第59話 ふざけないでよ!
私は物部さんへ向けてアプリ越しにメッセージを送った。
了承の返事はすぐにきた。当日の朝を迎えて、前日の内に決めた衣服を手に取る。
デートじゃないことを視覚的に分からせるべく、身なりは黒いパーカーにデニム。可能な限り肌色を排除したコーデだ。
質素を心がけた一方でおしゃれは譲れない。つば付きの帽子をかぶって玄関を後にした。肌寒い空気を突っ切って街の景観に溶け込む。
待ち合わせている場所はカフェ店内。人がいるし、店内は落ち着きのあるシックな内装。そこら辺で言葉を交わすよりは物部さんも冷静になるはずだ。
話し合いの時間まであと三十分ほど。物部さんが時間通りに来るとは思えない。しばらくは店内で時間を潰すことになる。
身に付けたポーチには紙の本を入れてきた。
遅れて来るであろう物部さんを待つためのアイテム。電子書籍にした方がさばらないけど、紙の本といえば萩谷の印象が強い。私は独りじゃない。そんな気休目になると思ってこれをチョイスした。
ちゃんと別れ話を切り出せるだろうか。暴力を振るわれないだろうか。
不安を払拭できない間も目的地との距離が縮まる。左胸の奧から伝わる鼓動が速まる。
思わず足を止めて息を呑む。
あいつらだ。
突如夜道に現れて、萩原に拳を振るった連中がカフェの前に立っている。近くの友人と言葉を交わしながら、時折周囲を見渡して何かを探している。
何であいつらがここに?
内なる問いに答えを出すより早く目が合った。
大丈夫、あの時とは違って周りには人がいる。暴力的な連中でも大それたことはできないはず。
男たちが視線を交わして、私に向けて踏み出す。
背筋がぞくっとした。
気がついた時には身をひるがえして駆け出していた。待ち合わせ場所が遠のくことを後方へ流れる建物が教えてくれる。
戻らなきゃいけない。
物部さんと待ち合わせしているんだ。万が一時間通りにきたら物部さんが機嫌を損ねる。話を聞いてもらえないかもしれない。
でもあの連中につかまったらどのみちカフェには入れない。どうにかして振り切らないと!
人混みを突っ切りながら振り向く。
あいつら、人前なのにためらいなく追ってくる。きっと経験で知っているんだ。誰かが追われていても、それを阻止してくれる人は希少種だと。
誰だって各自の生活がある。助けたって褒美があるわけじゃないんだ。下手したら相手の暴力で一生ものの傷を負うかもしれない。見ず知らずの人のために体を張るなんて馬鹿げている。
それが真理だから、あの一件以来萩原の存在感が増した。私も萩原のそんな性質を利用しようと考えた。
ここに萩原がいたら、こんな私相手でも体を張って助けてくれるのかな。
視線がポーチに落ちる。
中にはスマートフォンが収まっている。走りながらコールをかければ萩原に状況を伝えられる。
足を動かしながらポーチの蓋を開けた。スマートフォンを握って萩原に電話をかける。
ワンコールせずにつながった。念のためスマートフォンを身に着けていたのかもしれない。
ほっと内心胸をなで下ろしてデバイスを耳元に当てた。
「萩原、た――」
助けて。
そう告げようとした刹那、喉元に何かがつかえた。
この前萩原が怪我を負ったのは誰のせい? 不用意に巻き込んだ私のせいじゃないか。
萩谷に格闘技の造詣はない。今度はくちびるを切るだけじゃすまないかもしれない。
だめ、もう萩原を巻き込むのはだめだ。
「どうした? 魚見?」
「う、ううん、何でもない!」
じゃあまた! そう言い残して通話を切った。スマートフォンをポーチに戻してひたすら地面を蹴り続ける。
靴音が遠ざかったのを機に物陰に隠れた。呼吸音を抑えて息苦しさに耐える。
何も聞こえない。靴音も耳に入らない。
振り切ったのだろう。深い安堵のため息が口を突いた。今日ほど毎朝ジョギングしてきてよかったと思ったことはない。
それにしてもここどこだろう。
「魚見ちゃーん」
「ひゃっ⁉」
変な声がもれた。バッと振り向いて息が詰まる。
声に違わない人物が立っていた。整った顔立ちには微笑が浮かんでいる。
そのいつもと変わらない様相が、私にはとても不気味に映った。
「も、物部さん、どうしてここに」
「どうしてって、逃げる魚見さんを見かけたからだよ」
「あいつら、は」
「ん? 俺が追い払ったよ。にしても薄情だよねーあの男」
「あの男、って?」
「あの彼氏気取りだよ。魚見ちゃんがこんなに大変な思いをしたのに、肝心な時にいないしさ。だから俺にしときなよって言ったでしょ? あんな冴えない役立たずよりも俺の方が――」
「ふざけないでよ!」
意図せず声を張り上げた。
目を丸くする物部さんをよそにまくしたてる。
「萩原は役に立ってくれた! あんたと違って、体を張って私を守ってくれたよ! なのに何を言うかと思えば、俺にしときなよだって? どの口がそれを言うの⁉ 私は見たことあるんだよ、あんたがあいつらと仲良くしゃべってるところを。私は全部知ってるんだ!」
寒々しい空間に張り上げた声が響き渡る。
眼前にある瞳がすぼめられた。
「へえ、全部知ってるんだ?」
物部さんが足を前に出す。
「全部知ってるならさ、俺がうわさを広めたこと知ってるよね?」
「うわさ?」
「俺と君が付き合ってるってやつだよ」
思わず目を見開いた。
「あれって、あんたが広めたうわさだったの?」
「そうだよ」
悪びれもしない声色を耳にして、胸の奥でカッと熱いものが噴き上がる。
それが言葉となって口を突く前に視界がぶれた。
「……え?」
頭の中が漂白された。次第に頬がじんじんと熱を帯びる。
私、今頬を張られた?
おもむろに視線を戻すと、そこには瞠目する物部さんの顔があった。
「ほんとひどいよねぇ魚見ちゃん。俺にしときなよって言ったのに、まーだあんな冴えない方とつるんでるんだもん。普通暴漢から助けられたら惚れるっしょ? 何で惚れないの? 魚見ちゃん絶対悪女の素質あるよねー」
「や……来ないで」
足元ですれる音が鳴り響く。
物部さんの歩みは止まらない。コンクリートの地面を踏み鳴らして一歩、また一歩と距離を詰める。
逃げなきゃ。物部さんの横をすれ違って、一目散に走らなきゃ。
頭では分かっているのに、足は後ろにしか動いてくれない。
背中に軽い衝撃を受けて口から小さく吐息がもれる。
顔のすぐ横に突きが繰り出された。耳元の打撃音で意図せず体がぴくっと跳ねる。
眼前にある顔がニィーッと口端を吊り上げた。
「いいねーその表情。いつもいい笑顔を振りまいて男をもてあそんでるけどさ、こうやって立場逆転されてみてどんな感じ? ほら、いつもの小悪魔みたいな笑み浮かべてみてよ。すぐぶっ壊してやるからさ」
「や、やめて……お願いだから」
弱々しい声色が裏返った。
これが自分の声だって思いたくない。




