第60話 本当の自分
いやらしい顔が近付いて反射的に顔を逸らした。まぶたをぎゅっと閉じて最低な奴を視界から隔離する。
「じゃあ、俺にごめんなさいしよっか?」
耳元でささやかれて背筋がぞわっとした。ぶるっとした震えが体中を駆けめぐる。
奥歯を食いしばって生理的な嫌悪感に耐える。
「ほら、どうしたの? ごめんなさいって言うだけだよ?」
周りに人影はない。こんな奴に謝るのは癪だけど、謝罪の言葉を吐くだけならタダだ。
震える口を無理やり開いた。
「ご、ごめん、なさい」
頭の上に生温かい物が乗って、ひゃっと情けない声が口を突いた。
「よくできましたー。じゃあ次は、私魚見は物部さんが大好きです。あんな男は嫌いですって言ってみようか」
あんな男。該当する人物は一人しかいない。
胸の奥に微かな熱が灯った。麻痺していた五感がすーっと落ち着きを取り戻す。
この場で怯えていても助けは来ない。調子づいた物部が私の大事なものを欲さないとも限らない。
だったら私自身が動くしかない。
怖くても、逃げ損ねたら痛みが待っているとしても、ただの被害者として蹂躙されるのだけはごめんだ。
意を決してごくりと喉を鳴らした。
「私、魚見は」
「うんうん」
「物部さんが、だいっきらいだッ!」
「痛ったッ⁉」
物部の左足を踏みしめて右側を駆け抜ける。
「なめんなくそアマッ!」
手首にグッと握られた感触があった。後方に流れる景色が停止して後ろに引かれる。
「離してッ!」
乱雑に右腕を振るって振り払おうと試みる。
手首を握りしめる手は全然離れない。身体能力には自信があるのに、やっぱり筋力の差は絶望的だ。
「なめんなっつってんだろうがッ!」
腕をぐいっと引かれて視界が前方に流れた。勢い余って地面に尻もちをつく。
「何勝手に逃げようとしちゃってるわけ? 俺に恥かかせたんだからさ、そう簡単に許すわけないって分かるよね?」
物部が足を止めて見下ろす。
私は地面から腰を浮かせて、正面にある顔をキッとにらみつけた。
「私は返事もしてないのに、早合点して嘘広めたのはそっちじゃん。既成事実を作れば私が落ちると思ってたの? そもそも他の連中けしかけて襲わせるとか、やることがこすいんだよ。だっさ!」
張り上げた声が静かな空間を駆けめぐる。
この声色だ。不敵で、どこまでも通りそうな響き。
自分を取り戻せた。ここにいない男の子に心の中で感謝を捧げる。
整えられた眉がピクッと揺れた。
「いい度胸してんねぇー。この状況分かってる? 言っとくけど叫んだって助けなんか来ないよ? わざわざあいつら使って人気のない場所に誘導したんだから」
「だから何? それで私が従順になると思ってんの?」
「あははははっ!」
愉快気な笑い声を上げられて眉をひそめる。
物部が一息ついて言葉を続けた。
「よく言うよーさっきまでびくぅ! ってなってたくせに」
「あんたが生理的に気持ち悪かったんだから仕方ないでしょ。誰だって目の前でゴキブリ跳ねたらびくってするよ」
「いいねぇーそれでこそ魚見ちゃんだよ、屈服させ甲斐があるなぁ。今度は下着姿で土下座とかいっちゃう?」
「いいねそれ。あんたにさせてあげる」
「後悔すんなよ」
物部が靴裏を浮かせた。散歩するような歩みが徐々にスピードを速めて助走に変わる。
腰を落として次なる事態に備える。
「やめろッ!」
張り上げられた声を耳にしたのは、物部が右腕を振りかぶった時だった。




