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倦怠期カップルは思い出す  作者: 原滝飛沫
3章

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第61話 奪う喜び


「萩、原」

 

 見覚えのある顔が視界に映って、胸の奥でじわっと温かいものが込み上げる。

 

 どうして来てくれたの?


 どうして来ちゃったの?


 相反する二つの感情がせめぎ合う中、物部がおもむろに右の頬を向ける。


「驚いたなぁ、何でここが分かったの? いやそんなことより俺たち今取り込み中だからさ、帰ってくんない?」

「ああ、帰ってやるよ。魚見を引き渡してもらった後でな」


 舌を打ち鳴らした音が響き渡った。物部が背を向けて萩原に歩み寄る。


 思わず息を呑んだ。


「萩原!」

「大丈夫だよ」

 

 見慣れた顔に微笑が貼り付く。


 物部が足を止めた刹那、教室で何度も見てきた微笑みが苦悶くもんにゆがんだ。


 物部が萩原の腹部から右腕を引く。


「魚見ちゃんの前だからってかっこつけてんじゃねえよ」

「暴力に、ためらいがないんだな。役者なんだろ? 一応は」

「一応じゃねえからバリバリの役者だから。取るに足りないお前とは人間としての価値が違うの。分かる?」

「こんなのが明るみになれば、その価値は暴落するぞ? 俺が動画を撮ってるとは考えないのか?」

「撮ってるの? あはっ、じゃあ人でなしだねお前。なぶられてる魚見ちゃんを観賞しながらデバイス用意してたわけだ。とんだ変体野郎だなぁ。ねえねえ、何発抜いた?」

「もうその発言だけで幻滅ものだな。録音機があれば事足りそうだ」

「いいよ暴露しちゃっても。どうせ誰も信じないって。それに俺のことはファンが守ってくれるけど、ブレイク前の魚見ちゃんはどうなるかなー?」


 萩原が息を呑んだ。私が白状した時の発言を思い出しているのだろう。


 こんな時にまで気遣ってくれなくていい。自分を大事にして。


 私が言うべきだと分かっているのに、声を上げようとしても喉元に何かがつっかえる。


 物部が劇団に混じったのは、彼の知名度を活かして観客の動員を増やすためだ。


 演劇は娯楽の中でもマイナーな部類。大半の人々は見向きもしない。観客の母数を増やすにはよそから有名人を引っ張ってくるしかない。


 物部には動員数増加が見込めるだけのファンがついている。ドラマの出演やモデル業としての実績もある。


 問題が起こった時に切られるのは誰か。そんなのことは私でも分かる。優しい萩原が告発できないのは自明の理だ。


「ファンだって人間だ。誰が悪人かくらいの分別はつくさ」

「違うね! ファンは俺が俺である限り無条件で俺の味方なんだよ! この件を明るみに出したところで、無名の小娘がたぶらかしたって叩かれるのがオチさ!」


 物部が右腕を振りかぶった。


 萩原が顔の前で両腕を交差させる。


「ぐっ⁉」


 拳は前腕に当たったものの、続く膝蹴りがお腹に入った。


 小さな悲鳴が私の口を突いた。


 萩原が顔を歪めて地面に両ひざをつく。


「萩原っ!」

 

 呼びかけの声がむなしく響く。


 物部が萩原の髪をつかみ上げた。


「やめて……やめてよッ!」

「魚見ちゃーん。やめてほしいならさ、何か俺に言うことあるんじゃなーい?」


 物部が横目を向けて口端を吊り上げる。


 私が痛い目を見るのはいい。思わせぶりな態度を取って、問題を先延ばしにしてきたから自業自得だ。


 でも萩原は違う。


 こんな身勝手な私を助けてくれた。相談に乗ってくれた。私が近付いた目的を知っても幻滅しないで寄り添ってくれた。


 そんな人が私のせいで苦しむのは嫌だ。体よりも心が痛くて耐えられない。


「萩原には何もしないで。土下座、するから」

「下着で?」

「っ……」


 両手の指をぎゅっと丸める。


 脱ぐだけなら頑張ればできる。布面積は海水浴で着用したビキニと大して変わらない。寒いだろうけど、恥ずかしいだろうけど、水着を見せていると思い込めば耐えられる。


 でも、そんなあられもない姿で土下座するところを萩原に見られたくない。眼前の変態に肌を触れられるより泣きたくなる。


「できないならいいや。こっちで楽しむよ」

「ま、待って! やる、やるから」


 物部が満足げに笑んで萩原の髪を離した。私に向き直ってあごで促す。


 私は袖をつまんで右腕を引き抜く。


 突き刺さるいやらしい視線が圧となって心を締めつける。


 冷えた空気を深く吸って、左腕を勢いよく袖から引き抜いた。脱いだパーカーをたたんで地面の上に置く。


「次はデニムな」


 シャツのすそに伸ばしかけた手を止めた。口元を引き結んでデニムのフロントボタンに腕を伸ばす。


 シャツにパンティ。


 ぞくに言うあられもない姿。小鳥が鳴く時刻に男の子と二人きりでいたら、絶対何かを勘繰られるみだらな格好。


 男性に拝ませるのは初めてなのに、こんな形で見せる羽目になるなんて思いもしなかった。


 酷場を噛みしめて、目元に込み上げそうなものを必死にこらえる。


 駄目だ、泣くな。ここで泣いたら矜持きょうじすら失ってしまう。


 堂々と胸を張れ。毎日鍛えているから綺麗だろと見せびらかすんだ。そういう魚見華耶こそ、萩原が体を張って守ろうとしてくれた女の子なんだから。


 デニムのフロントボタンを外した。まぶたをぎゅっと閉じて、デニムを下ろそうと指に力をこめる。


「うおおおオオオオオオッ!」


 雄叫びを耳にしてバッと目を開ける。


 萩原が後ろから物部に組み付いた。左腕で物部の肩を拘束し、右手で物部の顔をわしづかみにする。


 物部の双眸そうぼうが見開かれた。


「バッ、顔に爪立てんなッ!」

「動くな」


 その一言で、物部がかなしばりに遭ったみたいに動きを止めた。


 萩原のささやき声が空気を震わせる。


「そうだ、じっとしてろ。そうすれば綺麗な三本線を刻むだけで済む」

「ば、馬鹿じゃねえのお前! 傷害だ、傷害罪だぞ! 分かってんのか⁉」


 爪を立てて一気に引けば皮膚がはがれる。顔の皮膚は薄い。高校生男子の腕力で実行すれば間違いなく傷跡きずあとが残る。


 お腹に拳や蹴りを叩き込むのとはわけが違う。一目で分かる傷害だ。警察が動くのは避けられない。


「待って萩原! 私は――」


 大丈夫だから。そう告げようとして言葉を失う。


 理性を失った獣のそれとは違う。萩原の顔に浮かぶ笑みは、思わず泣き出してしまいそうなほど温かく映る。


 表情に再び真剣身が戻った。


「顔を引っかくのが傷害なのは分かってるよ。でもそうしないと俺の気が収まらないからさ、じっとしててくれ。頼むよ」

「ざけんなッ! お前アレだぞ⁉ 俺の顔が傷つけば大勢の人が困るんだぞ⁉ そうだ億の金が飛ぶ! その負債はお前が背負うことになるんだぞ⁉ 分かってんのかッ⁉」

「つまり、取るに足りない俺でも億の傷を与えられるってことだな」

「はァッ⁉」


 頓狂とんきょうな響きが空気に溶ける。目を見開いて口をぱくぱくさせる様子からは、完全に落ち着きを失っていることがうかがえる。


 役者にとっての顔は商売道具だ。


 物部さんに至っては俳優やモデルもやっている。顔へのダメージは萩原や私以上に大きい。文字通り人生のレールが切り替わるレベルの損害になる。


 それを知ってか知らずか、萩原が口の端を吊り上げた。


「最高の気分だ。億を奪う喜びなんてもう二度と味わえないだろうし、免罪符をくれて感謝してるよ」

「馬鹿言ってんじゃねえ! こんなのが正当防衛になるわけねえだろ! まずは落ち着け、な? 話せば分かる!」

「じゃあ、いただきます」

「や、やめろおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ⁉」


 絶叫が響き渡った。


 沈黙が訪れても萩原の手は動かない。物部の乱れた呼吸音が場の空気をかき乱す。


 視界内の変化と言えば、物部の下半身を覆うベージュの内側が黒く変色したことだけだ。


 意図して低くされた声が沈黙を破った。


「今回は見逃してやる。でも次俺たちにちょっかい出してみろ、その時は確実に赤い三本線を刻んでやる。外国へ逃げても無駄だ。今回みたいに居場所を割り出して仕事中だろうが構わず乱入してやる。お友達にもそう言っとけ。いいな?」


 物部がブンブンと首を縦に振った。


「よし、行け」


 萩原が両腕を離す。


 物部が背中を向けた。何かを言い残すこともなく地面を蹴り鳴らして、憎たらしい背中が小さくなる。


 私たちは靴音が聞こえなくなるまでその場に立ち尽くした。



次話が2章の最終話です

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