺は燈香に選ばれたんだ。外見至上主義をやめろとは言わないけど、それだけで自分を落とすのは早計だと思うんだ」
朱音の瞳が重力に引かれたように落ちる。
俺と朱音じゃ学校環境が違う。言葉を真に受けるのは難しいだろう。
だとしても整形が努力なんて素面で告げた朱音を放っておけない。今時の整形は簡単らしいけどリスクだって有るんだ。周りが成功したからって自分も成功する保証はどこにもない。
手っ取り早く不幸になる方法は誰かと比べること、なんて言葉もあるくらいだ。反抗期の妹でもそんなことで思い悩んでほしくはない。
「……まあ、そうかもね」
それはぼそっとしたつぶやき。
されど確かに耳に入った。朱音が朝食の手を進めるのを見て、俺も腹に朝食を詰める作業を再開する。
珍しく朱音の方が早く席を立った。
「さっき色々言ってたけどさ」
「ん?」
「燈香さんに振られたお兄ちゃんが言っても説得力ないよね」
「振られたんじゃない。話し合って関係を解消した方がいいって結論に至ったんだ」
「似たようなものじゃん」
「いいや似てない。大事なことだ」
「何それ」
朱音がくすっと小さく笑う。
いつも通りの生意気な笑みを前にして口元が緩んだ。




