第62話 その感情の名は
読んでいてそんなのいつ? って思いましたら第56話をご覧ください
「行った、な」
深い安堵の吐息が空気を揺らした。萩原がお腹を押さえて前かがみになる。
「萩原、大丈夫⁉」
私は一歩踏み出して、フロントボタンを外していることを思い出した。改めてボタンをしてから萩原に駆け寄る。
萩原が腰丈コートのボタンに手を掛けた。全部外してその内側を外気にさらし、またたく間にコートを上体から外す。
「え、ちょ、ちょっと!」
思わず手で目元を覆った。
こんな状況で脱衣するなんて大胆にもほどがある。そんなに私のシャツとデニム姿が魅力的に映ったのだろうか。
別に嫌じゃないけど、こんな所でなんて。
「魚見」
萩原が足を前に出す。
鳴り響いた靴音をきっかけに、さっき全力で走ったことを思い出した。
「ま、待って! せめて一回帰ってから――」
目の前に立たれてぎゅっと目を閉じる。
上半身がほわっと温かくなった。
「風邪引くぞ」
「……え」
目を開けると萩原がいない。
靴音を耳にして振り向くと、萩原が私のパーカーを拾い上げた。
「やっぱり汚れちゃったな。そのコートは貸すから着て帰れよ」
「あ、うん」
もしかして、私が寒がっていると思ってコートをかけようとしただけ?
顔がお風呂でのぼせたみたいに熱くなる。こんな外でなんて、一体いつから私はそんないやらしい子になっちゃったんだろう。
萩原がすれ違って歩を進める。
「どうした、行くぞ?」
「分かってるって」
私は平静を装って靴裏を浮かせた。元来た道をたどって人の気配があるであろう方角へと歩を進める。
黙々と肩を並べて歩くことに耐えられなくなって口を開いた。
「萩原はさ、どうして私の居場所が分かったの?」
「この前GPSアプリを入れたじゃないか」
指摘されて、萩原に言われるがままに入れたアプリを思い出す。
よくよく考えると、下手に逃げずに防犯ブザーアプリを起動すればよかったのかもしれない。そうすれば萩原に迷惑をかけることもなかったのに。
「ついさっき今回みたいに居場所を割り出してって言ってたけど、あれハッタリだったの?」
「そうだよ。ああでも言わないと脅しにならないからな」
確かにGPSなんてネタがばれたら物部は復讐を考えるかもしれない。
でも居場所を突き止めた手段が分からない内は『もし』を考慮してうかつに動けない。いつどこから躍り出て顔を引っかかれるか分からないんだ。億を奪われることに怯えて過ごすよりは、してやられたことを水に流した方が建設的だろう。
「ごめんね、萩原」
「いいよ。俺は俺のために体を張っただけだから」
「萩原のためって?」
「期末試験の最終日に言ったのと同じだよ。燈香が笑顔を振りまいて、魚見が小悪魔やって、丸田がおにぎりしてる日常風景を守りたかったんだ」
「いつ聞いても思うけど、やっぱおにぎりしてるって変だよね」
意図せずくすっとした笑い声が口を突いた。
ほんと丸田はずるいなぁ、こんな時ですら面白いんだから。ちょっと嫉妬しちゃう。
いや、たぶんこれは嫉妬じゃない。
丸田笑いの種にして誤魔化したんだ。そうしないと、左胸の奥で鼓動を打ったものが別の形でもれ出しそうだったから。
微笑の維持に努めて再度口を開いた。
「日常を守るのってそんなに大事?」
「ああ、少なくとも俺にとってはな。誰だって大事な時間はある。魚見だって演劇をやってる時間は大切だろ?」
「それは、そうかも」
「釈然としない感じだな」
萩原が苦々しく口角を上げる。
何でだろう。萩原のこんな仕草は何度も見てきたのに、今はささいな表情の変化にも目が離せない。
ひょっとしてこれが吊り橋効果ってやつ? 怖い目に遭ってほっとしたから脳が勘違いしてる?
そうだ、そうに決まってる。
だってこんなのおかしいもの。私はイケメンが好きで、身長は百八十以上がよくて、役者として成功を収めて業界人とそういう仲になる予定だった。
萩原の顔立ちはそこそこ良いけど、身長は百八十に満たない。帰宅部よりも運動部がいいし、成績優秀者よりも運動部の部長と付き合いたい。
私は現金なタチだ。助けられたから惚れるなんて、そんな甘っちょろい女じゃない。
静まれ、静まれ私の心臓。
自分に言い聞かせる内に人混みが映った。知っている場所まで戻れたことを悟って自然と口角が浮き上がる。
「まあ、何にしてもさ」
萩原が振り向いて口元を緩めた。
「魚見が無事でよかった」
とくんと。
確かに、誤魔化しようもない鼓動が体の中を駆けめぐった。
肩を並べて歩くことが嬉しくて、着せてもらったコートに染みついた匂いがこそばゆくて、両手でコートの襟をぎゅっと寄せる。
「寒いか?」
「ううん、ちゃんと温かいよ。いや、やっぱりちょっと寒いかも。カフェに寄って行かない?」
「今からか? 一度帰って身なりを整えてからでも」
「今がいいの。萩原にお礼したいし、何か温かいもの奢らせてよ」
お尻の後ろで左手首を握り、身をひるがえして口角を上げる。
生きてきた十数年で恋をしたことはない。だからこの感情の正体には覚えがない。
でも今は萩原と言葉を交わしたい。
丸田はもちろん、親友の燈香にすらこの場に来てほしくない。独占欲だと指摘されれば否定はできないけど、私はそれでも構わない。
だって、萩原と一秒でも長く一緒にいたい。
泉のごとく湧き出るこの気持ちだけは嘘じゃないから。
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